51.お気に入り
「リリスさん、どうしてあなたがここにいるんですか?」
サキュバスによる背後からの抱擁という男なら誰もが羨ましがる夢のシチュエーション。それを現実のものにした総司は訝しげに首を傾げながらも、さりげなくリリスの柔らかい体を引き剥がしにかかる。勿体ないと小声で呟いたのは勿論総司ではなく、ブロッドだった。無意識下での発言だったのか、自分で言っておいて驚いた表情をしている。まだ先程のカモ未遂事件が尾を引いているらしい。
愛情たっぷりの抱擁をあっさり解かれたリリスは「残念ねえ」と言いつつ、余裕の笑みを崩していない。
「そんな何でもないような顔をしておいて女の子に抱き締められるのが恥ずかしい?」
「恥ずかしいんじゃなくて所長に申し訳ないので」
「お堅い性格ねえ。恋は背徳的であればあるほど燃えるものなのに」
「僕はアブノーマルな恋愛を望んでいないので」
今度は腕に抱き着こうと迫るリリスをぴしゃりと断る総司に羨望と尊敬の眼差しを向けるブロッドの横で、胡椒まみれになった挙句殺されかけた老人が何かを諦めた顔で口を開く。
「リリス嬢の今度のお気に入り候補はあのおっかない少年でおじゃるか」
「お気に入りってなんだ?」
「まあ、そのまんまの意味でおじゃるよ。……ワシもなんだか疲れちゃったしリリス嬢も遊びに来てくれた事だからそろそろお主達を店に案内するでおじゃる」
ぱちん。老人は皺だらけの指を弾く事で華麗に音を鳴らす。それと共にぐにゃりと周囲の空間が歪み、目眩を起こしたかのような感覚に襲われたブロッドは一瞬目を閉じた。
そして、再び開くと暗闇しか存在しない永遠に続くと思われていた廊下は、薄暗い居間のような場所となっていた。天井に吊り下げられた月光を閉じ込めた硝子玉が仄かに室内を照らす。壁際にある暖炉では蒼い炎が揺らめき、小さめのテーブルの上には半透明の白い花が細長い花瓶に飾られていた。
幻想的な空間にブロッドが立ち尽くしていると老人は愉快そうな笑みを見せた。あの暗闇での人間をやめてしまったかのような危険なそれではなく、悪戯っ子が見せるような笑顔だった。
「ようこそでおじゃる。ここがワシが営む武具屋『闇夜の館』でおじゃるよ」
「え……えぇー!?」
そうは言われても武器も防具も置かれていないので普通の民家にしか見えない。改めて周囲を見回すオーガに老人はケラケラと笑う。
「ここが本当にあのぼろい屋敷だ!? 全然違うだよ!」
「ふほほ、みんな初めてここに来た時はそういう反応をするでおじゃる。見てて楽しいでおじゃるなあ」
「おじいさん、この花写メに撮っていいですか? 携帯の待ち受けにしたいので」
「写メ? 携帯? よく分からんけど、そっちの子供は全然表情変えないからつまらんでおじゃる~……それどころかワシを滅しようとするもんだからこっちがびっくりしたでおじゃる……」
ふう、と溜息をつきながら老人が指を鳴らすと、総司、ブロッド、リリスの目の前にティーカップが出現した。その中には既に琥珀色の紅茶が注がれており、湯気と共に優雅な香りを漂わせている。
更に指を鳴らせば彼らのための椅子が現れた。総司が闇色の瞳を輝かせて老人へ拍手を送る。
「凄いです……いかにも魔法使いって感じがして素敵です」
「ここでびっくりされても勝った気が全くしないでおじゃる~。お主みたいな客用の仕掛けを考えなきゃいけないでおじゃるなあ」
悔し気に呟く老人にティーカップを手に取っていた総司の首が傾ぐ。
「仕掛けというのは先程のあの奇妙な動きでしょうか?」
「奇妙言うなでおじゃる。あれに眉一つ動かさないどころか反撃に出た奴に冷静な顔でそう言われると無性に恥ずかしくなってくるでおじゃろう」
「ふふっ。あなたの悪戯が効かなかったのはソウジちゃんが初めてね」
二人の会話を楽し気に聞いていたリリスは椅子を老人の側まで移動すると、そこで座り老人の頬を指でつついた。拗ねていた老人はその可愛らしい悪戯に表情を緩める。
どこかで見た事のあるような光景だなあ、とブロッドは思いながら紅茶を啜る。普段紅茶を飲み慣れていない彼にとっては独特の風味と味だった。
「このおじいちゃんはね、人を驚かせるのが大好きでいつもこうしてお店に来るお客さんを驚かせて遊んでいるのよ」
「あ……思い出しただ。それで、お客を散々怖がらせた後にちゃんとお店に招待してくれるだ。……おかしいだ。どうしてオラそんな大事な事を忘れていただ?」
事前にその情報は知っていた。だからブロッドはずっとここに来るのを躊躇っていたのだ。
なのに今までその事をすっかり忘れてしまっていた。そうでなかったらすぐにでも総司に教えていただろう。教えていなかったせいで、自分も彼も老人を完全に悪霊だと思い込んでしまった。おかげで胡椒を投げ付けるという店の主に対してとんでもない行為をしでかしてしまった。隣でのんびり紅茶を飲んでいる友人が。
特に彼は何もしていないのだが、明らかに落ち込んでいる様子のオーガに老人は「お、お主のせいでないでおじゃるよ」と慌てて言った。
「この屋敷の周りには精神操作の魔法がかけられていて、入った者はこの店がどんな所でワシがどんな奴なのかを忘れるようにしているでおじゃるよ」
「な、何のためにだ?」
「だって事前に驚かされると分かっていたら、最高の反応を見せてくれないでおじゃる。何も知らない状況で突然襲い掛かる恐怖に歪む顔がワシは見たいでおじゃる」
真顔でそう言われてブロッドは反応に困った。人の記憶を操作出来る程の魔力の持ち主であり悪人ではないのは分かったが、流石に悪戯好きねうふふで済まされるレベルではない。
「悪戯好きなんですね、おじいさん」
済ませてしまうのは全く動じずに倍返しを喰らわせた猛者ぐらいだろう。紅茶の味を堪能しながらの総司の指摘に老人も「こんなはずでなかったでおじゃる」と嘆いている。それを聞いていたブロッドは心配になった。さっきも仄めかしていたが、もしかして打倒総司のためにますます恐ろしい仕掛けを考えるのではないかと。そうすると、他の客がますます怖がるのではないかと。
「でも、あんまり悪戯が過ぎると後で自分に全部、全部跳ね返ってくるかもしれないので程々にしておくべきかと……」
「わ、分かったでおじゃる……」
一抹の不安は杞憂に終わったようである。何故か『全部』という単語を二度使用した総司に老人だけではなく、ブロッドまで恐怖を覚えた。表情のなさと丁寧な口調での忠告が二名の全身に鳥肌を立たせた。
ただ一人、妖艶なサキュバスは怯えるどころかむしろ体をくねらせて悦んでいる。
「ソウジちゃんかっこいいわ~。たまぁに見せるそういう仄暗い一面がたまらないのよねぇ」
「……よく分かりませんが、ありがとうございます」
「女の人って分からないだ……リリスさんは今のソウジ君の言葉に惹かれるものがあっただ?」
仄暗いなんてものではなく普通にどす黒かった、がブロッドの感想である。
「男は優しいだけじゃなくてかっこよくもないと駄目なのよ。ブロッドちゃんも逞しい見た目とは逆にちょっと気弱で優しい所が女心を擽るけど、ちゃんと男らしい部分をもっと成長させればもっといい男になれるのよ」
「ほ……本当だ?」
「本当よ。私こういう事では嘘、つかない女だから」
「うへへ……オラもいつかソウジ君みたいにかっこいい男になれるだ……」
時々怖いと思ってもやはり目標は総司のような優しさと強さを兼ね備えた男。職場のサキュバスからのアドバイスにちょろいオーガ、略してチョロオガは鼻の下を伸ばした。そんなチョロオガを弄ぶかのようにリリスがうっとりした表情でオーガらしい筋肉質の腕を撫でている。
某ぼったくり店の前での光景と酷似している。
「あの、そういえばリリスさんは本当にどうしてこちらに?」
「ソウジちゃんを求めて彷徨っていたらいつの間にここに……というのは流石に冗談。この店に遊びに来たのよ。この人は私のお気に入りの人なの」
「リリス嬢が久しぶりに遊びに来てくれて嬉しいでおじゃる」
リリス曰く『お気に入り』である老人は穏やかに笑った。それを見たブロッドは総司に耳打ちした。
「ソウジ君……このおじいさんって似てる気がしないだ?」
「はい?」
「ほら、所長と」
「……ああ」
なるほど。総司がそう言うように首を縦に振る。二人の小声の会話をしっかり耳に入れていたリリスは老人の頭を抱き寄せた。両手で存分に揉んでしまいたくなりそうな二つの胸がむにゅう、と老人の頬に当たって僅かに形を変える。
「だってこの人も所長も私のお気に入りなんですもの」
「お気に入りとは?」
「私が特別大好きって思う人達。私をすごく愛してくれて、アレの時にすっごく私を満足させてくれるのよ。ねー?」
「ア、アレって何だ!?」
「うーん、こんな場所でダイレクトにその単語使うのは私も恥ずかしいのよねえ。それなのに言わせようとするなんてブロッドちゃんってそういう趣味があるんだ……エッチね」
頬をうっすらと紅潮させながら言われたブロッドはリリス以上に顔を赤くして硬直した。それこそ石像のように。不思議に思った総司からの呼びかけにも応答しない。サキュバスのフェロモンを使用せずともこの有様。純血のサキュバスを超えるテクニックに老人は呆れたように息をつく。
「リリス嬢、恥ずかしくて言えなかったんじゃなく、あのオーガをはめるためにわざと言わなかっただけでおじゃるな?」
「ばれちゃった? 本当はソウジちゃんに聞いてもらいたかったんだけど、ブロッドちゃんも十分可愛かったからよしとしましょう」
「僕は何の事を意味しているのか大体想像がついていたので……でも、そんなに大勢の男性と交際してて大丈夫なんですか?」
「サキュバスはそういう生き物なのよ。息をするように男を愛して男と寝るの。お気に入りの人にはちゃんとその事は知ってもらった上で私と遊んでもらうけど、彼らにしてみれば自分以外の世の中の男は全員間男みたいなものかしらねえ」
世の中の男は全員間男。最後の一言の濃さに復活しようとしたブロッドはまた固まり、胸の感触を楽しんでいた老人も動きを止めてしまった。
そんな中、総司だけが紅茶を全て飲み干して周囲を見回していた。ティーカップをどうすればいいか思案しているらしい。この微妙な雰囲気に流されず、自分の足でしっかり立っている総司にリリスは苦笑する。それは獲物を捕らえる事が出来ずにいる狩人というより、気になる異性の懐に入れずに焦れている女性の顔だった。
「そこまで無反応でいられるとお姉さんも困っちゃうわ。いくらあなたでも引いちゃうと思ってたのに」
「それがサキュバスの人達の生き方なら僕がどうこう言うのは逆に失礼でしょう」
「ソウジちゃんが私を嫌っていないのは分かるわ。そういう感情には敏感だものー」
全ての男がサキュバスに惹かれるわけではない。ジークフリートのようにフェロモンが効かない者もいれば、淫らな魔族だと毛嫌いする者もいる。サキュバスとてそう言った男には手を出さない。この少年が自分をどう思っているのかリリスは密かに知りたかったのだが、どうにも感情を読み取れない。
「僕がリリスさんを嫌いになる事はありません。恋愛感情は持ってませんけど、先輩としてのあなたは好きですから」
「……あらやだ」
と思っていた所にこれである。油断していたリリスは素で照れてしまった。爛れた恋愛ライフを送っている彼女にとっては今のは逆に破壊力の高い一言だった。




