55.森に棲む魔女
この日の夜空に光は存在しなかった。星も月も分厚い雲に隠されてしまい、どこか鬱々とした黒が広がるばかりである。
そんな空の下を歩きながらジークフリートと総司が向かったのは、ウルド中心部にある魔女の一軒家。ヘリオドールの自宅である。通称『ウルドで最も恐ろしい場所』。あの所長ですら入る事を全力で拒否したと言われる魔窟だった。
「僕、この前スクルドにある『闇夜の館』ってお店に行ったんですけど、あそこより恐ろしいんですか?」
「お前あそこに行ったのか……勇気あるな。だが、あの店は店主が客をあの手この手を使って驚かせてくるだけだろ? 今から行く所は別の意味で恐ろしいぞ」
「それはどういう意味で」
「駄目なんだよ。なんかもう駄目なんだ」
つまり駄目。実にストレートな答えだった。総司は何を考えているのか、無言だった。ジークフリートも怖がらせたかと無言になった。
男同士での沈黙は気まずさがある。これが闇夜の館潜入時の組み合わせであれば、オーガの方が常に何かしら話題を出してくれるので良かった。
「あ、ほら、あそこだぞ。ヘリオドールの家は」
ジークフリートが指を差したのは小さな一軒家だった。屋根は壊れてはいないし、窓硝子も割れていない。玄関先には花が植えられた鉢が並んでいる。
どこからどう見てもまともな家である。闇夜の館とは正反対のクリーンな外装だった。
「綺麗な家ですね」
「見た目はな」
素直に褒める総司にジークフリートが不穏な一言を漏らす。
闇夜の向こうから烏が飛んできたのはその時だった。漆黒の翼を羽ばたかせながらヘリオドールの家の屋根に止まろうとしていた。不吉である。
しかし、その烏は直前にくるりと綺麗にUターンして元来たルートを飛んで去って行った。何かに勘付いてしまったかのように。烏ですら近寄ろうとしない家。不吉にも程があるだろう。
その様子をじっと眺めていた総司が鉢へと黒い瞳を向ける。目の前の惨劇など関係なく美しい花が咲いていた。
が、よく見ると花びらが風も無いのにゆらぁ……ゆらぁ……と揺れている。花を守護するかのように茎の周囲の地面からは肉色の触手が何本も地面から突き出てくねくねと動いていた。
嫌悪感を掻き立てられる一品である。間違いなく玄関先に置くべきものではない。
「まさに魔女の館ですねぇ」
総司が自分の方へ伸びてきた触手と握手しながら感想を述べる。
「それは貶してるのか褒めてるのかどちらだ」
「勿論後者です」
「あいつはあれでも森に住んでいた魔女でな。家の中にもこんな植物がたくさん置いてあるから覚悟しておけよ」
そう言いながらジークフリートはドアを数回ノックする。そして、懐から鍵を取り出すと遠慮なく差し込み口に突っ込んで回した。カチャリ、と施錠が解除される音。
「……ジークフリートさんどうして合鍵を?」
「か、勘違いするなよ。俺だけじゃなくてアイオライトやリリスも持ってるからな!」
「別にそんな慌てなくても……」
「あいつと何かあるって思われたくないんだよ。本当に。心の底から!」
本人が聞いたら烈火の如く怒り狂い、暴力的な意味で襲い掛かってくるであろう言葉である。そこに恋愛感情など1ミリも存在していないとしても。
必死に説明した後にジークフリートはドアを開いた。
そこには青々とした森が広がっていた。何かを比喩した説明ではない。本当に森になっているのだ。天井付近まで成長した木と床を埋め尽くす多種類の草花。天井や壁は蔓で侵食されており、木の根元を見れば茸が生えていた。
最早、綺麗汚いの次元の問題ではなかった。
「な。こんな家の持ち主と俺は付き合えない……」
「そもそもここは人間の生活区域内なんですか?」
「あいつ毎日この家で生活してるらしいから区域内なんだろ。あいつにとっては」
彼らの前を虫が横切った。羽根が生えたムカデのような虫だった。総司とジークフリートは羽ムカデが優雅に森の奥へ姿を消していくのを見守っていた。
「あ、いらっしゃいジーク。せっかくだからお茶でも飲んでく?」
そしてムカデと入れ替わる形で奥から現れた菫色のローブを纏った魔女。早く帰らせて。それがジークフリートの答えだったのだが言葉が出ない。
「ん? あんた他に誰連れて来て……」
「お邪魔してます、ヘリオドールさん」
「……………………」
ひらひらと手を振る少年にヘリオドールの笑顔が引き攣った。何故ここに。そんな疑問が彼女の中に沸き上がったのだろう。
直後、ジャングルに悲鳴が響き渡った。
それから一分後、魔女の巣窟へと訪れた哀れな二人はリビングへと連行された。そこも森だった。玄関よりも木の量が多く、どこに壁があるのかすら分からない。中央に置かれた木製の机もアウトドア感をいい具合に醸し出している。
唯一、天井に設置されたランプがここは室内である事を思い出させてくれた。
「何で総司君連れて来ちゃうのよ……あんたなんてハゲればいいのに……」
「俺だって何があるか分からないから一人で来るのは怖い! 大体お前がこんな家に住んでるのが悪いんだからな!」
「全部が全部こんな感じじゃないわよ! 台所見たでしょうが!!」
「あそこは料理するところだから綺麗にしようって気持ちがあるなら、何で家全体をそうしようと思わないんだよ!?」
壮絶な言い争いの中で総司が「青木ヶ原樹海……」と静かに呟いた。ジークフリートは聞き慣れない単語に首を傾げたが、ヘリオドールは自宅を異世界の自殺スポット呼ばわりされて固まった。とにもかくにも二人の口論は止まった。
「自然に囲まれてるようで居心地は悪くはありませんよ、ヘリオドールさん」
「そ、そう?」
「みたいじゃなくて実際に囲まれてるけどな……」
部下の評価にヘリオドールの機嫌が直る。ジークフリートは死んだ魚の目をしながら出された珈琲を飲んだ。
「でも、どうしてこんなに木がたくさんあるんですか?」
「……元は薬草をあのスペースで育てていただけなのよ」
ヘリオドールが指を差した場所には一際大きな巨木が佇んでいた。スペースも何も草ではなく木が育っている。
「そしたら面白くなってきてどんどん色んな種類の薬草を育ててたらこんな事になったのよ……私も仕事が忙しくて中々これを片付ける暇がなくて」
「ヘリオドールさんいつもお仕事頑張ってますからねえ」
「総司君……私の事ちゃんと見てくれるのね」
「わざとらしく涙ぐむな。ソウジも持ち上げる発言はやめろ」
プラス要素の言葉を連発する総司をジークフリートが諌める。つまりヘリオドール曰く、自宅がこんな有り様になった過程は①薬草をちょっとだけ育てた→②薬草の数をもう少し増やした→③今に至るなのだが、そんなわけはない。
だったらこんなジャングルのような空間にはならない。②と③の間に取り返しの付かない異変があった事は明らかである。
総司と違い、批判ばかりをするジークフリートにヘリオドールは頬を膨らませた。
「私だってヤバいと思ってそろそろ掃除するつもりではいたわよ! あんたはともかく総司君には見られたくなかったから」
「ヘリオドールさん、掃除じゃなくて伐採です」
「う、うるさいわね!」
総司からの的確なツッコミにヘリオドールは頬を赤く染めた。そうして、深く息をついた。
「次の次の休みの日、お母さんがうちに来るのよ……」
「森林浴しにか?」
「私がちゃんと生活出来てるかどうかに決まってるじゃない」
それは玄関の扉を開けた瞬間に判明するだろう。そもそも人間らしい生活を送れているかどうかすら疑う程である。
「私の寝室と台所と浴室とトイレは植物が入り込まないように結界張ってるから大丈夫だと思うけど、こんな状態の家をお母さんに見せたらなんて言われるか……」
「言われる云々じゃなくて間違いなく実家に連れ戻されるぞ」
「……家庭菜園やってますって言えば切り抜けられるかもしれませんよ」
「「抜けられるか!」」
気休めにもならない総司の提案は即時に却下された。
それにしてもこのままではヤバいと自覚していながらこのザマ。リリスといい、何故うちの役所の女は仕事とプライベートを両立出来ないのかとジークフリートは心の中で嘆く。
「とにかく次の休みにはちゃんと人間の住む家にしておけよ」
「ジークさん、僕は総司です」
総司へ剣呑な眼差しを向けるジークフリートにふざけている様子は見られない。ガチである。
「またお前はそんな事を言って……ソウジはこっちにいるだろうが」
「……………」
ジークフリートは木を指差して総司に言った。イケメンの異変に総司は無言でヘリオドールを見た。何かしました?、とでも言われているような気分になりながら、ヘリオドールは全力で首を横に振った。
「な、何もしてないわよ! ついにボケが始まったんじゃない……?」
「ジークさん、あちらにいる方は誰か分かりますか?」
「俺の曾祖母に決まってるだろ。……いや、彼女は十年前に亡くなったはずだ。とすると、誰だ? あの曾祖母の姿をしているのは誰なんだ……!?」
「戻ってきてください、ジークさん」
顔面蒼白になって頭を抱えるジークフリートを何とか正気に戻させようとするが、症状は悪化していくばかりである。ついには何もない空間をぼんやりと見詰めながら「川の向こうに曾祖父もいる」と言い出した。
「俺は今、今どこにいるんだ!? 教えてくれソウジ!」
「僕はこっちにいますけど」
「何だ!? ヘリオドールが敬語を喋ってるぞ気持ち悪いからやめろぉ!!」
「早く戻って来ないと手遅れになりますよ」
「ぶぐぅっ!!」
言葉での呼び掛けは無意味と判断したらしい総司がついに暴力での解決に踏み切った。錯乱しているジークフリートの胸ぐらを掴み、頬を平手打ちしたのである。
バキャッと人体から聞こえてはならない音と、総司の頬に飛び散る赤い液体。ジークフリートの顔がどうなったかはご想像にお任せしたい。
一方、ジークフリートの豹変の原因を調べていたヘリオドールは床から生えていた茸を見て「あっ」と叫んだ。
「これドラゴンに幻覚を見せる効果がある胞子を撒き散らす茸だわ。ジークは半分ドラゴンの血引いてるから……待って! 今、解毒薬作るわ!」
ヘリオドールが慌ててリビングから立ち去る。残された総司は草花のカーペットの上で静かに横たわるジークフリートに声をかけた。
「良かったですねジークさん。ヘリオドールさんが薬作ってくれるみたいです」
返事はない。総司はジークフリートをしばらく観察した後、「あ」と何かに気付いたように声を出した。
「……呼吸が止まってる」
後に奇跡的生還を遂げたジークフリートは当時を振り返り、「あれは人選ミスだった」と語っている。




