8.暗黒竜
「暗黒竜ニーズヘッグ……!」
黒いドラゴンを眼前にしてヘリオドールが呻くように言う。それに対して多少楽しそうにしながら口を開いたのは総司だった。
「ニーズヘッグって何ですか? オオサンショウウオみたいなアレですか?」
「そっちの世界の天然記念物と一緒にするな! ……総司君、あんたに魔王の話したっけ?」
「あ、聞いてます。二十年前に世界に恐ろしい魔王が現れて世界征服しようとしたんですよね」
「そう。魔王は自分に逆らう人間は全て皆殺しにして世界を手に入れようとしたの」
無限の魔力を持って闇から生まれた魔王はアスガルドを支配すべく、凶悪な魔物を大勢率いて世界を火の海に変えていった。
そして、彼には直属の部下が四人いた。
絶大な魔力を持つ狡猾な魔術師ロキ
荒々しい狼の怪物フェンリル。
アスガルドを一巻き出来る程の巨大な蛇ヨルムンガンド。
そして、死者をも貪る暗黒竜ニーズヘッグ。
魔王と彼らは世界征服の後一歩の所で、異世界から召喚されてやって来た『勇者』によって倒された。そのはずだった。
「どうしてこんな所にこんな化物がいるのよ……!?」
勇者と魔王の戦いがあった時代、まだ幼かったヘリオドールは彼らを本でしか見た事がなかった。
多くの人間を噛み殺し、その死肉を喰らったとされるドラゴンが今、ここにいる。何故倒されたはずの魔物がと考える前に恐怖で足がすくみそうになる。ちらりと横を見ればフィリアが腰を抜かして枯れ葉のクッションに座り込んでいた。
『人間よ……何故ここに来た』
低く這うような声がニーズヘッグの巨大な口から聞こえてくる。ドラゴンは知能が人間より高いとされているモンスターだ。人間の言葉が理解出来るのは当然だろう。
何かを言おうと口を開きかけたヘリオドールをジークフリートが睨み付ける。鋭い視線に慌てて口を閉じた。相手は数多の戦士や魔術師を葬ってきた魔王の配下だ。行動一つが命取りになる。
『どうした。答えられぬか……?』
「………………っ!」
四人全員が生還するために最善の選択をしなければならない。そして、それを考えるための時間稼ぎも必要だった。
どうする。どうする。
「あのー、この森の妖精さんと精霊さん達を誘拐したのはあなたですか?」
『む……?』
ヘリオドールとジークフリートが必死に作戦を練っていた時にこれである。空気を読まないにも程があった。ニーズヘッグに近付きながら総司はフラスコを掲げた。
「いやあああああああああっっ戻ってきなさい総司君!!」
「さっきからノームさんが『このドラゴンからみんなの気配がする』って言ってるんです。何か知ってますか?」
『ほう。貴様精霊の言葉が分かるのか……』
ニーズヘッグの血のように鮮やかな眼が総司に向けられる。血相を変えたヘリオドールが駆け出そうとするのを、ジークフリートが後ろから羽交い締めにして止める。
「離しなさいよ将来ハゲ!! 総司君殺す気!?」
「こんな時まで人をハゲ扱いするな! あとお前まで突っ込んでいくな!」
「いくらあの子でもドラゴンになんかと戦えるわけないでしょうが! フィリアちゃん、こんな外道がいる部署なんて早く……フィリアちゃん?」
ヘリオドールは怪訝そうにエルフの少女の名を呼んだ。フィリアは先程まではあまりの恐怖に全身を震わせていたのに、今は不思議そうにニーズヘッグを見上げていた。
「あのドラゴン……最初はすごく怖いって思ったけど……」
「フィリアちゃんどうしたの?」
そして、総司は総司で恐れ一つ見せずにニーズヘッグに質問を投げ掛けた。
「妖精さんと精霊さんはどこですか?」
『フフ……フハハハハハハ! 森に棲み付いていた妖精霊はこの私が喰らってやったわ!!』
ニーズヘッグが愉しそうに笑いながら答えた。
「なるほど。でも、どうしてですか?」
『この世界を今度こそ魔族の手中に収めるためだ。新たな魔王と共にな……』
「……魔王ですって?」
信じられない言葉だ。表情を凍り付かせるヘリオドールに暗黒竜の首が向く。
『二十年前、先代の魔王は人間に敗れ去った。そして、私達は先代を超える力を持つ魔族を見付け、その者に魔王の名を与えたのだ。再び世界を手に入れるためにな……!』
言葉を失ったのはヘリオドールだけではなかった。ジークフリートも呆然としている。先代以上の力の持ち主。その魔族が動き出せば二十年前の悲劇が再び繰り返される。
いや、あの時はウトガルドから召喚された勇者がいた。あの者がいたから人間と魔族との戦争を終わらせる事が出来た。
しかし、もう勇者はいない。
『妖精霊を喰らったのは魔王からの命によるものだ。少しずつ追い込み苦しみ……最後に絶望と恐怖を味わわせて人間を殺すためにな。人間共は奴らの加護が無ければ生きられんだろう?』
「そんな……そんな事やめなさいよ! 世界を手に入れて何になるっていうのよ!!」
『優越感を味わうために決まっているだろう。自身よりも下等な生き物を家畜と見なして何が悪い?』
迫り来る恐怖に耐えて叫んだヘリオドールの言葉にニーズヘッグは嘲笑した。
「でも、どうして世界征服なんてするんですか?」
絶望に満ちた空気を容易くぶち壊したのは総司だった。純粋に疑問に思っている顔をしていた。
『今言った通りだ。優越感を……』
「暴力やいじめで人の上に付いてもいい事なんて何一つありません。後で黒歴史になりますよ。圧倒的暴力で周囲を牛耳ってたいじめグループや不良集団って、後で大体自分より強い人に物理的or精神的にボコボコにされてしまうんです」
『……貴様、まさか現魔王より強い力の勇者が現れるというのか!?』
淡々と語られる言葉が真実だと思ったのか、ニーズヘッグが僅かに動揺を見せる。だが、総司はそんな事などお構いなしに思い出すように次の話題へ移行させた。
「あと、ヘリオドールさんから聞いたんですけど魔族さんって頭いい魔物の集まりなんですよね? なのに偉い順は強いか弱いかで決まるって」
『……ああ、魔族は力がある者こそが全てだからな』
「勿体ない」
『!?』
「「「!?」」」
総司、無表情での渾身の叫びに一体と三人は激しく動揺した。
「インテリ不良なんてかっこつけてないで、頭がいいならその頭脳を生かすべきですよ。例えば国を作るとか」
「国って何言ってんの総司君!?」
「だって単純に人を脅したり傷付けて上に立つより、国を一から作って業績上げて周りから凄いとかこの国住んでみたいって喜ばれて尊敬される方がいいと思いますよ。後からテレビとかで国を築き上げた偉人として取り上げられたり本が出版されたり……」
「この世界にテレビなんてないわよ馬鹿!!」
無茶苦茶な話題を出してきた総司に呆れつつ、ヘリオドールは急に黙り込んでしまったニーズヘッグを見遣った。怒らせてしまったのだろうかと背中に冷や汗が流れる。
『魔族が人間に認められる? 逆だな。私達が貴様達人間の存在を認めてやっているのだ!』
ニーズヘッグが大口を開け、喉奥から紅蓮の炎を総司目掛けて吐き出す。
「ソウジさん逃げて!」
フィリアの叫びと共に動き出したのはジークフリートだった。総司の元へ駆けていきながら、宙に素早く指で魔法陣を描いてそこから白銀に輝く剣を出現させる。彼の愛剣バルムンクだ。
ジークフリートはバルムンクを右手に持つと、吐き出された炎に向かって刃を振り上げた。その直後、少年を焼き尽くすはずだったそれは一瞬で消滅した。
「お前から大体の話は聞き終わったんだ。もう時間稼ぎはやめにする」
『ほう。その剣、火の精霊サラマンダーが封じ込められているのか……』
バルムンクの柄の部分に嵌め込まれた炎色の石が妖しく輝く。それと共にジークフリートの体がよろめいた。
「どうしたんですか、ジークフリートさん」
「……バルムンクはサラマンダーの力を最大限に引き出す剣でな。俺の呼び掛けに応えて炎を生んだり消したりするのはいいんだが、それ相応の魔力をサラマンダーが封じられている石に注がなければいけないんだ。流石にドラゴンの炎を消すのは力がいる……あと二回が限度だ……ヘリオドール、フィリアとソウジを連れて逃げろ!」
「はあ!? あんたはどうすんのよ!」
素直に従わないヘリオドールにジークフリートは息を切らしつつ舌を打った。
「俺は後から適当にこいつを撒いて逃げる! お前は先に役所に戻って今の話をアイオライトに……」
『逃がすとでも思っているのか? どうせ生きていても後から死ぬのだ。なら、今ここで楽にしてやろう……!』
ニーズヘッグが再び炎を吐き出す。先程よりも明らかに威力が強い。ヘリオドールは瞬時にジークフリートだけでは防ぎ切れないと悟り、杖を握り締めた。
「私も結界を張ってここを食い止めるからフィリアちゃんは総司君を連れて逃げなさい!」
「ヘリオドールさんとジークフリートさんは!?」
「いいから!」
新人、特に総司はヘリオドールと関わらなければ平穏にウトガルドに暮らせていた少年だ。こんな所で死なせるわけにはいかない。
自分達を飲み込もうと迫る炎に、恐怖ではなく二人を守ろうとする気持ちがヘリオドールを動かした。ジークフリートもその覚悟を感じたのか、彼女を止めようとはしなかった。
「バルムンク!!」
「紅に染まりし障壁よ。地獄の業火から燃え逝く運命の民を救いたまえ。――『焔隠しの盾』!!」
バルムンクの石が輝きを放ち、ヘリオドールの対火属性の結界が周囲を包み込む。
そして、二人の背後から突然噴き出した謎の白い煙がニーズヘッグの吐いた炎を全て消滅させた。
「「!?」」
『!?』
ジークフリートが剣で消したわけでもヘリオドールが結界で弾いたわけでもなかった。白い煙が炎を消してしまったのである。
まさか。
ヘリオドールは背後を振り向いた。
「万が一に備えて消火器を鞄に忍ばせておいていたんです」
そこには消火器を持っている総司の姿があった。ちなみに総司の鞄は消火器などどう頑張っても入らない大きさをしている。