(36)新横浜
「いいぞ」
舞の一方的な要求に仁樹はあっさり答えた。
「東京駅か?」
若干気圧されたのは舞の方だった。驚かされたのは、仁樹が大事にしているフェラーリに舞を乗せてくれることだけではなく、真理の作った朝食にしか興味が無いように見えた仁樹が、舞がこれから学校ではなく修学旅行に行く事、そのために新幹線の駅に向かわなくてはいけない事を既に把握しているという事実。
朝からあれだけ騒がしくしていれば、聞く気は無くとも耳に入ってくるだろうな、と思った舞は、仁樹の問いに返答する。
「ううん、新横浜」
ついさっきの勢いが削がれ、仁樹の顔色を窺うような声色になる。仁樹は真理の淹れたお茶を飲みきった後で言った。
「わかった。行くぞ」
仁樹はそれだけ言うと、舞を見ることもせず、真理に今朝の朝食とお茶の礼を言った後リビングを出る。舞は慌てて旅行荷物を抱え、仁樹の背を追いかけた。
一階のガレージに下りた仁樹は、以前舞を学校まで送り届けた時と同じように、フェラーリのエンジンをかけてから舞に言う。
「乗れ」
仁樹は朝食の時に着ていたグリーンの整備用ツナギに、トレトンの布製デッキシューズのまま、何一つ荷物を持たずフェラーリに乗り込んでいる
舞はフェラーリの右側に回り、ドアを開けて乗り込む。仁樹に女性のためにドアを開けることなど期待しても無駄だということはわかってる。
分厚いサイドシルを跨いで、市販されているどの乗用車よりも低いフェラーリのシートに座った舞は、シートの前後と背もたれの角度を調整した後、両肩に通す競技用シートベルトを締めた。
以前このフェラーリに乗った時には、ベルトの締め方すらわからず仁樹に任せることになった。また体をいじくられてはたまらないと思い、自分もスムーズな乗車を心がけた。
乗るたびにいちいちこんな気遣いをしなくてはいけないなんて。舞が駅までのタクシー替わりに使おうとしているフェラーリは、タクシーとは車種の違いだけではない根本的な差異がある。同じ犬の犬種が違うのではなく、犬と狼の違い。
舞には面倒くさいとしか思えない作業を、仁樹は無駄のない動きで行い、各種メーターを見ている。
それから視線を横に向けた仁樹は、計器の一つを見るような目つきで舞を見て言う。
「荷物は膝の下に置け」
狭い二人乗りで、トランクといえる物の無いフェラーリGTO。舞はシートベルトで上半身を固定された状態のまま、苦労して小型のボストンバッグを膝の下に押し込んだ。
舞が荷物を所定の場所に置き、姿勢を正したのを確認した仁樹は、ドアポケットから電動シャッターを開閉するリモコンキーを取り出して押す。
シャッターが開き、外の道路が見えてくる。こないだこのフェラーリに乗った時は、そこから先は目的地まで刺激と恐怖しか無い時間だった。
隣の市にある学校よりもずっと遠い目的地。舞はあの朝の興奮を思い出した。
なぜか顔は自然と、狂気と魔性を孕んだような笑顔になった。
シャッターが開き、フェラーリは修学旅行の集合場所へと走り出した。
目的地は新幹線始発の東京駅でなく、その二駅先の新横浜駅。
都下に住んでいると、学校の行事でも旅行や出張でも、新幹線に乗る時は同じ都内の東京駅ではなく隣県の新横浜駅を利用することが多い。
町田のようにJR一本で行ける市はともかく、他の都下市町村に住んでいれば東京駅もも新横浜駅もも乗り換えの回数は変わらないが、新横浜のほうが物理的な距離が近く、道路も空いているので電車で行く人間と車やバスで行く人間が待ち合わせしやすい。
新横浜から出ているのは各駅停車のこだまだが、東京駅まで行ってのぞみに乗るよりも結果的には目的地に早く着く。
舞が姉妹と共に中学まで住んでいた御殿場から都下に引っ越した時も、当日はトラックで来たが、それ以前の内見や入試、入学手続き等で新幹線を使った時は新横浜で乗降した。そこから家までの道は、タクシーに乗った時に見た限り退屈な都下の幹線道路。
ガレージからフェラーリで走り出した仁樹も、最初のうちはタクシーやバスと同じように自宅近くの都道を走っていた。
走り出してからしばらくは、以前学校まで行った時と同じく、仁樹はさほど速いスピードを出さなかった。
オーディオシステムらしき物が見当たらないフェラーリ。あっても背中のすぐ後ろで振動を伝えてくるエンジンの作動音と排気音がうるさくてまともに聞こえない。
仁樹も舞もただ無言のまま、フェラーリのエンジン音と、金属に金属を装填する音が直に聞こえるシフトチェンジの音が聞こえる、たまにブレーキがキーっと鳴く音。
舞は以前、真理から仁樹のフェラーリに装着されているカーボンディスクのブレーキは、緩慢な走りで冷えているうちは踏んでも音が鳴るだけでろくに利かないと聞いたことがある。
止まることが目的のブレーキなのに止まれないなんて馬鹿げていると思ったが、それはもっと馬鹿げた走りを行う時に高いブレーキ性能を発揮するため。舞には全く理解できなかった。
フェラーリは平日の朝としては普通程度に混み合った幹線道路を、他の車が作る流れに従って走っている。舞が覚えている限り、ここから新横浜まではずっと平地で、仁樹があの気違いじみた走りを行ったような山道は無い。
このまま大人しく走り、順調に新横浜の駅まで到着するのかな、と舞は思った、そうすれば舞は問題なく集合時間に間に合い、修学旅行に参加できる。
安全で平穏で予定通りで、つまらない。
安心と失望がないまぜになった舞の心が裏切られたのは、仁樹の運転するフェラーリが幹線道路を離れた時からだった。




