(38)ドラッグストア
薬局はありがたいことに、新横浜駅から比較的近い場所にあった。
修学旅行に行く生徒の集合場所となっている駅前ターミナルから離れるように、三車線の幹線道路を少し走ると、神奈川郊外に多いロードサイド型の大型ドラッグストアがあった。
駅前に集まっている生徒までは見えないが、新幹線の線路とホームの端が視界に入るくらいの近距離。舞はとても都合のいい状況を余り気に入っていない様子でシートベルトを外した。
不機嫌の理由を考えたが、この男と一緒に居る時の自分は常に機嫌が悪いということを思い出し、今更の事と納得した。
舞はフェラーリのドアを開け、低いシートから幅広いサイドシルを跨いで外に出る。仁樹が舞のためにドアを開けることも、降りる時に手を貸すことすらしない事にはもう慣れたが、彼がシートベルトを締めたまま、フェラーリから降りる様子が無いのを見た舞は、左側に回ってドアに手をかけた。
鉄とファイバー素材の軽い運転席ドアは、ノブを引いただけで開く。舞が思った通り仁樹は走行中ドアロックするアメリカ式ではなく、車を離れる時以外はドアをロックしないヨーロッパ式。
日本の自動車教習所は原則的にセキュリティ重視のアメリカ式で統一されているが、事故時の乗員救助を優先したヨーロッパ式の考え方も教えられるという。走行中勝手にドアをロックする車は最初からその選択すらさせてもらえないが。
運転席ドアを開け、仁樹を見下ろす格好になった舞は言う。
「あんたも来なさい」
仁樹は舞の言葉が聞こえなかったかのように、フロントガラス越しに前方を見ていた。ドラッグストアの駐車場に停まったフェラーリの中で、走り出す時間を待っているように見える。
「わたしだって一応は女なんだから。男のあんたは買い物の荷物持ちくらいしなさいよ」
仁樹の姿勢は変わらず、視線すらも動かないのを見た舞が、襟首掴んで引っ張り出そうとしたところ、仁樹はシートベルトを外し、フェラーリから出る。
盗難防止上最も安全と言われているが、その権限を持った人間が容易に乗っ取ることが出来るイモビライザーキーではなく、古臭い金属製のキーでフェラーリのドアをロックした仁樹は、フェンダーの中に手を突っ込んで何かのスイッチを入れた後、フェラーリを離れる。
舞は仁樹がフェラーリから降りたのを見てさっさと店内に入る。仁樹はその後ろから少し離れてついてきた。店内に入る時には二人揃っていたのは、舞が背を向けながらチラチラと仁樹を見て、歩調を合わせていたから。
郊外型の大型ドラッグストアは、外観だけでなく内部も広かった。
食品と生活用品のスーパーも兼ねているらしく、調剤薬局は端に追いやられている。
舞はすぐ後ろに仁樹を従えつつ、店内を歩き回る。ここに来た目的は、旅行バッグに入れ忘れたシャンプーを買うため。
正直なところ、こんな要求をしても仁樹は、シャンプーならホテルにある、とか、現地で買うなり借りるなりすればいい、と言って寄り道することなく駅前で自分をフェラーリから下ろすと思い、それなりに反論すべく理論武装もしていたが、仁樹は何も言わずドラッグストアまで連れていってくれた。
店内に入ってすぐ正面の棚がバス用品のコーナー。舞に性急な選択肢を突きつけるように各種のシャンプーが並んでいる。
舞は幾つかのシャンプーを手に取って見比べながら言った。
「あんたも買いたいものがあったら買い物を済ませてきていいわよ」
仁樹からすぐに返事が来る。
「無い」
確かに舞が見る限り、仁樹は薬や病気に縁があるように見えない。身体強健というより、病気などという人間的な機能を与えられていない、不完全な機械のような印象。
それにシャンプーも、振り返った舞の視界に仁樹のスキンヘッドが映り、思わず吹き出す。
舞は笑いをこらえながら幾つかのシャンプーを手に持ち、仁樹に話しかけた。
「あんたはどっちがいいと思う?」
聞いても無駄だと思った。仁樹がシャンプーなど使いようもない頭なのはともかく、少なくともこの男は、女の髪を気遣うような奴じゃない。
舞の予想に反し、仁樹は舞が特に意識せず、瓶が綺麗だったから手に取った輸入物のシャンプーを指差した。
「この中から選ぶなら、これがいい」
仁樹の意外な発言に、苛立ちより戸惑いを覚えた舞は食ってかかった。
「あんたに女のシャンプーなんてわかるの?」
仁樹は相変わらず表情を変えないまま、舞が手にしているもう一つのシャンプーを指差す。これもボトルのデザインを気に入って選んだ。
「仕事で付き合いのある広告代理店が、このシャンプーの広告を請け負っていた。既存品の長期在庫をパッケージとコマーシャルだけ新しくして値段を上乗せした商品だから、売るのに苦労すると言っていた」
舞は仁樹が指差したシャンプーを眺めた。途端に安っぽく見える。仁樹は最初に選んだシャンプーを指差した。
「こちらはそういう悪評を聞かない。パッケージもケミカルの配合も、ずっと変わっていない」
確かに仁樹が選んだシャンプーは、舞が幼い頃から真理の読んでいた海外版の女性誌で、昔からよく見かけた物だった。
選択の答えは明快に決まる。舞は仁樹へのあてつけで、彼が選ばなかったシャンプーを買ってやろうかとも思ったが、このシャンプーの香りを髪に纏う自分を想像た舞は、それが妙に気に入らず、結局仁樹が選んだシャンプーを買い物カゴに入れた。
シャンプーひとつを買うため、二人でレジに並ぶ。舞は不意に、自分たちが周りの人にはどんなふうに見えているだろうかと考えた。まぁ、シャンプーを買いに来たようにしか見えないだろう。そう思いながら支払いを済ませる。
ドラッグストアの買い物袋を下げて二人でフェラーリに戻った。仁樹がフェンダー内にある何かのスイッチを操作し、ドアにキーを挿してロックを解除する。
舞は仁樹が自分のためにドアを開けてくれることなど無いことはわかっていたが、ふと姉の真理ならどうだろうと思った。あるいは妹のまるなら。
考えても無駄なことはわかっていたので、自分でドアを開けてフェラーリに乗り込む。少なくとも仁樹は、舞がシートベルトを締めたのを確認してから自分のベルトを締める。
忘れ物のシャンプーを無事に買い終わり、フェラーリはドラッグストアの駐車場を出た。目的地の新横浜駅前は、ここからほんの数分。
舞はセイコーのダイバーズウォッチを見ながら言った。
「8時32分発のこだま博多行き。それに乗らなきゃいけないの」
新横浜の駅が見えてくる。仁樹が自分のブルガリ・クロノグラフを見ながら言った。
「それはきっとあの新幹線だろう」
二人が時計を見るまでもなく、駅前の大きな時計が、もうわかっている答えを突きつけてきた。
修学旅行に行く新幹線は、たった今ホームから発車するところだった。




