(40)大和トンネル
舞と仁樹を乗せたフェラーリGTOは、東名高速道路を西へと走っていた。
朝の通勤時間で東京へと向かう上り線はそれなりに混んでいたが、下り線の流れはスムーズで、大半はトラックや営業車等の仕事で走っている車で走っている車で占められていた。
晴天に恵まれた高速道路が、このまま勤めを放り出してどこか遠くへと行きたくなる雰囲気に包まれる中、その願望を物凄いスピードで叶える赤い魔物が駆け抜けた。
仁樹のフェラーリは250kmを超える速度で、高速道路の制限速度に幾らか足したスピードで走る車を左右から抜きながら走っていた。
一般車の流れによって作られる、路上の多数決ともいえる現実的な速度を、フェラーリは幻想的なまでスピードを以って無視し、踏みにじり、強烈な排気音を残して走り去る。
その車体の形状すら見えるほどの速度差で真横を通過し、あっという間に前方視界の外へと消えていくフェラーリは、善良なドライバーにとって非常に傍迷惑な存在だった。
本当の意味で有害だったのは、その騒音や、高速で追い抜かれることによる心理的不安感よりも、彼らが自らの心の奥に封じ込めた赤い概念のような存在が形になって目の前に現れたことへの動揺。
ドライバーたちは顔では舌打ちしながらも、自分の乗っている鈍重な仕事道具がサラブレッドのように駆ける姿を見たいという誘惑と、アクセルを底まで踏み込みたくなる右足を理性で食い止め、たった今おのれの目で見た赤い幻を忘れるべく努力した。
激しいドライヴィングでフェラーリを操縦する仁樹の隣に座る舞はといえば、最初は生きた心地がしなかったが、徐々にこの状況を楽しむとまでは言わないまでも出来るだけリラックスして過ごす事を覚えつつあった。
死んだ父は舞が母胎内に居る頃から、フェラーリだけでなく色々な車種で、こんな無謀なドライヴィングを当たり前のように行っていた。
舞は高速で走る車に、それに対する好き嫌いはともかく慣れていたが。一つ不安要素があるならば、舞の主観で見る限り仁樹の運転が父親よりだいぶヘタクソであること。
三車線+路肩の高速道路で、前方に邪魔な車が居る時、舞が覚えている限り父親には、そういう車が父の車のために車線を変えて道を空ける、眼力のようなものがあったが、仁樹はそれらの車に出来るだけ接近や通過を意識させぬよう、速やかに抜き去る。
邪魔なものは全て切り開く力を感じさせた父に比べ、仁樹の走りは普段の彼のように、他車を自分とは違う世界の車、別種の領域に棲む存在として、介入、干渉せぬまま通り過ぎるような印象。
舞は正直なところ、仁樹と同じ家に住み始めて、彼に去年死んだばかりの父親の面影を追っていた部分もあったが、無口で無感情な仁樹を多少なりとも人間的な存在にするフェラーリに乗ることで気付いた。仁樹は父とは根本的に異なる。情熱的で直感と衝動を重んじた父と違い、仁樹はどこまでも冷たく、熱い魂の象徴のようなフェラーリに乗っていても変わらない。
仁樹がこの真っ赤なフェラーリが彼の感情を奪いながら走っているのか、それとも彼が人として生きていくには不足している情操をフェラーリから得て、かろうじて生命を存続させているのかはわからない。
舞はこの男が、自分には全く理解できない生物であることだけは理解した。
フェラーリは東名高速の横浜町田インターから神奈川中部を走り、大和トンネルに飛び込んだ。
山岳を貫いているわけではなく、上部に道路や鉄道も通っていない謎のトンネルは、近隣の米軍厚木基地を離発着する航空機の墜落や部品落下による被害を防止するという、わけのわからない理由で地下構造になっている、東名高速における渋滞の病巣の一つ。
トンネルの外よりも高速走行における圧迫感や恐怖の大きい暗く狭い道を、仁樹はフェラーリのスピードを落とすことなく走り抜ける。
舞は自分の頬を横壁に擦られるような思いに、少し恐怖を覚えたが、それを仁樹に訴えても、彼がスピードを落としてくれる可能性など皆無だとわかっていたので、平静を装った。
フェラーリは大和トンネルを出る。内外の気圧差と道路の起伏でフェラーリの車体に衝撃が走るが、仁樹はアクセルワークとハンドル操作で車体の挙動を抑え込み、ブレーキを踏むことなく走り続ける。
トンネル出口付近の、左右を高い壁に囲まれた堀割のような高速道路で、舞の目の前を巨大な物体が通過した。
厚木基地へと着陸するため、東名高速を横切るようにアプローチをする、米軍のFA-18スーパーホーネット艦載機。
他所から来た人間は、パイロットの表情すら見えるほど至近を通る航空機に驚くところだが、舞は既に中学以前に三姉妹で住んでいた御殿場のマンションから都下に引っ越してくる時の、数回の往復で目にしている。
舞はジェット排気音を残しながら横断したスーパーホーネットを指差した。
「あんたのフェラーリでも、あれには敵わないわね」
激しいエンジン音と排気音の中での会話は、若干声を張り上げる感じになるが、舞はもう慣れていたし、フェラーリの操縦に集中している仁樹に話しかけるという、ちょっと勇気の必要な行動には、これくらい勢いがあったほうがいい。
返事など期待していなかったからかいの言葉に、仁樹が返答したのは舞にとって意外だった。
舞ほど大きな発声ではないが、フェラーリの発する音の中ではっきりと聞こえる声。
「そうだな」
返事をしてくれたとはいえ、無味乾燥すぎる相槌、やっぱりこの男は、少々のお喋り機能がオマケに付いただけの、フェラーリを操縦する機械。
なぜか失望に似た気持ちを味わった舞は、自分の背が今までより強く押し付けられていることに気付いた。
一拍遅れてやってきた音と振動の変化から、フェラーリの速度が上がっていることを知る。
東名高速は直線と緩い曲線を描き海老名、綾瀬、厚木市内を通過している。高速走行で道路の曲率や傾斜より重要な、前方の見通しが良好な道路環境。
舞には仁樹がフェラーリのスピードを上げたのが、道のせいでないことはわかっていた。ブっ飛ばすならそれ以前にほぼ直線な箇所が幾らでもあった。
他に思いつく理由は一つ。舞がつい先ほど指差したスーパーホーネット戦闘機。
この男は自転車で飛行機を追っかける子供みたいに、自分のフェラーリでマッハの速度で飛ぶジェット機に勝とうとしているんだろうか?
それとも。
舞は頭をブルンと振り、たった今思い浮かんだ仮説を打ち消した。
私を失望させないため、なんてことはあるわけない。




