(22)面影
仁樹はまるの部屋の前に立ち、ノックすることなくドアを開けた。
散らかっているが、置かれた物の多くが数日前から動いていない部屋の奥では、まるが背を向けて机に向かっていた。
誰かが入ってきた物音にさえ気付く様子の無いまるは、画用紙に向かってボールペンを動かしている。
仁樹はまるに近づき、描かれた絵を覗き込んだ。精密に描かれていたのは、市街地を空撮したような絵。まるは一つ一つの建物や道路、植え込みの木々を描く、終わらない作業をしていた。
サヴァン症候群と言われる、自閉症患者の一部が過去に見たことを忘れる機能を失った結果、風景や情報に対して異常な記憶力を発揮する症例が存在する。
画家の山下清もその患者だったと言われ、放浪中に見た花火や滞在した家を自宅に戻った後、色や形状、位置関係に至るまで正確に描き上げたことが知られている。
仁樹はまるもその一例かと思ったが、見る限りまるは絵を描いている途中、横に置かれたタブレットPCに表示された画像や、過去に不動産業者が撮影、配布した航空写真、地元の開発記録などの資料をデスクの周りに置き、絶えず実際の写真を見ながら描いている。
「お兄ちゃん?」
まるが絵描きのツールとしては珍しいボールペンを動かしながら言った。絵を描く作業をしながらも、人が入ってきたことには気付いていたらしい。
仁樹がまるの部屋に来たのは、絵を描くことに根を詰めすぎている様子のまるを案じた真理に頼まれたから。彼はそれを忠実に実行した。
「真理さんが心配している」
まるは仁樹の言葉に反応することなく、タブレットPCに表示された空撮画像を拡大表示して細部の修正を行っている。
空撮の視点で街を描いているらしき絵にはまだ空白が多く、描きあがるまであとどれくらいの時間を費やすものなのかは、仁樹にも、描いているまる自身にもわからない。
少し間を置いて、まるは仁樹の言葉に返答した。
「うん、わかってる、でも描きたいから」
仁樹は絵を描き続けるまるの後姿を見つめていた。ふんわりした褐色の髪。十二歳女子の平均よりも低い背。名前通り丸っこい印象を与える女の子。
真理は仁樹の知る三姉妹の母親に。姿も雰囲気もよく似ていた。次女の舞は生前の父親を知る誰もが娘だと納得するほどの父親似。三女のまるはどちらにも似ていない。
仁樹がまるに誰かとの共通、共有を感じるとすれば、子供だった頃の自分自身によく似ていると思った。
まだバイクや車に乗ることを知らない頃の仁樹は、まるのように活発な子供だった。自分のエネルギーを発散する場所を見つけられず、ただ日々を過ごしていた。
今のまると同じくらいの頃、無免許運転やサーキット走行でバイクを知った時に仁樹は変わった。空費していた熱意が一つの方向を得ることで、他の感性や行動を自ら切り捨てた。
そして、今の真理と舞の中間くらいの頃にフェラーリに出会い、仁樹はもう一度自分を変えた。
仁樹の視線を意に介さず絵を描き続けるまるが、手に持っていたボールペンの先を画用紙の横に置かれた資料のプリントアウトに擦り付けた。
ペンは耳障りな音を発てて紙を凹ませるだけで線を描かない。まるはもう描けなくなったペンをデスクの下に投げ捨てた。
デスクの下には何本ものペンが落ちている。どれも記念品や販促の配布でタダで貰ったような安物のペン。まるはペン立てから新しいボールペンを引き抜く。
家中にあるボールペンをかき集めてきたような感じだが、立てられたボールペンはあと数本。
この細密な絵を描くために何本のボールペンを使いきったのか、安物のボールペンはインクを残しながらも描けなくなることもある。
仁樹は残り少ないボールペンで絵を描き続けるまるに、それ以上何も言わず部屋を出た。
一度一階のガレージに下りた仁樹は、もう一度まるの部屋にやってきた。
さっきと変わらぬ姿勢で絵を描き続けるまる。手に持っているペンは先ほどペン立てから取った物とは違う、そのペンは不良品か何かだったのかデスクの下に放り出されている。
まるのデスクに近づいた仁樹は、銀色のペンを置いた。まるの手が止まる。
「お兄ちゃん、これ何?」
市販のボールペンよりも太くずんぐりとした、クロムメッキのペン。ホルダーにはスペースシャトルのアクセサリーがついている。
「フィッシャー・スペースペンだ。どんな紙にも描けて、インクが無くなるまで描けなくなることは無い」
アメリカのフィッシャー社が無重力の宇宙空間で使用するために開発したボールペン。インクの耐久性も極めて高く宇宙飛行士のみならず軍人や冒険家に愛用されている。
仁樹はスペースペンの横に数本の換え芯を置く。
「これだけあれば一年書き続けても大丈夫だ」
まるは今まで使っていたボールペンを放り出し、仁樹が置いたスペースペンを手に取る。画用紙にペンを走らせ、その書き味に感嘆の声を上げた。
「絵を描きたいなら、描きたいだけ描け」
仁樹はそれだけ言うと、背を向けて部屋を出ようとする。
新しいペンで早速絵を描く作業に集中し始めたまるは、一度ペンを置いて後ろを振り返って言った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
仁樹はいつもの無表情のまま、アルバムで見た昔の自分に良く似ているまるの顔、まるの瞳をしばらく見つめていたが、まるが背を向けて再び絵を描き始めるのを見て、何も言わずまるの部屋を出た。
背中は、もっと似ているかもしれないと思った。




