(39)出発
二人は新横浜駅近くの路上に停めたフェラーリから、ゆっくりと走り去る新幹線を眺めた。
「行っちゃったね」
舞は呆然とした様子で、列車も生徒も居ない高架ホームを見ていた。
膝下のバッグに詰めた修学旅行の準備も、さっき買ったシャンプーも、たった今ムダになった。
舞は仁樹を振り返る。運転席の仁樹はいつもと変わらない無表情のまま、視線は駅ではなく舞に向いていた。
「あんたがモタモタしてるから」
見当違いの文句であることはわかっていた。ただこの男の平静さに、今はどうしようもなく腹が立った。
舞の八つ当たりに反応せず、ただ舞を見つめていた仁樹が口を開く。
「修学旅行に、行きたいのか?」
何バカなことを聞いている、と思った舞は、ついヒステリックな声を出した。
「行きたかったに決まってるでしょ!ずっと楽しみにしてたし!」
念を押すように言った言葉の意味を、舞は少し考えた。私は修学旅行の何を楽しみにしていたのか。クラスの友達と新幹線に乗り、観光地を回ってホテルに泊まる。友達という言葉を思いついたとき、舞の頭の中に誰の顔を浮かべたらいいのか迷った。
「じゃあ、行くぞ」
仁樹の口調があまりにも冷静で平板だったので、舞には意味を理解するまでに時間がかかった。
彼が何をしようとしているのかを知ったのは、路肩から急発進したフェラーリのタイヤが鳴る音を聞いた時。
新横浜駅前を新幹線の路線に沿うように通る環状二号線を、フェラーリは前車を次々と抜きながら走る。
横浜アリーナ手前で四輪を滑らせながら交差点を曲がり、日産スタジアムの前を通る広い県道を走ったフェラーリは、第三京浜の港北インターに入った。
工業地帯にある自動車専用道路の入り口を、通行する車の大半を占めるトラックや業務用バンを縫いながら走るフェラーリ。金持ちの遊び車の強引な走りに周囲の働く車が時折クラクションを鳴らしたが、仁樹は動じることなくETC料金所を通過する。
「ちょっと何の積もりよ?どこ連れてく積もり?」
続きの言葉は、料金所から本線に入る導入路のカーブで、体を横方向から襲うGに圧し殺された。
本線に入ったフェラーリを加速させながら、仁樹が言う。
「修学旅行に行く」
横Gの次は加速Gでシートに押し付けられる体に抗うように、舞は声を上げる。
「だから新幹線行っちゃったのよ!あんたのせいで」
仁樹はスピードを増していくフェラーリの運転席で、家のリビングに居るような落ち着いた口調のまま言う。
「追いつけばいい」
車で新幹線に追いつくなんて聞いたことない。それに駅から他車を縫って第三京浜に入るまでの間に、新幹線はだいぶ先まで走って行ってしまった。
舞は仁樹の狂気じみた遊びに付き合う気は無い。こんな男と一緒に無茶をして事故を起こすなんて、考えうる限り最悪の死に様。舞は仁樹に言った。
「追いつけるの?」
既にフェラーリは、他車が止まって見えるほどの速度を出している。舞にはさっきまで農道を飛ばしていたのが、ほんの前置きに思えた。
前戯、という言葉を思いつき、ボっと顔を赤くして頭を振った舞の耳に、いつもと変わらない、むしろ舞の知るいつもの仁樹より安定した声が聞こえる。
「どこで追いつきたいかによる」
舞はシートベルトで体を拘束された状態のまま、苦労して脚の間に手を突っ込み、膝下の旅行バッグから修学旅行のしおりを取り出す。
「京都よ」
第三京浜から保土ヶ谷バイパスに入るフェラーリの、絶えず揺れる車内で念を押すように言う。
「12時5分に京都到着。それに間に合う?」
第三京浜より通行量の多い保土ヶ谷バイパスで、仁樹はフェラーリをスラロームさせて前車を抜きながら答えた。
「可能だ」
フェラーリは横浜町田インターから東名高速に入る。舞は導入路のカーブに備えて足を踏ん張り、ドアグリップを掴みながら言った。
「じゃあ急いで!私を修学旅行に連れていきなさい!」
仁樹のごく短い了解の返事は、フェラーリを続けざまにシフトダウンさせる金蔵音と、タイヤを滑らせるスキール音、そして舞の父が宝石のようだと言っていたフェラーリの排気音にかき消された。




