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99.結婚記念日

 この日の愛華は朝から機嫌が良かった。普段から機嫌はいい方なのだが、今日は特別良かった。お隣の家から朝帰りの酔っ払いが妻に、こっぴどく叱られて泣き叫ぶ声が聞こえてきても動じない。それどころか、「あそこのおうちは仲良しさんねえ」と天使の微笑みを浮かべる始末。止めて差し上げろ。

 そんな母の動向が気になったのか、日曜恒例の早朝アニメ&特撮コンボを堪能していた総司が声をかける。


「お母さん、どうしたの?」

「あのね、明日は私とあき君の結婚記念日なの。今から待ちきれなくて」

「そういえば今年もそんな季節になったんだね」


 満面の笑みを浮かべて答える愛華に、総司は思い出したように頷くと壁掛けのカレンダーを見た。

 三人の誕生日とクリスマスと正月。それと結婚記念日にはパーティーを行うのが藤原家の決まりだ。愛華としては総司が十歳になった頃、祝うのを止めようかなと思っていた。夫がいい加減面倒臭がるんじゃないかと考えたのだ。

 そんな妻の予想を180度裏切ったのは夫の秋である。十回目の記念日パーティーの後、愛華が今年で止めようと提案した時の彼はすごかった。会社では冷血人間だの元ヤンと言われていた男が「そうだな」と相槌を打ち、菫色の瞳を涙で滲ませたのだ。

 えっ。と混乱する愛華に秋はそれ以外は何も言わず、黙々とパーティーの後片付けを手伝ってくれた。しかし、十分後、「俺、お前に何かした?」と聞かれて愛華は悟った。すごくショックだったんだなあ……と。

 そんな危機もあったが、今年もあの日を迎えることになる。夕食は何にしようか。鼻歌まで歌い出して洗濯の支度を始めようとする愛華へ、総司が口を開く。


「あれも、明日だね」

「あれ?」

「母さんが好きな漫画の新刊」

「そうだっけ?」


 言われてから気付く。連載当初からずっと追いかけている漫画。その単行本の七巻目が発売するのも明日だったのだ。

 愛華は脳内で漫画と記念日を天秤にかけた。記念日を乗せた重りがズドンと音を立てて落下した。

 どうせ雑誌で読んではいるのだ。別に明日急いで買う必要もないだろう。一日かけて美味しい料理を作って夫と息子を喜ばせる方がずっといい。

 母がどちらを取ったのか察したのか、総司が愛華を窺うように言った。「学校からの帰りでいいなら、手伝うよ」と。


「いいの、いいの。私がやらなきゃ意味ないんだから!」

「でも」

「それじゃ、総ちゃんには私が誕生日の時に。ね?」


 料理やお菓子作りも趣味の一つの愛華にとっては、ご馳走作りも楽しみの一つ。自分が誕生日であっても、あくまで息子には手伝わせるだけ。

 幸せそうに洗濯機を作動させに行った愛華を総司はしばらく眺めていたが、八時三十分になるとテレビ画面に目が釘付けになった。可愛い女の子たちがたくさん登場するアニメが始まったのである。彼が日曜の朝、最も楽しみにしている時間だった。

 無表情ながらも先ほどまで、ちびちび飲んでいたココアも飲まなくなるほどの集中力。そんな少年の背後に忍び寄る人影。

 アニメでは主人公の女の子が敵に必殺技をぶちかますシーンに突入していた。某水戸のなんちゃらの番組で例えるなら、印籠を見せる場面だ。

 主人公の武器のロッドに集まる聖なる光。総司もさりげなくテレビに近付いた。


「おい」


 総司の肩を背後から叩く手。直後、総司は素早く振り向くと、その人物にテレビとは正反対の方向に投げ飛ばした。回避しようと体を動かす暇も与えない。黒髪の男は対処しきれず、総司の投げ技をまともに喰らった。

 平和な早朝に突如始まった闘争。リビングから聞こえた騒音と悲鳴に、洗濯物を洗濯機に放り込んでいた愛華は苦笑した。


(秋君……また、この時間の総ちゃんに話しかけたのねえ)


 日曜のアニメを観ている時の総司には、絶対に話しかけてはならない。最近はバイトもあるので録画して外出することも増えた。しかし、こうして家にいる時、彼から話しかけてこない限り構うのはタブーだ。

 それを冒したらどうなるか。言葉で説明しなくても、見れば分かるだろう。なので、愛華は話しかけない。総司が八歳の頃に愛華の親族がこの曜日の早朝に訪れた時は大変だった。沖田町始まって以来の大乱闘だった。

 ……あの時は、アニメ視聴を邪魔された他にも、総司を暴れさせる要因があったのだが。


(秋君は学習能力がないのかな……)


 頭の回転が早く、会社でも異例のスピードでの出世を果たしたというのに、彼はどこか詰めが甘い。いや、正確に言うと、総司より優位に立った所をほとんど見たことがない。変にいばられるよりはいいのだけれど。

 でも、仲が良さそうだからいいか。愛華は日曜に悲鳴を聞く度にこのままでいいのかと悩み、最後には楽観的な結論に辿り着くのだった。



「ごめんね。そんなつもりはなかったんだけど、クライマックスの所だったから余計に力が入っちゃって……」


 リビングでは床に無慈悲に叩き付けられた秋へ謝罪する総司がいた。アニメはエンディングに進んでいた。

 しかし、息子のアニメタイムを妨害した代償は大きかった。何が悲しくて投げられなくてはならないのか。秋はふらつきながら立ち上がった。申し訳ないと思ったのか、総司が手を貸す。


「でも、どうしたの? 魔法熟女ジョセフィーヌを観てる時の僕に後ろに立つなんて……」

「えっ。もしかしなくても、あの美少女アニメのタイトルか、それ」

「うん。マスコットキャラクターのミトコンドリアの妖精に魔法をかけてもらうと、夫のギャンブルのせいで大借金を負った四十代の主人公がとっても可愛い女の子に……」

「もういい! 現実を知りたくない!」


 秋は青ざめた顔で総司の口を塞ぎ、話題を引き出したことを心底後悔した。たまに愛華も混ざって二人で仲良く観ているので、たまに秋も画面を覗いていた。その時は皆、主人公は変身後だったという絶妙なタイミングだったのだ。

 生々しい設定のアニメを日曜の朝っぱらから放送する、テレビ局の肝の据わりように感服するしかない。不幸な熟女とミトコンドリアの妖精という、納豆と牛乳のような神秘的な組み合わせを生み出した発案者に、インタビューがしたい気分である。


「まあ、ジョセフィーヌだか道代だかそんなのはどうでもいいんだが……」

「父さん、道代って主人公の本名」

「だからいいって言ってんだろ。オメーに聞きたいことがあるんだよ」

「道代のスリーサイズ?」

「熟女から離れろぉぉぉぉぉ!」


 無表情で次々とボケを放ってくる総司に、秋も負けじとツッコミで跳ね返す。いつまでも言葉のラリーを続けていては本題にすら入れないので、総司の襟首を掴んで部屋の隅に移動する。

 愛する嫁に会話を聞かれないようにするためである。


「総司、愛華が欲しがってる漫画って何だ?」

「え?」

「さっき二人で話してたろ。明日発売だっていう……」

「ああ……ごめん。僕もタイトルまで分からないし、内容も詳しくないんだ」


 秋にとって、息子の返答は意外だった。好みのアニメや漫画も愛華とよく被るし、先ほどの会話からてっきり総司も知っているものだと思ったのだ。

 総司は総司で、秋が何故聞いてきたのか感付いたようで「優しいね」と父を褒めた。


「母さんってあんまり物を欲しがらないからね。漫画も自分の小遣いから出して買ってるみたいだし。きっと喜ぶと思うよ」

「そんな感情の込もってない顔と声で言われても嬉しかねえよ」

「漫画のタイトルも分からないんだから、照れるのはまだ早いよ父さん」


 褒めたいのか、貶したいのか。本心がまるで読めない子供に、自分も昔はこんなのだったのかと秋はため息をつく。






 そして、場所は変わってアスガルド。

 ウルド役所のクエスト課では唸り声を上げる小さな少女の姿があった。その少女――アイオライトの掌には、硝子で作った蝶々の髪飾りがちょこんと乗っている。淡い水色と白雪のグラデーションが美しい翅は、アイオライトの藍色の髪に映えるだろう。

 だが、アイオライトは髪飾りを着けようとしない。今の彼女はそれどころではなかったのだ。


「ソウジにお礼で何かあげないとな……!」


 土産としてフレイヤで買った髪飾りをくれた総司。自分も総司にプレゼントしたい。アイオライトはそんな野望に燃えている最中だった。

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