58.濃緑の泡
「ヘリオドールさん、僕クッキー食べたいです」
「え? クッキー……?」
自分を置いてけぼりにしてリビングに戻って行った男二人を追い掛けて来たヘリオドールに、総司はおねだりをした。本当はクッキーが食べたい(妥協案)と言い出したのはジークフリートなのだが、それは知られてはならない。今すべきなのはヘリオドールの調理方面のスキルがどんなものなのかを調べ、彼女の作ったものを食べて無事に生き残る事だ。
そんな男二人の思惑など知らず、ヘリオドールは怪訝そうな表情を浮かべた。とりあえず夕食はゲット出来たが、前菜くらいは何か作ろうかと目論んでいた所なのだ。どうせなら総司からのリクエストを受け付ける気満々だった。そうしたら彼の方からリクエストをしてきた。
ヘリオドールにとっては嬉しい展開なのだが、少年が食べたいと言ったのはクッキーだった。
「物足りないわね……」
「………………!?」
魔女の口からぽつりと呟かれた言葉にジークフリートが息を飲む。どれだけ手の込んだものを作って自分達を苦しめるつもりだったのかと。まだ何も始まっていないのにヘリオドールの手作りが毒物であると信じて疑わないイケメンは総司の肩を叩いた。
本当に頑張ってください。そう激励するように。作り笑顔を一生懸命顔に貼り付けるジークフリートに危機的なものを感じ取ったのか、総司はこくんと首を縦に振った。
「僕……クッキーが大好きなんです」
「え? あんた好きなお菓子は酢昆布ってこの間言ってなかった?」
「今はクッキーの年頃なんです」
どんな年頃なのだろう。素なのかボケているだけなのか判断できず、ヘリオドールはツッコミを放棄した。ジークフリートは自分の命が関わっているのでそれどころではない。
「ですから、ヘリオドールさんがクッキーを作れるなら食べてみたいなって思ってみたんですけど……」
「そ、そういう事だったのね……」
「あ、すみません。好き勝手言ってしまって……他のものを作ってみたいならそれでも僕は構いません。ヘリオドールさんが作ってくれるものなら何でも食べたいですから……」
「いいわよ! クッキーね! クッキーを作ればいいのね!?」
珍しい部下からのおねだりである。これを聞かないでいつ聞く。最後に自分の意見を尊重しようとしてくれた総司にヘリオドールは決意した。総司が美味しく食べてくれるようなクッキーを作ってみせる、と。
腹が減っては戦が出来ぬと言わんばかりに「まずは夕食を食べるわよ! その後のおやつとして作ってあげる!」と叫びながら水晶玉から食器を取り出すヘリオドール。その気合の入った様子に大きな不安を抱いたジークフリートは一仕事を終えたばかりの総司に声を掛けた。
「ソウジ……俺の選択は正しかったのか?」
「正しいんじゃないですか? それに僕がヘリオドールさんのクッキーが食べてみたいのは本当ですし……」
「お前は勇気があるな。俺は何だか死刑執行が先に延びただけのような気がするぞ……」
惨劇は避けられないのではないだろうか。そんな予感に顔色を悪くするジークフリートを放って総司は総司で魔女の食卓の準備の手伝いを始めた。その横顔には不安や恐怖の色は見られない。
(流石あいつらの子供だ……俺はあんなに強くはなれない……)
眩しいものを見るようにジークフリートは目を細めた。
食堂の職員からの差し入れのリゾットは非常に美味しく、鍋いっぱいにあったそれは綺麗に無くなってしまった。食器と鍋も綺麗に洗った所でジークフリートは爽やかな笑みを無理矢理顔に貼り付けた。
「よし、じゃあ今から片付けを始めるぞ!」
「私はクッキーの準備もしてるわね!」
ああ、リゾットを食べている内に忘れてしまっている事を期待していたのに、しっかりと覚えていた。
太陽のように明るい笑顔を見せる魔女にジークフリートはもう何も言えなかった。ただ死刑の時を待ちながら彼女が持ってきた荷物を整理するだけである。
「ヘリオドールさん、水晶玉から片付けるものを出してもらってもいいですか?」
「ええ、よろしくね」
ヘリオドールが水晶玉にぶつぶつと呪文を唱えると、それは輝き始めて封じ込めていた物を外に出していった。
主に紙、枯れた薬草だった。後は夕飯の時に使用しなかった食器類や小物など。それらがリビングに散乱する。恐らく薬草から来るものなのか、奇妙な匂いが室内に充満して呼吸がしづらくなった。
「換気をしましょう」と部屋主の許可を得ないまま総司が窓をがらり、と開けた。外から清らかな空気が入って来る。いや、特別綺麗な空気なわけではなかったが、今の彼らにとってはとても美味しい空気だった。
「ヘリオドールさん、なんかたくさん枯れている草がありますがこれは……」
「つ、使うわよ! いつか薬を作る時に使おうと思っていたやつなのよ!」
「嘘付け!」
いつか使うから取っておく。そう言って部屋に残されたものの大半は結局使用されず、捨てられる運命にある。だったら今の内に捨てる方がいいに決まっている。どこから見てもゴミにしか見えない薬草を次々と拾って廃棄物スペースに放り投げる男二人にヘリオドールが叫ぶ。
「鬼畜ー!」
「すみませんヘリオドールさん」
「うるさい! お前あの森のせいで分からなかったけど、普通に部屋が汚かっただろ!? この書類だってもう破棄してもいいやつだぞ!」
「いつか使うわよ!」
「すみませんヘリオドールさん。これも捨ててしまいますね」
悲痛の叫びを上げるヘリオドールにいちいち説教をかましながらも、手にした物品を一応使うものかを見極めているジークフリートに対し、総司は一言謝るだけで手に取ったものを次々と廃棄コーナー送りにするという容赦のなさを存分に見せ付けていた。もっとも、ただ闇雲に捨てているのではなく、きちんと要らなそうなもののみを手にしていたが。
とりあえずヘリオドールの了承をいちいち取りながらでは作業が進まないと判断したのだろう。ヘリオドールが総司の言葉に反応するよりも先にゴミ認定していた。おかげでヘリオドールが持って来た荷物の半分程の量が焼失した。
つまり、半分程がゴミだったのである。
「総司君……これとかこれは絶対いつか使う予定が……」
「いつ使うか明確な日にちが分からないものは捨てちゃった方がいいと思います」
「はい……」
どっちが上司か分からない。「ここは僕達に任せてヘリオドールさんはクッキー作りをお願いします」と上司をキッチンへと追放した総司の動きは更に素早くなった。ヘリオドールがいなくなった今、彼を止められる者は誰もいなかった。ジークフリートも一切の情けも見せず、選別作業に専念していた。
これはどこにしまい、それはあそこにしまうとかの話ではない。まず、この中から要るもの、要らないものを区別するのが先だった。予想していたよりも時間がかかるかもしれない。
「ソウジ、時間大丈夫か? 選別だけでも一時間くらいかかりそうな流れだが……」
「役所の仮眠室を今晩は使わせてもらおうと思います。親には友達の所に泊まると言っておけば何とかなりますから」
「と、泊まるって……そこまで長期戦にはならないと思うぞ」
泊まり掛けでやるような作業になったら、ジークフリートが強制的にウトガルドに帰らせている。そもそもこの労働自体が強制ではないのだ。帰りたくなったらいつでも帰ってもいいのだ。
「お前がそこまで頑張る必要はないんだからな。ヘリオドールに何か弱味を握られて奴隷のような扱いを強いられているってわけでもないんだろう?」
「そんなまさか。ただ、ジークフリートさんに何かがあった時は僕とヘリオドールさんの二人で頑張らなければいけないと思ったので……」
「俺に……?」
黒曜石を思わせる瞳が何かを訴えるようにジークフリートを見詰める。その視線が恐ろしく思えて、恐怖を誤魔化すように明るく笑う。本日何度目の作り笑いだろうか。
「や、やめろ。縁起でもない。お前のその言い方だと俺がこの後、ヘリオドールのクッキーを食べて大変な事になりそうだ」
「いえ、でも……」
「安心しろ。どんな不味い料理を食べても片付けは最後まで手伝うつもりだ。お前の帰りが遅くならないようにな」
「母さん? ごめん、今日斎藤君の家に泊まる事になったんだ。着替えとかはちゃんと持ってるから……」
「ジーク! しっかりしなさいよジークフリート!! どうしてクッキー食べた直後に口から緑色の泡吹いて倒れてんのよ!?」
「女の人の声がする? 斎藤君のお母さんだよ。斎藤君が何かやらかしたみたいで……うん、父さんによろしくね。それじゃ、明日の朝には帰るから」
母親に『お泊まり』の電話を終えた総司は携帯を鞄にしまいながら室内を見渡す。
ようやく選別が終えたヘリオドールの荷物。
ぶるぶると震えながら白目を剥き緑色の泡を吐くジークフリート。
床に散らばる黒い岩石のような物体。
顔面蒼白でジークフリートの異変にパニックを起こすヘリオドール。
地獄のような光景だった。
※一応下着とか貴重品関係は後で自分で片付けるので、水晶玉に入ったままです。




