(100)フェラーリに恋した男
仕事や所用、あるいは整備等の予定の無い時の仁樹は、常にフェラーリに乗って走り回っていた。
どこに行っているのかを仁樹は言わず、真理や舞、まるも問いただしたことは無かったが、仁樹と三姉妹の死んだ父親を知る自動車雑誌関係者によれば、仁樹は日本のあちこちをフェラーリで飛ばし、ある時は高速道路、ある時はフェラーリに不似合いな路地、最近では彼の持つ独自のコネを使い、サーキットや国内自動車メーカー、タイヤメーカーの専用テストコースを走ったりしているらしい。
それでも仁樹は三姉妹と暮らし始めてから、皆で一緒に摂ると決めた朝食の席に現れなかった事は数えるほどしか無かった。
朝晩のご飯は皆で一緒に食べる。真理が決め、舞が反発し、まるが喜んだ提案を仁樹は彼に可能か限り守り続けてきた。
今までの舞ならば、どうせいつも通りフェラーリで走り回ってるんだろうと思い、ご飯を食べている時にイヤな奴の顔を見なくて済むと強がっていたところだが、今は違う。
舞は仁樹のことを一人の男として好きになってしまったと意識し始め、彼の悩みを共有することになった。あのフェラーリはもう走れない、修復も不可能であることを知っている。
舞とまるの二人だけで食べる朝食は、布団の綿でも食っているような味がした
夕食の時間になっても仁樹は帰ってこなかった。
真理の不在中に舞とまる、そして自分自身のため夕食を作り、なかなか達者なイタリア料理の腕を披露していた仁樹が居ない。舞は暢気に空腹を訴えるまるに出前のピザを注文させて、朝食に続き味も栄養もまことに好ましくない夕食を終えた。
仁樹が帰ってこない。舞はただそれだけの事で自分がこれほど不安になるとは思わなかった。向かいでTVを身ながらピザを食べているまるを見る。
まるは普段と変わりなかった。仁樹と父娘の関係のまるは、仁樹のことを何も知らないようにも、舞や真理よりもよく知っているようにも見える。
舞はまるに話しかけた。
「あいつ。居ないわね」
まるはTVから目を離すことなく答える。
「そーだね」
真理が居る時、あるいは仁樹が見ている時にはやらない、椅子の上であぐらをかくまるに、舞は少し感情的に食ってかかる。
「あんたは気にならないの?」
まるはピザをもう一枚取り、仁樹のガレージの冷蔵庫から持ってきた無糖の炭酸水で流しこむ。
「なるよ。でも出かけてるってことは何か用があるからだし」
舞は仁樹から貰ったバイクで走り回っていて夕飯の時間には帰ってくるが、まるは好きな絵を描くのに最良の素材を見つけると時間を問わず自転車で飛び出していき、帰ってくる時間も気まぐれなもの。舞は一人で仁樹を心配しているのが馬鹿らしくなった。
もしかして仁樹が食事中に帰ってくるかもしれないと思って残していたピザを手に取り、そのまま口に押し込んだ。
翌日も、その次の日も仁樹は帰ってこなかった。
舞たちの心配を余所に、真理の白血病治療は順調に進みつつあった。
仁樹の骨髄液を移植して以来、ごく僅かな拒否反応を起こしつつ、主治医が言うには理想的な定着を示しているという。
移植から二週間を過ぎた頃、制限つきながら病棟から外出する許可を得たが、真理は家には帰らず大学に専攻する法学の書籍を取りに行くことを選んだ。
車椅子での外出に付き添った舞は、仁樹のことを言うべきか迷った。真理はフェラーリを降りようとしている仁樹に、自らの命を賭してフェラーリに乗り続けることを求めた。
仁樹もそれを受け入れたが、その仁樹がフェラーリこと姿を消し、今もなお連絡が取れないなんてことを知ったら、真理の治癒回復に悪い影響があるのかもしれない。
概ね順調に終わった外出。舞は真理の乗った車椅子を押しながら病院に達した。あの時、仁樹がフェラーリで真理を運び込んだ病院。舞は膝をつき、車椅子に座る真理に縋りついた
「どうしよう…あいつ居なくなっちゃう…お姉ちゃん…助けて…」
真理は嗚咽する舞の頭を撫でながら言った。
「仁樹さんは必ず戻ってきます。舞ちゃんも知っているはずよ?仁樹さんがどんな人なのか」
舞は涙をぬぐって立ち上がった。あいつがどういう人間かは自分がよくわかっている。彼が言葉で何と言おうと人の形は変わらない。仁樹に本質というものがあるならば、それが何かはもう知っている。
「真理姉ぇ、退院の時はあいつに迎えに来させるわ」
真理も微笑みながら言う。
「そのまま新しいフェラーリでも買いにいきましょうか?」
舞も釣られて笑い出した。忘れるところだった。わたしは仁樹が好きだ。だから仁樹がわたしの望まないことをしようとしているなら、力ずくでもわたしの思う正しい形に仁樹を引き戻す。きっと真理姉ぇも、まるもそうなんだろう。
骨髄移植手術から一ヶ月が過ぎた頃。真理の退院が正式に決まった。
舞はまると共にバスと電車を乗り継ぎ、神奈川西部の大学病院へと向かった。
仁樹は結局、手術の直後にフェラーリと共に姿を消して以来連絡の一つも寄こさなかった。
彼が突然居なくなったことに当初は不安定になった舞も、真理に心情を吐露して以来、落ち着いて仁樹の帰りを待てるようになった。
舞とまるが病室に行くと、もう退院の準備を済ませた真理が待っていた。三姉妹で主治医の先生に挨拶し、受付で清算を終えた舞は、まだ歩行がぎこちない真理の手を引いて病院を出た。
三姉妹の母が生きて出られなかった病院を無事退院出来たことに、舞の目から涙が零れそうになる。真理はぽつりと言った。
「仁樹さんも一緒ならもっとよかったんですけどね」
舞は「そうね」とだけ言う。真理姉ぇの退院までに仁樹を家に連れ戻すことは出来なかったけど、帰って来ないならこれから三姉妹で草の根分けてでも探し出せばいい。
真理の後ろからついてきていたまるが病院の自動ドアを通り過ぎ、外の匂いをかぎながら言う。
「舞姉ぇタクシー呼ばなくていいよ。お兄ちゃんが来てるから」
舞は何を言ってるのかと思ったが、真理が空を見ながらまるの言葉に応えた。
「えぇ、来てますね」
舞にも聞こえてきた。伝わってくる独特の空気の流れ。1km先からわかると言われた特徴的なサウンド。病院の正面入り口に繋がる道路に三人の視線が集まる。やっぱりそうだ。
高く澄んだ音。赤い塊。フェラーリが三姉妹の目の前に乗りつけられた。
ドアが開き、中から出てくるのはスキンヘッドにグリーンの整備用ツナギの男。
「お迎えが遅くなって済みません。家までは俺がお送りします」
誰にも何も告げずに姿を消したことには何も言及せず。ただ直裁に用件を伝える、無感情な目をした男。
仁樹が帰ってきた。
舞が仁樹に駆け寄ろうとすると、押しのけるように真理が突っ走っていき、仁樹に抱きつく。
「仁樹さん!わたしはどれだけ貴方を案じたことか、どれだけあなたに会いたかったか」
仁樹は今までと何も変わることのない口調で答える。
「ご心配をおかけしました」
出遅れてしまった舞は腹いせのように仁樹に突っかかる
「あんた今まで何してたのよ?」
仁樹が答える前に、まるが彼の背後にあるものを指差す。
「お兄ちゃんそれなーに?」
仁樹がまるの問いに答えた。
「フェラーリ・モンディアルt」
一九八〇年代。仁樹のフェラーリGTOと同時期に発売された四人乗りのフェラーリ。
ミッドシップ四人乗りによく用いられながらも、動力性能に制限の多い横置きエンジンではなく、コンパクトな車体後部にV8エンジンを縦置きに搭載した、天才的な設計によって奇跡のようなパッケージングを成し遂げたフェラーリ。
当時フェラーリの人気モデルをピニンファリーナがボディデザインしていたこともあり、ベルトーネデザインのモンディアルtはややマイナーな不人気車に甘んじていたが、後にアルミボディ化等で肥大化していったフェラーリに比し、このフェラーリこそが最もピュアなフェラーリと評するファンも多い。
仁樹はボディの死んだフェラーリGTOで姿を消して以来、御殿場にあるフェラーリ博物館内部の収蔵車メンテナンス工場に篭り、GTOのエンジンとパワートレーン、足回りをモンディアルtに移植した特製のフェラーリを製作する作業に集中していた。
機械を相手に会話する精神状態では、人と話す機能を使うことすら作業の邪魔になる。それゆえ舞たちに連絡を取れなかったが、仁樹は遂に作り上げた。仁樹がフェラーリのエンジンと認めたV8ツインターボを積んだ、四人が乗ることが出来るフェラーリを。
エンジンを外されたフェラーリGTOのボディは博物館に保管されたが、将来的なボディ修復技術の進化が、このボディを直せるようになったら路上に復帰させる積もりで、それはそう遠くない未来の話らしい。
舞は仁樹とフェラーリを見て笑い出す。
「バカじゃないの?フェラーリの問題をフェラーリで解決するなんて!あんたバカよ!一生直らないフェラーリ馬鹿」
まるは勝手にドアを開けてキャラメル色の革を張られた四人乗りのシートを見て言った。
「助手席はもちろんまるだよね?」
仁樹の隣を誰かに譲る気など無い舞と真理が、互いに張り合うように仁樹に詰め寄った。仁樹は困惑した表情を浮かべている。
まさか一人しか乗れないフェラーリで起きる混乱と不幸を避けるため、四人乗りのフェラーリを作ったのに、新たなる争いを招いてしまうとは思わなかったといった顔。
でも、その諍いが不幸なものとは限らない。
とりあえず病院前を長々と占領するわけにはいかないので、助手席を病み上がりの真理に譲り、まると舞は後部座席に落ち着く。
後席は応接間のソファとまではいかずとも、国産の2ドアクーペよりよほど広く。体格の大きい舞でも無理なく座れる様子。
真理に手を貸して助手席に座らせた仁樹は運転席に滑り込んだ。
一度切ったエンジンを始動させた仁樹は、鋭い視線で並んだメーターをチェックする。いつもと何も変わらない、仁樹がフェラーリに乗る時の目。愛おしいものを見る目。
仁樹は鋼鉄のゲートから生えたシフトレバーを一速に入れる。重いクラッチを踏み、アクセルを僅かに踏む。
フェラーリを発進させる前。ほんの一瞬、仁樹は車内の三姉妹を見た。自分が仁樹にとっての一番だと思っている三人の少女たち。 動き出すフェラーリを操作する仁樹の目には、燃えるように赤いボディとオレンジのイルミネーションに照らされたメーター、そしてステアリングの真ん中にある黄色いエンブレムの中で跳ねる、黒い馬が映った。
(終)




