78.早朝デート
「アスガルドに行く前に寄り道していいですか?」
総司にそう言われたのは、暖かな日差しが降り注ぐ日曜日の早朝のことだった。たまには迎えに行ってやってもいいんじゃないのと、ウトガルド風の衣服に着替えて藤原家にやって来たヘリオドールはその言葉に瞬きをした。
「行くって……どこに?」
「本屋です。大丈夫でしょうか?」
「まあ……仕事が始まるまではまだ時間があるし」
「ありがとうございます。では、行きましょうか」
ヘリオドールが来る前に既に身支度を終わらせていた総司が、家を出て歩き始める。その後をヘリオドールも追いかける。ちょっとぐらいなら寄り道してもいいし、こちらの世界での総司の暮らしぶりを知るいい機会にもなる。
気になるのは、その本屋である。現在の時刻は七時十五分。こんな早くからウトガルドの本屋は開いているものなのだろうか。そんなヘリオドールの不安はどんどん大きいものとなった。
閑静な住宅街を歩いていたはずなのに、いつの間にか左右どちらを向いても空き地ばかりの道になっていた。電信柱は薄汚れており、電線の上には夥しい数の烏が止まっている。彼らは鳴き声を発することもなく、総司とヘリオドールを静かに見下ろしていた。人の声はおろか、遠くから車のエンジン音も聞こえることなく、空は分厚い灰色の雲に覆われてしまっていた。総司が「今日はいい天気ですね」と呟くが、彼と自分とでは見ている世界が違うのではとヘリオドールは戦慄した。
その時、空き地になっていない一軒家からキイ……と引き攣れるような音が聞こえ、ヘリオドールは咄嗟にそちらに金色の瞳を向けた。
玄関の扉が僅かに開いており、そこから住人らしき者が総司とヘリオドールを覗いていた。扉の隙間から見えた住人の姿にヘリオドールは息を呑んだ。
住人は何も服を着ていなかった。青白い鱗のような物に覆われて、ぼんやりと光る肌。魚のように丸い二つの双眼。両手足の指は水掻きのような形状をしている。
むわり、と臭ってくる生臭さにヘリオドールは手で口元を抑えた。住人はそれを見て、ゆっくりと扉を閉めた。
「そ、総司君、あそこの家って」
「伊川さんですか。時々、ああして覗いてくるんです。恥ずかしがりやさんなんですよ」
「内面のことなんて知りたくないわよ! 外見についての情報を寄越しなさいよ!!」
「あ、ヘリオドールさんこっちです」
ヘリオドールの要求をさらっと無視して総司が入ったのは雑木林だった。いよいよヤバい、とヘリオドールの第六感が告げる。中に入った瞬間、体が大きく震えた。ざあ、と吹き荒れる風によって揺れる木々は全て枯れ落ちる寸前で、木の葉は茶色く変色していた。
風の音が誰かの笑い声に聞こえてきた。得体の知れない何かを感じて、ヘリオドールは総司の制服の袖を握り締めた。
「総司君、本当に行くのは本屋よね……? 狐に化かされたとかそういうのじゃないわよね……?」
「本屋ですよ。ほら、着きました」
総司の指差す方向にあったのは、小さな小屋のような店だった。脇に刺さっている『本屋』という立て看板のおかげで、ギリギリ店だと判別出来る程の古びた外装だった。馬小屋と言われたら納得してしまうかもしれない。
ちなみに馬小屋というのは百歩譲っての表現である。一歩も譲らない状態で言うならば、昔悲惨な殺人事件が起きて以来誰も足を踏み入れることなく朽ち果ててしまった小屋、をイメージしたお化け屋敷だ。
(は、入りたくないぃぃぃぃぃ!)
早朝のウトガルドの町を総司と歩きたかった。本音を言えばただそれだけのために、わざわざ服まで用意したというのに、どうしてこんな恐怖に震えるような状況になっているのだろうか。
マナーモードの携帯並みにぶるぶる震えるヘリオドールを総司が気付く。
「あの……ヘリオドールさんは外で待ってていいですから」
「えっ」
こんな首吊り死体がぶら下がってそうな場所に放置されても……。
それはそれで嫌だと複雑な思いのヘリオドールだったが、次の総司の一言で様子が一変した。
「僕とちょっとここの店主と話しているのを見られるのは気恥ずかしいので」
「えっ!?」
どういうことだ。ヘリオドールは愕然とした表情で総司を見るも、少年は近くに生えていた木に藁人形が打たれているのをのんびり見詰めているだけだ。しかし、問題の発言を聞いた後では、それは単なる照れ隠しにしか見えなかった。
気恥ずかしい。つまり、ヘリオドールにはあまり知られたくない人物ということになる。同じ男でそんな人物がいるとは考えられないだろう。だが、女だとしたら。それも総司と親密な関係にあるとしたら。
「行くわ……」
「え? でも、怖いなら無理しなくても……」
「無理じゃないわ! 全然無理じゃないわ!!」
怪しい。限りなく怪しい。ヘリオドールの頭の中では、総司とこのお化け屋敷の中にいる美女が談笑している光景が広がっていた。
(フィリアちゃんやアイオライトの気持ちを無視して……どんな女なのか確かめてやる!)
と、心の中で自分に対してそう言い訳しつつ、猛烈な嫉妬心に突き動かされていたヘリオドールは気付いていなかった。総司が意中の女性との交流を知られたくないのなら、始めからヘリオドールなど誘っていなかったことを。
鼻息を荒くしながらヘリオドールが店内に入る。引き戸式の入口は建付けが非常に悪く、窓には奇怪な柄をした蜘蛛が巣を作っていた。
店の内部は薄暗かった。天井にぶら下がった弱弱しい光を放つ黄色いランプ以外に明かりはなく、本屋のくせに文字を読むのに苦労しそうな環境だった。
「な、何ここ……」
「本屋です」
「本屋って……」
確かに棚にはびっしり本が敷き詰められている。だが、どれも背表紙にはタイトルが記載されておらず、どんなジャンルなのかすら分からない。
試しに一冊だけ棚から抜いてみる。表紙にもタイトルは書かれていない。その代わり、人間の顔のようなイラストが描かれており、何とも言えない不気味さを醸し出していた。
その本を開こうとしたヘリオドールはあることに気付いた。気付いてしまった。
本のカバーがしっとりと濡れているのだ。湿気によるものだろうか。他の本にも触れてみるも、濡れているのは、それだけだった。
というより、何となく奇妙な手触りのカバーだった。本に触れている感覚ではない。そう、まるで人間の肌に触れているような……。
「……………………」
そこまで考えてヘリオドールは無言で本を棚に戻した。私は何も知らない。私は何も知らない。頭の中でそう繰り返しながら。
店の中に入ってしまったことを猛烈に後悔し始めた頃、最奥部にレジカウンターがあるのを発見した。いかにもウトガルドの店らしい光景に、ヘリオドールは安堵した。
「チェケラ!!」
カウンターにいたのは、上半身裸のマッチョの黒人だった。上は何も着ていないくせに、黄色い帽子とサングラスを着用している。違うだろう。隠すべき場所が全然隠れていないではないか。
回れ右をして脱出を図ろうとするヘリオドールに、僅かに困惑した様子の総司が話しかける。
「ヘリオドールさん? 一体どうしたんですか。顔色も悪くなってしまって……」
「あんたも今すぐここから出るわよ、総司君。こんな混沌とした場所に居続けたら私たちもああなってしまうわ」
「ああなってしまうって……ここの店主の人ですよ」
どうしたんですかとでも言うような総司の言葉に、ヘリオドールは勇気を出してカウンターへと視線を向けた。
「チェケラッチョ!!」
「帰るわよ!! ラッパーもどきのマッチョが店主やってるってもうおかしいじゃないこの店!!」
「安心してください、ヘリオドールさん。彼はアブドゥルさんと言いまして、この店の常連客からは〝狂えるアラブ人〟と言われている人です」
「何を安心しろって!? 狂ってるのは皆周知済みってところに!? しかも、なんでアラブ人がこんなところで店開いてるのよ!?」
「YO YO YO! フゥゥゥゥゥゥゥ!!」
「アラブマッチョは黙ってろ!!」
どうしてくれよう、この惨状。これは確かに会っているところを見られたら気恥ずかしい。
こうなったら、一刻も早く総司には用件を済ませてもらうしかない。
「アブドゥルさん、では例の物を……」
「カモン! イエアッ!」
アブドゥルがカウンターの下から何かを取り出す。
表紙にも背表紙にもタイトルが書かれていない黒い本だった。
「foyuajdogpgea!!」
もうアブドゥルが何を言っているのかすら分からない。しかし、ちゃんと総司にはちゃんと理解出来たようで、「ありがとうございます」と言って本を受け取った。
「え……あんたそれ買うためにここに来たの?」
「買ったわけではありません。この〝ネクロノミコン〟という本は普通に買うとあまりにも高いので、交換条件で僕が本の内容を日本語に訳する代わりに借りる形になったんです」
「ふーん、どこの国の言葉なの? あんたって頭がまあまあいいのは知ってたけど……」
「一応アラビア語です。でも、僕にこの話が来たのは、僕がアラビア語を読み書き出来るとかそういうことではなくて、僕以外の人がこの本を読むと、精神に異常を来すからなんですよ」
「何その怖い理由!? 何でそんな本を翻訳の苦労を負ってまで借りようとしてんの!?」
「それはその……高くて……」
総司は少し気まずそうに答えた。
「私が聞きたいのはそこじゃないわよ! 大体いくらなの、それ!?」
「十兆と九百八十円ダヨ!」
答えたのはアブドゥルだった。どうしてそこだけまともな言語になるのだ、狂えるアラブ人よ。
しかも何だ、その天文学的な値段は。




