95.希望の山吹
怒り、焦り、恐れ……。消えていく炎の刃を見詰め、様々な感情によって男の顔は歪められた。
深淵の闇を思わせる黒い瞳と髪。忘れられるはずもない。以前、ウルドでバイドンと戦った少年だ。あの時、男は遠巻きながら主が少年に呆気なく倒される光景を黙って見ているしかなかった。 本当はバイドンが倒された後で他の仲間と共に飛び出して行きたかった。しかし、男には分かっていたのだ。自分もバイドンとティターニアを奪い返そうとしても無駄だと。二人の奪取を諦めて撤退するしかなかった。
多くの苦労を得て漆黒の魔手はあと少しで全盛期の勢いを取り戻そうとしている。バイドンも帰って来る。何もかもが上手くいく。
そのはずなのに、まだ邪魔をするというのか。男は右の拳を床に叩き付けた。
「いい加減にしろよ!」
男の足元から床を突き破り、無数の紫色の蔦が現れる。ブロッドに猛毒を注入した蔦と同じタイプの木属性の魔法だ。
じわじわと苦しみながら死ね。そんな術者の憎悪を込めた蔦たちが総司へと伸ばされた。
「あなたがブロッド君をこんな風にしたんですか」
淡々としていて抑揚のない声。総司は何の変哲もないモップを振り上げると、次々と蔦を切断していった。毒々しい色の体液を断面から垂らしてそれらが力無く床に落ちる。蔦の硬さは鉄と同じ。あんな木の枝のように細い棒で切れるはずがないのだ。
男は次にブロッドを串刺しにした氷の棘たちを生み出し一斉に放ったが、それもモップで一本一本弾かれてしまう。オーガとは明らかに違う異質な強さ。自慢の魔法があっさりと看破されていく焦燥感に駆られ、男は唸り声を上げた。
「うぅ……!」
「おやおや、あれは確かにウルドの役所にいる異世界の少年ではありませんか。素晴らしい力だ……」
「呑気な事を言ってんじゃねえっ!!」
朗らかに笑う白フードの者に、男の頭に血が一気に昇った。奴はこの状況が分かっているのだろうか? オーガには多くの仲間を倒されてしまい、指輪の力で発動させた魔法も効かない少年が現れた。
こうしている間にも援軍がやって来るかもしれない。こんな所で止まっている場合ではないのだ。男の悲願である漆黒の魔手の完全復活まで、進まなければならないというのに。
「ちくしょおおおおおおお!!」
男の心を具現化したような激しい火柱が現れる。魔力をろくにコントロールせずに生み出したそれは天井を焼き、室内には焦げた匂いが蔓延する。
男の額には汗の珠がいくつも浮かんでいる。確かに強力な魔法の『主な』燃料は指輪だが、多少は男自身の魔力も使われてはいるのだ。何度も魔法を連発していれば疲弊するのは当然の事。
しかも、総司に魔法が通用しない苛立ちからか、この火柱を生むのにかなりの魔力を注いでしまった。もう次は撃てないだろう。白フードの者もそれには気付いていたが、敢えて手は出さない。
これでいい。これで計画が一番最良のルートに進む。
「はは……あははははは! 流石にこんなにデカい炎ならそんなほっそい棒じゃ消せねえだろ!? 避けれるもんなら避けて見やがれ!!」
迫る火柱。男の言葉の通りに総司は素早く避けようとしたようだが、その足を止めてしまう。漆黒の眼差しは眼前にある炎の柱ではなく、背後にいる立ったまま意識を手離したブロッドに向けられていた。
疲労で蒼白になりつつも男は醜悪な笑みを見せる。これが狙いだった。アーデルハイトの救出よりも友人であるオーガを優先した少年。簡単にオーガを見捨てる事は出来ないと読んだ。
動きが止まった時に出来る一瞬の隙。その僅か数秒が命取りとなる。仲間を捨てられない甘さのせいで少年は焼かれ死ぬ。男はその光景を想像し酔いしれた。
が、酔いは一瞬で冷める。男は忘れていたのだ。総司がここに来る直前まではレースに参加していた事を。総司が誰とレースで走っていたかを。その人物が突如総司とブロッドの背後に現れたと同時に、それらをようやく思い出したのだ。
「よくもブロッド様とアーデルハイト様を……許せませんわ……」
その人物の真上の天井には大穴が空いている。上の階から騒ぎに気付いて天井を突き破って降ってきたようだ。とんでもない怪力である。
だが、彼女が持っているのは怪力だけではない。頭部から生えた触角と背中の蜻蛉羽。それは魔法に長けた種族ハイエルフであることを示していたのだ。
ハイエルフの姫――ティターニアの両手に集まる膨大な魔力。それは黄金の指輪に匹敵、いや、凌駕するほどだった。
可憐であり美しい顔を鬼のように歪ませ、ティターニアが叫ぶ。
「おんどりゃあああああああああああああ!!」
ティターニアが生み出したのは清らかな水による津波。総司とブロッドを喰らう寸前だった火柱を一瞬で飲み込んだ。
勢いそのままに自分たちへやって来る波に男は表情を引き攣らせる。こちらにはアーデルハイトがいる。その事を忘れているのだろうかと思いきや、地面に横たわっていた彼女の姿は無くなっていた。
どこに。周囲を見回せば、アーデルハイトはいつの間にか総司の傍らにいた。閉ざされていた瞳はうっすらと開かれ、皮肉げに笑っていた。
負けた。男が無意識にそう呟いた瞬間、彼の体は水に飲み込まれ壁に叩き付けられた。凄まじい衝撃を受け、津波が消失しても身動きが取れず苦悶の表情の男に接近する足音。
総司が感情のない瞳で男を見下ろし、一歩一歩近付いて行った。死にたくない。男は必死に作り笑いを濡れた顔に貼り付け、黄金の指輪を外した。
「ほ、ほら、この指輪やるよ。すげえ魔法がたくさん使えるんだぜ」
「僕、魔法使えないから欲しくないです」
「だったらアジトにある金と宝全部くれてやるっ。当分遊んで暮らせる量だ!」
「そんなにたくさんお金も欲しくないです」
漆黒の双眸は男を哀れんでいるようにも、蔑んでいるようにも見えた。だが、男にとってはどちらでもいい。どうすれば殺されずに済むか。ブロッドとの戦いから蓄積されていった恐怖は全ての術を無くして破裂したのだ。
あまりも変貌ぶりにアーデルハイトは眉間に皺を寄せる。そして、力尽きたように倒れたブロッドにそっと寄り添った。そのアーデルハイトも顔色が死人のように青く、体もふらついている。体力が戻りきっておらず、衣服も破り捨てられ全裸に近い状態の彼女に姪が心配そうに駆け寄った。
「アーデルハイト様、具合は大丈夫ですの!?」
「妾は、な……首輪に吸われたはずの魔力が少しずつじゃが、戻っておる……」
アーデルハイトは男を助けることもなく傍観する白フードの者に目を細めた。意識が戻ったのは総司が現れた頃。全身から血を流したまま動かないブロッドに気付くと、首輪から奪われていた魔力が体内に戻り始めたのだ。
白フードの者の唇が何やら詠唱を行い、首輪の力を操作しているようだった。何故、と考えたが、動くのなら今だとアーデルハイトは男に気付かれぬよう総司の元へ逃げた。
「あの者は恐らく漆黒の魔手ではない。かと言って、こちらの味方でもなさそうじゃが」
「味方でないなら敵ですわ!」
「落ち着け、ティターニア。今はあやつに構っている暇ではないぞ。このオーガを癒さねば……」
アーデルハイトはブロッドに戻ったばかりの魔力で治癒魔法を唱えた。ティターニアも同じように魔法をかける。
ブロッドの体へ温かな白い光の粒が降り注いでいく。だが、氷の棘による穴も火傷も癒える気配は一向にない。それどころか、ますます出血が増える。血と肉の焦げた臭いを嗅ぎながらアーデルハイトは唇を噛む。
ブロッドの体に絡み付く紫の蔦。これに含まれている毒の作用で治癒魔法の効果を反転させ、ブロッドの体を苛んでいるのだ。
「ブロッド様……!」
傷を治すどころか痛め付けてしまった。ティターニアはアクアマリンの瞳に涙を浮かべた。アーデルハイトも項垂れたまま何の言葉を発しようとしない。
二人の様子を見た男は溜飲が下がった思いだった。何もかもがぶち壊しになってしまったが、彼女たちの心を強く抉りずたずたに引き裂けた。
ざまあみろ。男はその場に座り込みながらも、侮蔑と愉悦を込めて叫ぼうとした。
かつん、と総司がモップの先端で壁を軽く叩き、口を開いた。
「謝ってください」
謝罪の要求だった。だが、何に対してなのか分からない。
何も言えず、困惑の表情で見上げてくる男に、総司はもう一度同じことを繰り返した。かつん、と壁を叩いて「謝ってください」と。
ティターニアとアーデルハイトのいる位置からは総司の顔は見えない。しかし、少年をずっと見上げていた男の顔はみるみる内に強張っていった。全身を震わせ、口を何度を動かして何とか声を発した。
「もうしわけ……ありません、でした……」
か細い贖罪の言葉が合図だったかのように、ティターニアが破壊した天井の穴から山吹色の光球が室内に侵入してきた。光球は総司の頭に着地した。
一匹の栗色の毛並みの兎に姿を変えて。
『別嬪にばかりちやほやされて顔色一つ変えないお主でも、そんな顔をするのか。マフユが見たら悲しみそうだ』
「その声はもしかして……」
『久しぶりだな、黒髪の少年。また人参でも食わせてくれないか』
そこにいたのは妖精霊の町パラケルススの主であり、エルフから神と崇められる存在――エリクシアだった。




