(24)まるのお兄ちゃん
まるは仁樹の前で泣いている。流れ出てくる涙を拳で何度も拭っている。
仁樹は気付いた。この父にも母にも似なかった女の子は自分に似ている。目元や鼻筋だけではなく、自分の好きなものへの姿勢がよく似ている。
仁樹は自分が初めてフェラーリに触れた時のことを思い出した。乗っていても整備をしていても、フェラーリは注いだ時間と愛情をそのまま返してくれたことより、裏切られたり無為に終わらされたことのほうが多かった。
注ぎ込んだ金と時間が一瞬のうちに霧散し、生活や人間関係を奪い、隙あらば命さえ取ろうとする、そんなフェラーリと離れられるかといえば、それは明白な結果と共に今の暮らしがある。
仁樹はまるが破り捨てた絵を拾い上げ、有償の仕事や余暇の趣味では到底描けない細密な描き込みを見ながら言った。
「俺はフェラーリに乗っている」
とりあえず絵を描く作業を一段落させ、仁樹の話を聞く体制になってくれたらしきまるは、目じりに残る涙を拭いながら言う。
「うん、知ってるよ」
無理して笑うまる。仁樹は自分がフェラーリにかかりきりになっている時、随分多くの人間の善意や好意を無視していたことを思い出した。
仁樹に興味を持ち、身を案じてくれた子は今までにも何人か居て、いつも気まぐれな反応しかしない仁樹に、忍耐強くフェラーリだけでない遊びへの誘いや夜食の差し入れをしてくれた。
整備にかかりきりになった挙句、何日も飲まず食わずで作業をしていた仁樹を見かねて、栄養補助ゼリーを口に押し込んでくれた子の顔を思い出そうとしたが、その声や姿は現在の仁樹の頭の中では結像しなかった。ただ、彼女をひどく傷つけたことだけは、特に重要度の高くない情報としてかろうじて覚えていた。
仁樹はまるの顔を見ず、描かれた絵を見ながら話し続ける。
「速い乗り物に乗りたければ新幹線がある、楽しく走りたいなら、自分の足で走ればより刺激が多い体験が出来るだろう」
まるは仁樹の顔を見上げていた。生まれてから数日前ここに引っ越してくるまで一度も会ったことの無い仁樹の顔を、十二歳になるまでずっと一緒に居た相手を見るように見つめている。
そうしたかったという望みと共に見ているようにも感じられた。
仁樹はもう一度言った。
「それでも俺は、フェラーリに乗っている」
まるは仁樹が持っている絵を見て、それから後ろの机を振り返り、自分の描いている絵を見た。
写真と見紛うほどの絵、作画ソフトで誰でも作成できるような絵、それでもこれは、まるの絵。
まるはもう一度仁樹を見て、言った。
「その話よくわかんないや、でも、ありがとう、お、兄ちゃん」
まるは描きかけの絵を振り返り、ボールペンを手に取った。
しばらくペンを手で弄んでいたまるは、机に放り出しながら言う。
「わたし描くよ、絵を描くの好きだもん、でも、ちょっと休憩しよっかなー!」
まるは椅子から勢いよく立ち上がる。座りっぱなしの姿勢が長かったらしくふらつく足。転びそうになったまるは仁樹の腕に掴まった。
仁樹がまるの支えになる位置に立っていたのは、偶然かもしれない。
「お腹減っちゃった!お兄ちゃん一緒に晩ごはん食べよ」
仁樹はまるを無視して勝手に部屋を出るように、あるいはまるを導くように歩きながら言う。
「俺はもう食べた」
まるは仁樹の前に回りこみながら言う。
「いいじゃんもう一回食べようよー」
仁樹はそうするともしないとも答えず、まるに腕を引かれながら廊下を歩く。
階段を登りながら、仁樹は自分がいつのまにか、今まで縁のなかった他人の人生への干渉をしたことに気付く。
何故そんなことをしようとしたのか、ただ仁樹は、自分とあまりにも似ているまるに、自分と同じような人間にならぬようにするより、避けえず同種の人間になってしまった自分自身との付き合い方を教えようと思った。
他人との接し方など切り捨てても死にはしないし、出来ない人間には出来ない。それでも自分とは一生の付き合い、接し方を間違えれば死ぬ。
それに、まるは他人かといえば、そうとも限らないと思った。
仁樹はまるの後姿を見つめた。
仁樹が二十代に入って間もない頃、仁樹の知らぬ場所で生まれ、それから十二年経って初めて会ったまるという女の子は、仁樹にとても良く似た匂いをしていた。
その晩よく食べよく眠ったまるは、翌日以降も相変わらず部屋に篭って絵を描き続けたが、ずっと抱いていた迷いが解けたのか、夕食の時間には腹をすかせてリビングに来るようになり、ソファで長々とテレビを見たり気まぐれに散歩をしたり、たまに仁樹に頼んでフェラーリに乗せてもらったり、絵を描く以外の時間も過ごすようになった。




