(35)修学旅行
真理の風邪は、一日の静養と仁樹の手厚いような、必要最小限なような看病を受けて、翌日にはほぼ直った
夜になって体調が戻ってきたことを自覚した真理は、夜も仁樹に一緒に居てもらうべく、わざとまた寒気が出てきたフリをする余裕さえ見せたが、仁樹は舞やまるが帰ってくると看病を二人に任せ、キッチンで夕食を作ったり、真理が毎日やっている家の掃除をしていた。
いつもと変わらない、あえて言うなら一日中寝ていた後で夜も寝る怠惰な一夜が明けた翌朝、真理はいつも通り三姉妹と仁樹の朝食を作っている。
変わったところがあるとすれば、仁樹に話しかける回数が少し増えた。今まで真理が感じていた、真理に献身的な仁樹に対する気後れや遠慮が、仁樹自身の口からその理由を聞かされたことで薄まる。仁樹と真理の距離は、真理の主観では今までより更に近くなった。
妹の舞とまるは変わらない。日課のジョギングを終えて朝食をかきこんでいる舞は、早起きながら学校の始業時間を読み間違えたらしく、遅刻しそうな状況で、なぜか仁樹に文句を言っている。
まるはまだ登校時間に余裕があるらしく、朝食を終えてテレビを見ている。途中でテレビに映るフィレンツェの市場が出てきたのを見たまるが、自分の描いている絵のモチーフとして閃きを得たのか、画面を指しながら仁樹に色々と聞いてくる。
フィレンツェに行ったことも、そこにあるカッポーニ書宮に滞在していたこともある仁樹は、まるの質問に答えている。無表情ながらまると一緒にテレビを見ることに楽しみの感情を抱いているようにさえ見える。
仁樹が真理に何かしてあげることに充足を覚えているように、まると一緒に何かをしている仁樹は、彼に似合わぬ人間らしさを窺わせる。
数年ぶりの再会で少しずつ距離を縮めている仁樹と真理。十二年経って初めて会ったのに、生まれてからずっとこうしているかのような仁樹とまる。
そのどちらでもない舞も、相変わらず仁樹に対して不満や挑発を言っているが、その関係は奇妙な安定をしていた。
舞の言葉を受け止めるでも拒絶するでもなく、いつも直裁な返答をする仁樹。舞は反論も無視もしない彼の前では、気兼ねなく感情を露にしている。少なくとも舞がここまで自分を見せている相手は他に居ない。
今朝の舞は、いつもより荒れていた。
今日は普段より早く家を出なくてはいけない事を、いつも通りの時間にジョギングと朝食を済ませた後で思い出した舞は、なぜか仁樹に文句を言いながら、いつもの授業より多い荷物の準備をしていた。
高等部に通う舞の学年で予定されていたのは、修学旅行。
五月の連休を直後に控えた時期。新入学のオリエンテーションが終わって間もない、修学旅行としては季節はずれな時期の行事はこの学園の慣習。
中高大一貫教育の学園。内部進学生と外部から受験して入ってきた生徒。まだ馴染まぬクラスメイトの親睦を図ることが目的だという。
そんな修学旅行の当日。真理の風邪による混乱もあって、旅行のことも、新幹線の駅に集合するためいつもより早く家を出なくてはいけないことも綺麗に忘れていた舞は、今になって必死で準備をしていた。
舞は元々寝坊をするタイプではなく、病欠とも縁遠い。東京都下の学園に進学するより前、御殿場の中学に通っていた頃は皆勤賞を貰っていたが、新しい環境への適応には人より時間がかかった。
住居を変え、通う学校も通学方法も変わった高校生としての生活が始まって一ヶ月弱。家を出る時間を勘違いして遅刻寸前になったことは数回あって、そのうちの一回は仁樹のフェラーリで送迎してもらった。
やっと旅行の準備を終えたらしき舞は、もう一度腕時計を見る。今から集合場所として予定されている新幹線の駅まで、バスと電車で急いでも、着くのは新幹線が出た後。
朝食の後片付けを終えた真理は、狼狽する妹を見てエプロンを外す。
「舞ちゃん落ち着いて。お姉ちゃんが駅まで送ってあげるから」
この家には真理の買い物や日常の足に使うトヨタの四人乗りトラックがある。舞は携帯で時間を見ることの多い最近の女子があまり着けなくなった腕時計をもう一度見た。
女子には不似合いだけど、長身で手足もそこらのひ弱な男子より逞しい舞には奇妙な調和を見せているセイコーのステンレス製ダイバーズウォッチ。父が遺したもの。正確には父の収集していた腕時計の中でも、死後の売却で表面の傷の多さ等から売れ残った物。
舞も父の形見という気持ちより、ただの家に転がってた中古品という意識のほうが大きく、そのうち口先八寸で仁樹の着けているブルガリのクロノグラフと取り替えてやろうかなと思っていた。
時計を見た舞は首を振る。
「今からじゃ車で出ても間に合わないわよ!」
舞は大丈夫大丈夫と言ってさっさと支度を始めようとする真理を止めた。
「真理姉ぇまだ病み上がりでしょ?それに免許取ってまだ一年しないうちにスピード違反とかカッコ悪いわよ」
そこまで言った舞は、リビングで真理の淹れたお茶を飲んでいた仁樹を見る。
うちにはもう一人、免許を持った奴が居て、都合いいことに捕まろうが事故で死のうが舞にとって痛くも痒くもない相手。
「あんたヒマそうにしてんなら私を駅まで送りなさい!フェラーリで」
しかも、その男が乗っているのは、車の形をしていて車でない、普通の車には出来ないことが出来る物。




