90.盗み聞き
いつもは穏やかで緩慢な時が流れているフレイヤの城下町だが、今はその面影は全く見られない。
多くの者が雄叫びを上げながら前に突き進み、傷付き、散っていく。彼らを待ち受けるおぞましい罠や、獰猛な魔物。中には畏れが戦意を上回り、その場から動けなくなる者まで現れた。
自らを鼓舞するための咆哮。恐怖と悔しさの入り交じる絶叫。仲間を傷付けられたことによる怒号。様々な負の声が血生臭い空気を震わせる。
結界によって守られている観客たちも最初は盛り上がっていたが、あまりにも凄惨な光景に次第に言葉を失っていった。中には涙ぐんでいる参加者の家族や友人もいた。
だが、彼らは誰一人帰ろうとはしなかった。エリクシアの加護を得れば幸福な未来が手に入るとされており、参加者たちはそれを掴み取るため、必死に戦い続けていた。己自身の限界と。
「脱落者が増えてきましたわね……」
正面から突っ込んでくる巨大な丸い岩石を拳で砕きながら、ティターニアは周囲を見回す。そろそろコースの半分まで来た頃だが、参加者の人数は随分と減っていた。
今も参加者数名が地面から突き出てきた魚のような出で立ちの魔物に、丸飲みされたところである。
「活気がありますねえ」
総司は自分をも飲み込もうと体をくねらせて迫る魔物を、赤くて小さなハンマーのような武器で叩きつけながら呟いた。その衝撃で頭部が地面にめり込んだ。尾びれが苦しそうにびちびちと左右に揺れている。
ハンマーは叩く度にピコピコと可愛らしい音が鳴る。ティターニアは興味深そうに、それを眺めた。
「そんな見た目なのにとてつもない威力ですわね」
「叩いてかぶってじゃんけんポンって遊びで使われるものです。武器みたいなのも必要かと思いまして、持ってきてみました。……武器というよりおもちゃですけど」
「武器を持っているお父様もかっこよくて素敵ですわ!」
「僕より、あの人の方がすごいですよ。ほら」
総司が指差す先。そこには頭上から降り注ぐハーピーの大群を前に、満面の笑みを浮かべる店屋の店主兼犬のアブドゥルがいた。
「チェケラッチョ!!」
アブドゥルが口を開けると、顔の前に小さな火球が生まれた。それがハーピーの群れへと放たれる。
その直後、火球が爆発を起こした。空にいたハーピーたちは悲鳴を上げる間もなく灰塵と化す。
アブドゥルは総司に向かってピースをした。総司は数秒間、動きを止めて彼を見詰めていたが、やがて褒め称えるようにぐっと親指を立てた。
アブドゥルのおかげでハーピーからの攻撃を免れた参加者の中には、「こいつらとは争えない……」と恐怖で腰を抜かす者が現れていた。
「お父様! 補給所ですわ!」
コースの半分まで走ったところで大きなテントが現れた。そこでは運営陣が硝子のグラスに水を注いで待ち構えていた。
補給所には魔物や罠が出現しない。何とか生き残った参加者は安堵の溜め息をつきながら、水を口にして渇きを満たしていた。
総司とティターニアの元にも一人の運営陣の女が駆け寄っていく。
「さあさあ、どうぞ姫様。そちらの可愛いお顔の騎士様も」
「……………?」
「お父様のことですわ!」
あれほど怯えていたくせに修羅場を潜り抜け、ちゃっかり二人についてきていた黒いポメラニアンに視線を向ける総司。に、真実を伝えるティターニア。
総司は僅かに訝しそうな表情を見せながらも、女が持つトレイから澄んだ水が注がれたグラスを取った。
そんでもって、グラスを握り砕いた。
「何で!?」
女が驚愕した。ティターニアも心配そうに総司の様子を窺う。
「どうしましたの、お父様!? 硝子で手を切っていませんか!?」
「すみません、ちょっと気持ちがあらぶってまして、衝動が抑え切れず……」
何だ、この危険分子。他の運営陣は引き攣った笑みを浮かべていた。
「ガルルルルルルッ!!」
その微妙な雰囲気をぶち壊したのは、黒いポメラニアンだった。総司があらぶって破壊したグラスの残骸に向かって威嚇している。
怖がることは多々あったが、これだけ怒りを露にする姿は初めて見る。ティターニアは自らの召喚獣の異変に、硝子の破片を注視した。
「あら……?」
すると、破片の一つが独りでに動き出した。
いや、破片そのものが動いているのではない。何かが破片を乗せた状態で移動しているように見えた。
ティターニアは気になって破片を持ち上げてみたものの、そこには何もいなかった。見間違いだろうか。そう思った時だった。
一匹の手足の長い虫がぼんやりと浮き上がるように現れたのだ。それを見た女の表情が青ざめる。
「そっ、それは何でしょうかね、姫様!」
「これ……お父様のグラスに入ってましたの?」
「変な形の虫ですね」
異様に怯え始める女を他所に総司が呑気に呟く。
女は慌てて後退りをして逃げようとするが、両腕を掴まれてしまう。右腕を掴んだのはヘリオドール、左腕を掴んだのはオボロだった。
「な……何をするんですか!」
「その虫、水の中に入れると体が透明になるのよ。それで何も気付かないまま体内に入れると、鋭い牙で飲んだ人間の内臓をズタズタにするの」
「それは……とても怖いですね……」
据わった目をしたヘリオドールの説明に女は顔面蒼白の状態で、何とか笑みを作ろうとして失敗していた。オボロは女から一旦離れると、総司とティターニアが観察していた虫を捕まえた。
そして、女の顎を掴んで虫を口元に近付けた。
「試してみるかい? 総司があのままこいつが入った水を飲んでいたらどうなっていたか……」
オボロの目は本気だった。愉しげに笑う獣人の青年に女の足がガクガク震え始める。
ヘリオドールはやり過ぎなんじゃ、と横で眺めていたが、止める気は特になかった。
が、何も事情を知らないのか総司がオボロから虫を取り上げる。
「可哀想ですよ、オボロ君」
「可哀想? この女が?」
オボロが女の服の袖を捲り上げる。
しみ一つないはずの美しいエルフの腕には、禍々しい鉤爪のような黒い刺青が刻まれていた。言い逃れは出来ないと女は唇を噛み締め、傍目からこちらの様子を窺っていた運営陣がざわついた。
ティターニアも刺青を見てアクアマリンの瞳を大きく見開いた。
「あなた……その刺青はひょっとして――」
「そういえば僕の近所に刺青好きな留学生の女性が住んでいると聞いたことがありますけど、まさか」
「総司君、あんたちょっと黙ってて!!」
「まあ、お父様の知り合いでしたのね……」
「ちょっと誰かこの二人黙らせなさい!!」
総司のボケに緊迫した空気が乱れる。おまけにティターニアが便乗してきた。二人とも真顔なので天然か故意なのか判断出来ない。
オボロが溜め息をついて説明をする。
「この女は漆黒の魔手の一味だよ。この名前には流石に覚えがあるでしょ?」
「……………?」
「……………?」
総司とティターニアはほぼ同時に首を傾げると、顔を見合わせてひそひそ話を始めた。
「覚えてないなら覚えてないって素直に言えよ!」
深刻そうな雰囲気を漂わせる二人に、オボロがツッコミを入れる。
そんな呑気さに拘束されていた女が忌々しそうに言葉を吐き捨てる。
「お前らのせいでバイドン様は捕まったんだ! それを忘れただと!?」
「! あなたたち、私を誘拐しようとした……?」
「そうだ! お前が大人しく捕まっていたら漆黒の魔手が崩壊することはなかったんだ!」
「………………」
憎悪を剥き出しにする女にティターニアが言葉を失う。そんな様子を見ていたオボロがふん、と鼻を鳴らす。
「リーダーを取られた腹いせが姫様への喧嘩売りだなんて豪快だね」
「詳しい話は向こうで聞かせてもらうわ。ここにいるとレースの邪魔になりそうだし」
「……何かあったんですか?」
女を連行しようとする二人を呼び止めたのは総司だった。
ヘリオドールは一瞬、表情を曇らせたものの、すぐに笑顔を浮かべた。
「な、何でもないわよ、ほら。あんたたちも他の運営の奴から水もらってきなさい」
「はあ……」
「そうですわ! 早く行きましょうお父様!」
レースはまだ続いている。ハッとした表情で総司の腕を引いて水を持って待つ運営陣の元へ走っていくティターニアに、ヘリオドールが安堵の溜め息をつく。
そうとは知らず、ティターニアはもらった水を美味しそうに飲んでいる。総司も今度はグラスを割らなかった。
「生き返りますわー!」
「この水、少しだけ花の香りがしま……」
「ソジ君、ソジ君」
アブドゥルが総司の肩を人差し指で叩く。総司は運営陣からもう一つグラスをもらって彼に差し出した。
「あなたもどうぞ」
「センキュウ。アト、コレ」
グラスと引き換えにアブドゥルが渡してきたのは、黒いトランシーバーだった。その黒光りする物体にティターニアが目を丸くする。
「何ですの、これ」
「イエーイ! 盗聴器! 魔女ノ帽子二付ケタヨ!」
「ヘリオドールさんに怒られますよ」
と言いつつ、総司がトランシーバーを弄り始める。その手付きは初心者とは到底思えず、明らかに慣れてる感があった。
ティターニアが感心の眼差しを向ける。
「お父様使えますの?」
「僕は使う側ではありませんが。友達の部屋に仕掛けられたものを外す作業をするついでに、使い方を覚えただけです」
トランシーバーからノイズ音混じりの人の声が聞こえてくる。ヘリオドールやオボロだけではなく、ティターニアがよく知る人物の声も聞こえてきた。
『ティターニアには、まだこのことは伝えるべきでは……』
その声にティターニアは息を飲む。
「お母様……?」
その黒く四角い物体から聞こえてくる彼らの会話。それはティターニアの表情を曇らせるには十分過ぎるものだった。




