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59.二人きりの一夜



 ジークフリートを引き取りに来た保護研究課の職員達は部屋に踏み込んで数秒後、「なんか臭い」「なんか汚い」などと小声で文句を言った。引越し初日だというのに室内は焦げ臭さと青臭さが混じり合った悪臭が漂っており、窓を全開にして換気をしているのに空気が浄化する気配は見られない。

 更に引越し初日だというのに、ゴミ山が存在していた。枯れた草や丸められた書類や干からびたトカゲの死体など本当にゴミばかりが積み上がっている。一体どういう事? と皆首を傾げるしかない。

 ヘリオドールはそんな彼らにひたすら謝る事しか出来なかった。新しい住み処を提供してくれたジークフリートを殺しそうになってしまったと。もうこれは自分が悪いとしか思えなかったので全力で謝る事しか出来なかったのである。


「私があんまり食べたくなさそうな顔をしてたジークに無理矢理クッキーを食べさせたから……!」

「ヘリオドールさんのせいじゃありませんよ」


 自責の念に駆られている上司に慰めの言葉をかける総司の手には黒い物体があった。彼が何でもないような顔をして食べているそれこそがジークフリートを瀕死に追いやったクッキーだった。それを食べてぶっ倒れたというなら作ったヘリオドールに原因はある。


「僕は美味しいと思うんですけど……」


 そんな狂った感想を述べられても、「じゃあ俺も食べる!」と言い出す者など誰もいない。誰も死にたくないのだ。勇気を持って食べようとした職員もクッキーを顔に近付けた瞬間、青ざめたかと思うと外に飛び出して新鮮な空気をたくさん吸っていた。


「ジークフリート課長こんなのを食べたのか……」

「もう年なのに頑張るな……」

「無茶しやがって……」


 よく見ればもはや焼き菓子というよりは炭だ。それを食べたのである。そりゃ倒れる。


「ほら……ジークフリート課長帰りましょう」


 職員が青白い顔でベッドに寝かせられていたジークフリートに声を掛けるも返事はない。彼を尊敬する部下達はみんな啜り泣いた。葬式のような重苦しい雰囲気が悪臭に満ちた部屋にのし掛かる。

 ジークフリートは保護研究課が手配した馬車に乗せられて帰る事になった。残されたヘリオドールに出来る事は溜め息をつく事だけだった。


「……すみません。僕がクッキーを食べたいなんてわがままを言ったからこんな事に……」

「あんたのせいじゃないわよ……私だってここまで不味いものを作るだなんて思ってなかったから……」


 せっかく総司がねだってくれたのだ。味よし健康よしのクッキーを目指して薬草のエキスを入れた事が原因だろうか。

 何故こんな事になってしまったのかとヘリオドールは必死に考える。このまま何も思い付かなかったらジークフリートは犬死にだ。悲劇は再び繰り返される。


「総司君何が悪かったかあんた分かる? さっきからボリボリ食べてるけど……」

「僕にはよく分かりません。普通に美味しいと思いますよ」

「ええい、役に立たない!」


 美味しいと言って食べてもらうのも考えものである。総司に美味しいと褒めてもらえたのは嬉しいが、彼にしか食べられないクッキーでは意味がないのだ。母親が食べてジークフリートのようになったら、恐らく立ち直れないとヘリオドールは悟っていた。


「ジークフリートさんが嫌いなものでも入ってたんじゃないですか? 草の香りがしますけど……」

「やっぱりそこかしら。色々な薬草のエキスを入れてみたんだけど、その中にジークが食べられないものがあったのね……」

「きっとそうじゃないですか? いっその事、エキスは入れない方がいいと思います」

「うーん……」


 ジークフリートだけでなく特定の種族が食べられないような薬草を除いて、新たなるエキスを作成しようと目論むヘリオドール。そんな魔女に総司は最後の一つを咀嚼し終えてから、口を開いた。


「お菓子に栄養なんて求めなくても大丈夫ですよ。お菓子は美味しかったらそれでいいんです」

「そ、そうね……」


 もっともらしい事を言われ、ヘリオドールはぐうの音も出なかった。そうだ、料理の経験があまりない自分が味と栄養を両立させられるわけがない。

 まずは味である。不味かったら食べてもらえず栄養どころではなかった。


「ありがとう総司君! 私……頑張るわよ!」

「応援してます。でも」

「でも?」

「その前に部屋の整理をしないと夜中になってしまいそうです」


 総司の言葉にヘリオドールは息を飲んだ。そう、自分達はクッキーの改良を考えるより先にやる事があった。片付けである。使うものとゴミの分別は終わったが、今からその使うものを片付けなければならないのだ。

 本来はここにはジークフリートがいたはずなのだが、彼はもういない。保護研究課の職員の中に手伝いを名乗り出る者も現れず全員小走りで帰っていた。

 ここからは二人で全てやらなければならないのである。


「総司君……」

「何でしょうか?」

「手伝って……」

「親には友達の家に泊まると言ってあるから大丈夫です」


 ここで総司が拒否しようものなら、きっと泣き叫んで懇願していただろう。帰らないで、と。遊びに来た彼氏が帰ろうとする時に甘えた口調で言うのが本来の用途である。いつ終わるかも分からないデスマーチに付き合わせるために使用される言葉ではなかった。




 そして数時間後、異臭が立ち込めていた室内はほんのりと甘い柑橘類の香りが漂っていた。総司が「万が一に備えて持ってきてました」と思い出したように鞄から取り出した芳香剤によるものだ。

 ゴミも無くなった。ヘリオドールが疲労と切なさで半泣きになりながら焼き払ったからである。

 使うもののカテゴリの中にあった物も全てあるべき場所へ設置され、ただただ汚かった喪女の部屋は小綺麗な乙女の部屋へとクラスチェンジを果たした。なんという事でしょう。


「やったわよ総司君! 私達やり遂げたのよ……!」

「おめでとうございます」

「何言ってんの! あんたがいたからこそ頑張って来れたんじゃないの……!」

「泣かないでくださいヘリオドールさん」


 床に座り込み咽び泣くヘリオドールの肩を叩く総司。現在夜の十一時。もう少しで日付が変わりそうな時間帯である。既に寝る人は寝て、夜遊びを楽しむ人は楽しんでいる間、二人はずっと片付けを頑張っていた。

 何度も挫けそうになったヘリオドールを総司が「諦めてはいけません」と叱咤していなかったら、今頃彼女はゴミに囲まれて一夜を過ごしていただろう。総司がいたからこそ、というヘリオドールの言葉は大体合っていた。


「それじゃ、僕はこれで」


 無表情ながら、どこか全てをやり遂げたような達成感を纏わせた総司が鞄を肩に掛ける。え、と金色の目を丸くするヘリオドールの異変には気付いていないようだった。

 おやすみなさいヘリオドールさん。そう言って玄関へ向かおうとする総司の動きがピタリ、と止まった。


 ヘリオドールが床に座ったままの体勢で総司の両足首を掴んでいたのだ。


「あの、ヘリオドールさん」

「どこに行くの?」

「役所の仮眠室をお借りしようかと」

「私の部屋に泊まればいいじゃない。ベッド貸すからそこで寝なさいよ。私は床で寝るから」


 なりふり構っていられないと鬼のような形相で、無茶苦茶な提案をするヘリオドールの性別は女である。両足首を凄まじい力で掴まれている総司の性別は男である。オネェ口調の彼氏と僕っ子の彼女ではない。

 ベッドを貸すから泊まれ、自分は床で寝ると言い出したとしても。


「いえ、寝袋を持って来てますから僕が床でも大丈夫です」

「じゃあ泊まって! お願いだから!!!」


 両目をこれでもかというくらいかっ開いて叫ぶヘリオドールには色気が感じられない。どちらかと言えば、ホラー映画に登場するヒステリックな女幽霊だ。


「僕は構いませんけど、女の人の家に泊まるのはちょっと」

「え……ん!? あ、あんたまさか私がそういう意味で泊まれって言ってると思ってるの!?」


 自分の発言の危うさに気付いたのか、そこでやっとヘリオドールは頬を赤らめた。遠ざかっていた甘いムードがほんの少し戻ってきた。


「ち、ち、ち、違うわよ! 私はただ今夜眠れそうにないからあんたにいて欲しいってだけだから!!」

「はぁ」


 ますます誤解を招く発言をするヘリオドールだが、総司の表情は崩れない。しかし、「この人どうしたのかなぁ」的な空気がほんの僅かに流れている。ヘリオドールはハッとすると、まず眠れない理由を話す事にした。


「わ、私慣れない家とか部屋だと緊張しちゃって夜寝れないのよ……前まで住んでた家(爆発済)でもアイオライトに泊まってもらったの。誰かがいれば安心して眠れるから」

「それならますます僕が泊まるのは駄目じゃないですか? 余計眠れないんじゃ……」

「……分かりました。でも僕は台所で寝袋を使って眠らせてください。僕の気配がヘリオドールさんにまで届けばの話ですけど」

「多分、いけるわ。それじゃあ、よろしくね総司君!」


 ようやく笑顔を見せたヘリオドールに総司は「よろしくお願いします」と律儀に頭を下げた。







 ひんやりとした空気の流れる台所でいそいそと鞄から寝袋を出し始める少年と、安心した表情でベッドに潜り込む美しい魔女。別に少年は魔女によって惨めな生活を強いられているわけではない。

 こうして彼らは朝まで一度も目を覚まさず眠り続けるのであった。

スヤァ…

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