91.オーガの本質
全身に纏わり付く男たちの卑しい目。男たちの下品な会話がとても耳障りだ。
指一本動かすことさえも億劫になるほどの疲労感。アーデルハイトは何とか閉じかかっている瞼を抉じ開けて辺りを見回した。
「ここ……は……」
薄暗くてはっきりとは分からないが、屋内のようだ。きらびやかなフレイヤ城の一室とは違い、剣や斧を始めとした武器や縄などが乱雑に置かれている。ろくに換気もしていないのか空気は淀んでいた。
混濁している意識の中でアーデルハイトは先程見た光景を思い出していた。
魔力を無理矢理吸い取る首輪を填められ、使われていない空き部屋に放り込まれた兵士。彼らはアーデルハイトを救おうとし、逆にアーデルハイトを盾にされて怯んだところを返り討ちに遭ったのだ。
魔力を奪われ衰弱していく兵士たちは、それでもアーデルハイトを助けようと主の名を呼び続けた。
(あの下衆どもめ……!)
怒りと悔しさに奥歯を噛み締める彼女の脳裏に浮かんだのは、兵士らをせせら笑う漆黒の魔手のメンバーたち。奴らは余興として、兵士の眼前で空間魔法でアーデルハイトを連れ去る光景をわざと見せ付けたのだ。
首輪の力によって全く抵抗出来ない状態で、主を守りきれなかった絶望を味わわせるために。
最後に見た自分を信頼してくれていた部下たちの顔。その様々な負の感情を混ぜ合わせたような表情に、アーデルハイトは気が狂いそうになった。彼らはあのまま無念のまま、誰にも助けられることなく死んでいく。あんな屑の連中の手によって……。
アーデルハイトの首輪は現在、装着者の魔力の吸収を停止している。死なない程度まで搾り取り抵抗出来なくなった状態を維持させるつもりなのだ。それは恐らくアーデルハイトが人質としての価値がなくなるまで続くだろう。
だが、その時が来たとしてもアーデルハイトが楽になれるとは限らない。用済みとして殺されるか……生かされたとしても、奴らの慰み者になる道しか残されていないだろう。
(姉上……ティターニア……)
彼女たちの足枷となるくらいなら、いっそのここで自らの命を絶つ。死の恐怖よりも守るべきものを守れないことの方が恐ろしい。
アーデルハイトは静かに口を開き、自身の舌を噛み千切ろうとして。
「おっと、余計なことはするなよ?」
その粘ついた声と共に、アーデルハイトに再びあの感覚が襲いかかった。体内に無数の手が入り込み、残っている僅かな魔力でさえも掻き出すような強烈な不快感。
力が抜けていく。悲鳴を上げる気力すらなく、アーデルハイトの青い瞳には涙が滲んだ。
首輪の能力を発動させていた男は、薄汚い床の上で体を痙攣させるアーデルハイトを愉快そうに見下ろしていた。それを他の仲間が制止する。
「その辺にしとけ。死んじまったら意味がないだろ?」
「悪ぃ悪ぃ。だって、たまんねぇだろ。澄ました面の美人の泣き顔なんてよ」
「まあ、気持ちは分かるわ」
首輪の力が止まる。アーデルハイトは声すら出せず、虚ろな視線を自分を囲むように立っている男たちへ向けた。
「ようこそ、アーデルハイト殿。漆黒の魔手のアジトへ」
「あんたにゃ、しばらくここで俺らと暮らしてもらうぜ」
男の手がアーデルハイトへ伸ばされる。
ビリッとアーデルハイトの衣服を引き裂く音。それを耳にしながらもアーデルハイトには、どうすることも出来なかった。舌を噛み千切る力さえ失われた。
無数に聞こえる下劣な男たちの笑い声。人質として生かしておく必要はあるが、逆を言えば死ななければ何をしてもいいということになる。
(妾は自害することすら許されず、この者共に体を捧げるのか……)
性欲に満ちた眼球。劣情を滲ませた息遣い。
嫌だと叫ぶ。そんな簡単なことも出来ない。
「……………………」
衣服に守られていた肌が外気に触れ、その冷たさに体が震える。アーデルハイトの反応を見た誰かがヒュウと口笛を吹く。
……アーデルハイトの中にとある感情が沸き上がる。国を守る者として心の奥底に沈めていた「それ」が、今となって浮かび上がってくる。
誰でもいい。誰か。
「た……すけ……」
「たすけ? 助けてってか? 来ねえよ、お前を助けに来てくれるような奴なんざ。お前を守っていた兵士らは全部使いもんにならなくしたし、ここに繋がる空間魔法もとっくに切れた頃……」
「おい! おもしれえモンがこの大臣を追っかけてきたぞ!」
向こうの部屋から二、三人の男に引き摺られて連れて来られた男にアーデルハイトは瞠目する。
何故なら、その男は自分を好いてくれているオーガだったからだ。ブロッドというそのオーガは、この漆黒の魔手のアジトに迷い込み見付かったところを抵抗も出来ずに暴行を受けたのだろう。全身には殴られ蹴られた跡が出来、右目は潰されていた。
「うぅ……」
「こいつオーガのくせに気弱でよぉ! 単身乗り込んできたくせに俺に見付かった途端逃げようとすんだ……ぜっ!」
ブロッドを連れてきた男の一人が、ブロッドの腹部を思い切り蹴り上げる。ブロッドは短く呻き声を発して項垂れるだけだった。
つまんねえ。誰かが口にしたその呟きに、弱っていたアーデルハイトの心が怒りという焔で熱くなった。動けないながらも殺意を宿した眼光を放つハイエルフに、男たちは口元を下品に吊り上げる。
「そんな顔すんなよ。今からあんたのことも嫌ってくらい構ってやるから……」
「ころ、して……や……る……ころして……っ」
アーデルハイトの憎悪に満ちた声が室内に響いた時だった。ほとんど意識などなかったはずのブロッドの目がうっすらと開いた。
「アーデルハイト……様……?」
「おお、大臣様のピンチに頼りない騎士様が目を覚ましたぞ」
「こりゃいいや。そいつにアーデルハイトを犯すところを見せ付けてやろうぜ!」
聞こえてくる声にブロッドは、ぼんやりと霧がかかっていた意識がはっきりしていくのを感じた。右目がとても痛くて開かない。
だから左目だけでその先にあるものを見る。
「……アーデルハイト、様?」
どうしてだろうか。アーデルハイトが服を引き裂かれた状態で苦しそうにしている。
その周りにはいやらしい笑みを浮かべた男たちがいる。今から何が始まろうとしているのか。ブロッドでも分かった。
分からないのは、どうして彼女がそんな目に遭っているのか。呆然としているブロッドに、ブロッドを引き摺っていた者が『親切』に教えてやる。
「気にすんなよ。アーデルハイト様も嫌がってはいるけど、始まりゃ嬉しそうに腰をいくらでも振ってくれる」
「う、嘘だ。だって……あんなに嫌そうに……」
「嫌も嫌も好きな内って言うだろ。ほら、お前も見とけよ。気が向いたら一緒に混ぜてやるって」
その言葉を最後にブロッドの耳には何の音も声も届かなくなった。
ただ、アーデルハイトに無数の男の手が迫ろうとしている光景を見ることしか出来なくなっていた。
ソウジ君、早く来てアーデルハイト様を助けて欲しいだ。
そんな自分勝手な願いが浮かび、叶うはずがないとすぐに霧散する。
そう、ここには頼りになるあの黒髪の少年はいない。アーデルハイトを救えるのはブロッドしかない。
でも、どうやって?
そんなこと無理だ。
次々と浮かび上がる弱気な考えを打ち払う。方法など考えるな。する前に諦めるな。
早く、早く動かなければアーデルハイトが。
「アーデルハイト様……大好きだ……」
自分を奮い立たせるように呟いた。アーデルハイトの美しい肌にごつくて穢らわしい手が触れたのはその直後。
ブロッドの視界は、雪のように真っ白になった。
ぐちゃっ。
果物が潰れたような音がアーデルハイトを犯そうとしていた漆黒の魔手たちの手を止めた。
見ればオーガを拘束していたはずの男らの顔面が血まみれになり、鼻は陥没してしまっていた。
そして、両手を血で染めたオーガが憤怒の面持ちで立っている。
「ぐ、が、が……」
唸り声を上げるブロッドの全身の筋肉がみるみる内に隆起していく。鋭い牙が生え、眼球の白眼の部分は血色に染まる。
明らかに先ほどの痛め付けられるだけのオーガではない。
「やべえ! さっさと殺さねえと……!」
焦りの色を浮かべた男の一人が、ナイフを携えてブロッドへと突進していく。
「があああああああっ!!」
ブロッドは自分へ迫ってきた男の頭を鷲掴みにすると、そのまま壁に向かって勢いよく投げ放った。壁が砕け、瓦礫に飛び散る大量の血液。
投げられた男は、白目を剥いてピクリともしない。その様を見ていた他の仲間は愕然としていた。
「だから言ったんだ……俺は遊ばないですぐに殺した方がいいって……」
震える声でそう言ったのは、ブロッドをここまで運んできたメンバーの一人。ブロッドの異変に気付き、退避して無傷でいられたのも彼を早い段階で警戒していたからだ。
「オーガを本気で怒らせたら洒落にならねえって……!」




