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国都霞大学季刊誌『黎明』連載エッセイ 鷹古乱堂 《国都霞大学七不思議考》より 最終回 【中編】

 怪談や都市伝説といった類いの物語に特有の要素を3つ挙げるとするならば、〈怪しさ〉〈身近さ〉〈単純さ〉だと私は思う。


 まあ、初っ端の〈怪しさ〉は、必要最小限の要素ではあるだろう。

 何しろ、『怪談』と称するくらいだから、怪しくなければ成り立たない。

 かと言って、アヤシイなら、ナンでも『怪談』か、と言えば、それも違うのだろう。

 明らかに、《見るな禁忌》の系統である〈鶴の恩返し〉を『怪談』だと種別すれば、恐らく、木下順二は『夕鶴』を書かなかっただろうし、〈こぶとりじいさん〉や〈舌切り雀〉だって、鬼だの化け物だのが出てきたり、残虐な人体損壊シーンや動物虐待が繰り広げられるにも関わらず、『民話』に分類されている。

 じゃあ、〈怖さ〉ではないのか。

 いや、〈怖さ〉だけでは、『怪談』は成り立たない。

 もう一度言うが、〈不明(あやし)さ〉在っての〈怖さ〉なのだから。

 〈身近さ〉と〈単純さ〉については、意見が分かれるところかも知れない。

 だが、良く出来た物語ほど、実に単純明快な構造をしているのは常であるし、その物語が、自分の身の周りに、若しかしたら、起こり得るかもしれない可能性が高ければ高い程、読む者或いは聞く者は感情移入がし易い。


 物語に、長短はない。

 だが、中身の深浅はある。 

 ハナシの持って来方。

 そう言われてしまえば、それまでなのだが。


 前回、私は、《『不明』に対する懼れ》こそが、恐怖の根源だと説いた。

 だが、この〈懼れ〉が導き出す根源的不安の源流を見失ってはならない。

 それは、〈憧れ〉だ。


 は? ナンのコト?


 そう思われる方も多いかもしれない。

 けれど、この〈憧れ〉こそが、恐怖の根源を陰で支える大事な補助システムなのだ。

 〈怪しい〉という言葉は、『不思議なものに対して、心をひかれ、思わず感嘆の声を立てたい気持ちをいうのが原義』であると広辞苑にもある通り、本来は、心の驚きや感動を表す意味合いを持ち合わせていた。『怪しい魅力』だとか『怪しい輝き』(『妖しい』を当てた方が、しっくり来るかも知れない)といった語句の裏には、その怪しい《対象》を賛美する気持ちが見え隠れしている。

 人間は、不思議なもの、奇怪なものに、何故か、どうしても心惹かれる。


 嫌よ、嫌よ、も好きなうち。

 若しくは、怖いもの見たさ。


 だからこそ、『怪談』や『都市伝説』は消えてなくならない訳だし、寧ろ、ネット社会の台頭で、昨今では益々増殖の一途を辿っているといっても過言ではない。私たち人間は、何処かで〈不思議〉を待ち望み、〈怪奇〉を欲している。その心理は、或る種の《憧憬》なのだと、私などは、考えてしまう。

 

 《七不思議》とは、本来は『必見に値する素晴らしい景観』に由来していたと謂う。

 この国では、或る種の誤訳からインチキ三文作家の私を含め多くの人々に、《七不思議》という言葉は、『怪しいモノ』だの『奇怪な現象』だの『解けない謎』だのの代名詞として扱われてしまっている。 だが、何もかも、勘違いという訳ではないのではないか。


 《世界の七不思議》のうち、今も尚存在する唯一の建造物であるクフ王の大ピラミッドは、高さ138.74メートル(完成時は146.59メートル)、四面ある斜面はほぼ正確(平均誤差は、約3分。百分率で表すと、0.06パーセント)に東西南北を向き、その正方形を形作る基底部の一辺の長さは、東の辺が230.38メートル、西の辺が230.35メートル、南が230.44メートル、北が230.25メートルで、最長辺と最短辺の差ですら僅か19センチしかない。この底面の面積は、約5万3,000平方メートル。そこに平均重量約2.6トンの石灰岩ブロックが270万から280万個も隙間なく積み上げられている。その全体容積は、約235万2,000立方メートルで、これは東京ドーム約2個分の容積に匹敵する。あの東京ドームいっぱいに詰まった2tトラック並の岩石キューブが2杯も置かれた状態を想像してみて欲しい。それだけの巨大さを持ちながら、奇跡的とも呼べる精度で組み上げられた建造物を、死ぬ前に、一度は観てみたい、と思うのは、多分、人情なのだろう。


 前回、私が生まれ育った長野県南伊那地方の奇妙な『民話』について触れた。

 兎に角、奇怪な説話だの怪談染みた言い伝えに事欠かない土地柄で、だからなのかどうか、矢鱈、コワいもの好きな人々が暮らしていたような気がする。寄ると触ると、やれ、何処そこの婆が火の玉を見ただの、誰それの爺が山の主に遭っただの、去年の暮れに死んだ娘が雨降る夜に四辻でしょんぼり立っていただの、一昨年引っ越してきた夫婦者が家鳴りに耐えかねて、とうとう夜逃げ同然に逃げ出しただの、そんな話ばかりが飛び交っていた。嘗て、この地を、あの柳田翁が、元飯田藩士の養父直平の伝手を通じて、口伝・口承の類いを採取に訪れた事があるらしい、と自慢げに謂う古老も居たが、真偽の程は知らない。


 まあ、南伊那の住人の誰も彼もが、そうだとは言わないが、少なくとも、私の生地、長野県南伊那郡院寿枡(いんじゅべ)斑猫(はんみょう)地区では、『怖い話』が、何よりの〈御馳走〉だった。


 夏になると、地区に住む子供たちを集めて、大人たちは、肝試しを開催した。

 当然ながら、コレが物凄く怖い。荒れ寺の墓地。山腹の旧道(トンネル有り)。森林鉄道廃線跡(トンネル有り)。山奥のダム。廃屋の一夜。だが、何よりも怖かったのは、その前振りで話される肝試し場所に関する逸話だ。墓場の骨喰い女。真夜中の血塗れ落ち武者行列。青い電車、赤い電車。湖面にびっしり突き出される腕。壁の髪の毛、襖の目玉、天井の(はらわた)。提灯一つでお札を貼りに行く道すがら、私は、何度も小便をちびりそうになり、何度かは、実際に、ちびった。


 だが、あの全身が凍り付くような恐怖と相俟って沸き起こる興奮の心地よさときたら。まさに、おしっこちびっちゃう程の昂揚なのだ。特に、スタートの順番を待つ間の、世界の終りが来るかのような緊張感は、あれから50年近く経った今も尚、心に強く浸み込んでいる。毎夏、うら寂れた廃寺の境内や廃線の打ち捨てられた駅舎に集まった子供たちは、皆、怯えと興奮が入り混じった、なのに、夜目にしては奇妙な程にキラキラした光を放つ眼をしていた。


 本当に、存在する、しないに関わらず、想像を絶する物、不思議、謎、所謂『不明』な存在を感知した時、私たちは、懼れ、或いは崇めながらも、その対象に対して、どうしようもない焦燥感と共に、出来るなら、この眼に、この手に、この心の内に、触れてみたいと切に願う。


 40年程前、居酒屋《漣》で、『夜明けの黒衣女』について、鬼気迫る勢いで話し続ける奇譚同好会会長の伊勢八太秀真(いせはたしゅうま)の眼の中に渦巻いていた感情が、当に、それだった。

 伊勢八太会長(本人もつくづく嘆いていたが、実に、長い苗字だ。これも本人の弁だが、知らない人が見たら、これだけで一人の人物の名前だと思うだろう)は、明らかに〈黒衣女〉を、恰も、出遭った事があるかのように、いや、今、直ぐ目の前に彼女が存在するかのように、キラキラと眼を輝かせて語った。それは、何かの熱病に罹った者が譫妄状態で吐く譫言(うわごと)にも近い響きすら感じたものだ。


 なのに、伊勢八太会長は、私の〈黒衣女〉とは一体何か、と謂う問いに、「判らないよ。だから、怖いんじゃないか」と答えた。


 確かに、私は、その話と、そして何よりも、話し手の熱意に絆されて、これこそが、怖い話や怪談、都市伝説の神髄だと、当時は思った。判らないからこそ、怖い、その『不明』に対する懼れ。凄まじい形相の、おどろおどろしい霊が、ばあっと出てきたりすれば、それはそれでコワいのだが、その根底に流れている《ワカラナサ》にこそ、人は恐怖する。『夜明けの黒衣女』の話には、そんな恐怖の根源的要素がたっぷり含まれているように感じられたのだ。

 ナニしろ、語り部自身が、そう言明したのだから。

 判らない。

 だから、コワい、と。


 私が、彼の、いや、正確には、彼らの、その言葉の在り方に、奇妙な矛盾の存在を見出す事になるのは、もっと、ずっと後の話だ。


 私は、〈黒衣女〉に、一遍で魅せられてしまった。

 それ以前から、怪談奇談怪奇小説(その頃は、まだ、〈恐怖〉小説だとか〈ホラー〉小説だとか〈超自然〉小説などといった洒落た語彙は、巷に流布してはいなかった)の類いは大好物だったし、アレコレ書き殴っていた物語の大半は、不気味で、無惨で、悍ましい内容ばかりだったから、その手の話には、結構、鼻が利く方だと自負していた。まあ、毎度のことながら、相当、手前味噌ではあったのだが。


 で、私は、暇さえあれば、この〈黒衣女〉に関する資料を漁り始めたのだった。


 有り難い事に、資料には不自由しなかった。私が入会した奇譚同好会は、そのどこか胡散臭げな名称や関係者たちとは裏腹に、中々に真っ当な活動をする会だったのだ。創立30数年を数えるとやらで、当時から逆算すると、昭和20年代から続く老舗中の老舗同好会なのだという。それは確からしく、会報も昭和27年の創刊号から現在まで、不定期ながら、ずっと刊行されており、バックナンバーもきちんと全て保管してあった。

 会報名は、『奇譚世界』。

 〈歸つて來た戰死兵〉〈戰地怪剞體験大特輯〉〈うらめしや交通戦争地獄の亡者〉〈海の怪異・山の妖異・町の霊異〉〈四次元の扉が開いた瞬間〉〈死霊秘法解説〉〈奇跡の特集〉〈全国タクシー幽霊出没地図〉〈UFOと幽霊の狭間で〉〈日本未知動物大集合〉〈悪魔が来たりて鵺が啼く全国怖い村詣で〉〈身近な心霊写真の撮り方〉〈量子で奇譚は解けるか〉〈『怖い女』特集〉〈インターネットの中の幽霊たち〉等等等。所々、時代が垣間見えてたり、痛いタイトル名についつい読み込んでしまったりもしたが、結局、国都霞大学に伝わる《七不思議》に関する記述は、全部で7か所見つかった。

 因みに、これらを漁っていて初めて知ったのだが、業界内ではかなり有名な編集者やマスコミ関係者の名前が散見された。私が、常々お世話になってきた方々も、意外な程に多かった。まあ、なぜ、そう仰ってくれなかったのか、多少(いや、かなり)疑問は残るのだが、いずれにしろ、国都霞大学奇譚同好会恐るべし、だと改めて感心した次第である。


 ああ。


 またしても、閑話休題だ。

 話を、元に戻そう。


 『奇譚世界』昭和48年8・9月合併号の〈『怖い女』特集〉で、〈黒衣女〉の歴史がコンパクトに纏められている。国都霞大学の原母体とも呼ぶべき手習指南所《国徒神住塾》が開塾されたのは、1861年のことだ。時は、幕末。日本は激動の時代へと突き進みつつあった。安政の大獄から凡そ2年後、井伊直弼が桜田門外で暗殺され、ロシア軍艦が対馬を占領、アメリカ総領事通訳のヒュースケンが殺害されたり、イギリス公使館が襲撃されたりしている。そんなどこぞの民族紛争を彷彿とさせる世情の合間を縫って、国都霞大学の種子は撒かれたのである。国都霞大学のキャンパス内には、今も、その跡地を示す碑が立っている。斯窟門壅学門之礎生也文久弐年神無月記。この窟門を埋め、学門の礎と生す。文久2年(陰暦)10月記す。正直、意味は良く解らない。小さな祠の前に建てられた筵小屋からのスタートだったらしいから、その辺りの心情を謳ったものなのかもしれない。

 もともと、この周辺は、原生林が鬱蒼と生い茂る小さな盆地を成す土地柄からか、妙にジメジメとした陰気臭い場所だったと伝えられている。奇妙な噂も絶えなかったらしい。狐火が湧く。天狗(さら)いに遭う。(むじな)が人を化かす。入道戦(にゅうどういくさ)が聞こえる。百鬼夜行か通る。()(だま)が浮かぶ。爺匣(やごう)さんが走る。黒頭巾が出る。

 私の生地、南伊那地方に引けを取らない程に充実した怪奇性だが、何も、田舎に行かなくとも、奇怪な話は都市部にも昔から根強く語られ続けているものだ。『奇譚世界』昭和48年8・9月合併号の〈『怖い女』特集〉では、その内の〈黒頭巾〉を〈黒衣女〉のルーツだと説いている。全身黒尽くめの女の妖怪で、常に、一つ目の鼬に似た小さな獣を従えているという。祠には、その姿を描いた絵馬が奉納されていたらしいが、真偽は不明だ。

 明治維新を迎え、手習指南所《国徒神住塾》は《国徒華純文学校》と名称を変えた。その後、明治17年に専門学校令を受け《国都香澄専門学校》へと改名、大正10年に現在の《国都霞大学》として正式にスタートする。この間、〈黒衣女〉は、大学同様、様々に呼び名を変えながら、その痕跡を残している。

 明治19年頃、《国都香澄専門学校》近辺に〈黒影女中〉が出るという噂が立った。真っ黒い女中姿の女が徘徊するというものだ。大正時代に入ると、〈黒影女中〉は〈漆黒女給〉へと変幻する。『女中』から『女給』へ言い方が変わっただけで、特に話の中身に変化はない。〈漆黒女給〉が出る。〈漆黒女給〉が校内を歩き回る。〈漆黒女給〉が学校の屋根の上に座っている。

 昭和に入ると、〈黒衣女〉は、一気に、そのバラエティ性を増す。年代的に古い順から挙げると、〈暗闇乙女〉、〈喪服乙女〉、〈真黒市松〉、〈ブラック・ビスクドール〉、〈夜明けの黒衣女〉、〈ウーマン・イン・ブラック〉、〈謎のグラサン・マスク女〉。話の内容は、〈黒影女中〉や〈漆黒女給〉と似たり寄ったりだ。要は、真夜中、謎の女が校内を、或いは、その周辺を歩き回る。それだけの話だった。それ以上でも、以下でもない。

 そして、そこがまた、問題なのだ。


 ただ、歩き回っているだけの〈黒衣女〉は、なぜ、伊勢八太秀真や私、そして、長い間、『彼女』を語り継いできた多くの学生たちに、これほどまでの訴求力を持続し続けることが出来たのだろうか。


 判らないから、コワい。

 

 そう話す伊勢八太会長の眼には、明らかに、『彼女』が映っていた。

 それは恐らく、〈黒影女中〉や〈漆黒女給〉、〈暗闇乙女〉、〈喪服乙女〉、〈真黒市松〉、〈ブラック・ビスクドール〉、〈夜明けの黒衣女〉、〈ウーマン・イン・ブラック〉、〈謎のグラサン・マスク女〉の〈話〉を口にする全ての者たちの眼にも、映っていたに違いない。

 この実に『不明』で『判らない』存在である『彼女』が、凡そ150年以上もの間、延々と語り継がれ、コワがられ、そして、親しまれてきたのは、一体何故なのだろうか。


 理由は、ひとつしかない。

 『彼女』は、本当に存在するからだ。

 

 私は、『彼女』に、〈夜明けの黒衣女〉に会ってみようと思った。

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