50.魔境潜入
古びたどころか最早ただの廃墟にしか見えないこの館、一応れっきとした武具屋なのである。であるのだが、ブロッドの精神状態はこの時点で大変な事になっていた。「出るだ、絶対出るだ」と喚きながら総司の後ろに逃げ込んだ。総司よりブロッドの方が一回りも二回りも大きい体をしているので全く意味のない行動だった。
「凄いですね、まさにお化け屋敷! 感が溢れていて来る者の恐怖と興奮を掻き立てると言いますか……」
「オラ興奮はしてないだよぉ。恐怖だけだぁ」
「ブロッド君はここで待っててもいいんですよ。僕一人だけでも大丈夫なんで」
友人に対する気遣いからなのか、それともめんどくせえと言う呆れからなのかは定かではない。しかし、ブロッドにとってその言葉は救いだった。一瞬だけ心が揺らいでしまった。
ギャアギャア。そんなオーガの臆病な心を嘲笑うかのような烏の声。一羽が屋根から飛び立ち、どこかへ去っていく。何故かブロッドの頭上すれすれの場所を飛行して。
足元に静かに舞い降りた漆黒の羽を見下ろし、ブロッドは決意した。
「やっぱりオラも一緒に行くだ……」
「大丈夫ですか?」
「うん……なんかここで一人で待ってるのもすごい怖いだ」
「では行きましょう」
総司がドアの取っ手を掴み、ゆっくりと引いていく。キィィ、と引き攣れるような音と共に開いていく扉の先にあったもの。それは純然たる闇であった。
何の音も聞こえない。完全に外界から隔離された無の空間。
総司は鞄から懐中電灯を取り出すと、足元を照らしながら歩き始めた。その目映い白い光にブロッドが興味を示した。
「ソウジ君って光属性の魔法使えただ?」
「これ魔法じゃありません。懐中電灯っていう道具です」
「ふーん……でも、何でそれで前を照らさないだ? 足元ばっかりじゃ目の前に何があるか分からないだ」
「その方がスリルがあると思ったんですが……分かりました」
狂っているとしか思えない発言をした後、総司は懐中電灯の光を前方へ向けた。
そこには全身血まみれの髪の長い女が、いなかった。延々と続く廊下が照らされていただけだった。言い出しっぺとはいえ、これで何かがいたらどうしようと焦っていたブロッドは安堵した。
「良かっただ……オラ達以外誰もいなくて良かっただ」
「ここお店なんですから誰もいなかったら駄目ですよ。従業員の人を捜さないと」
ある程度歩いた所で総司が立ち止まり、前方だけでなく周りも照らし始める。左右にも光を向けてみるものの、やはり人の姿はない。それどころか、ずっと一本道が続いており、横には壁が広がるばかりだった。館を改造した店内だと思っていたのだが、部屋が見当たらない。
いよいよ本格的に怖くなってきた。ブロッドが生唾を飲み込んだ時だ。総司が突然自分の方へ光を向けたのである。あまりの眩しさにブロッドは目を手で覆った。
「目がああああああ目がああああああ」
「ブロッド君後ろ、後ろ見てください」
「後ろ?」
言われるがままに振り向く。直後、ブロッドの時が停止した。
そこにあったのは老人の顔、だった。虚ろな目はどこを見ているのか分からず、口角は限界まで吊り上がり、ポタポタと涎を垂れ流している。謎の老人Xがそこにいた。だけならまだいいだろう。
しがみついていたのだ。老人Xは完全に気配を殺し、ブロッドの背中にずっと……ずっと……しがみついていたのだ。
背中から伝わる生暖かさと獣のような荒い息遣い。敵は待ち構えていたのではない。背後に隠れていただけなのだ。老人は「キヒッ」と奇妙な笑い声を発し、ブロッドから飛び退いた。
そして、たった今、全てを感知してしまったブロッドの口から凄まじい絶叫が上がる。
「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!!!」
想像を絶する恐怖。オーガらしい雄々しい咆哮。その両目からは涙が溢れ、腰から力が抜けてしまったのか這うように総司の後ろへと避難する。もう使い物にならない。
総司は光が老人の顔に当たらないように、懐中電灯でその黒いローブを照らしながら口を開いた。
「すみません、失礼を承知でお聞きします。僕達にしか見えない人とかではなくて、ちゃんと生きてる人ですよね?」
「キヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
「悪霊だあああああソウジ君早く逃げるだあああああああオラ達屋根の上に磔にされて烏の餌にされてしまうだあああああ」
「ブロッド君、悪霊なのはいいんですけど、足にしがみつかれるといざ逃げなきゃいけない時に逃げられませんよ」
周囲は闇。老人は相変わらず奇妙な笑い声を発し続け、ブロッドは逃げろと言っているのに総司の足に這うような体勢のままで縋っている。逃げたくても逃げられない常人なら気が狂いそうなこの状況。総司はパニックに陥っているブロッドを宥めるのは不可能と思ったのか、前方にいる老人へ目を向けた。
だが、そこに老人の姿はなかった。
「ヘヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」
老人は蜘蛛のように天井に張り付き、二人を嘲笑していた。ブロッドの悲鳴は既に声にならず、大柄な体を震わせている。
「キィィィィエエエエエエエ」
口から垂れた涎が糸を引いて床へと落下すると同時に老人が天井から離れ、総司へと飛び掛かった。もう駄目だ。ブロッドは楽しかった記憶を次々と脳裏に蘇らせた。所謂走馬灯ってやつである。
ブロッドが色々と覚悟を決めている最中に、総司が鞄の中から出したのは粉末の入った小瓶だった。その蓋を素早く開けて中身を掌に出すと、最早すぐそこにまで来ている老人へそれを思い切り投げ付けた。
悪霊退散、と一言呟いて。
「ヒィィィィイアアアアアアアアアアアアアア……ブェェェックションッッ!!」
老人がその場に蹲り、何故かくしゃみを連発し始める。時折、助けて的な言葉を紡ごうとするものの、自身のくしゃみによって遮られる。
あの狂気に満ちた姿からは想像も付かない哀れな姿に、ブロッドを支配していた恐怖が薄れる。ふらつきながら立ち上がり、総司の持っている小瓶を見る。全て出したのか、中身は空だった。
「ソウジ君何を投げただ?」
「塩です。お清めのつもりで投げてみました」
「す、凄いだ! 効いてるだよソウジ君!」
「ブエィックションッ! ブエィックションッ!!」
未だにくしゃみを続けている悪霊(?)にブロッドがはしゃぐ。だが、総司は納得していない様子で小瓶を見詰めていた。彼から漂うコレジャナイ感にブロッドも騒ぐのを止めて、それを凝視する。
やがて、一つの結論に辿り着いたらしい少年の口から衝撃の事実が告げられた。
「間違えました。これ胡椒です」
「こ……胡椒!」
だからくしゃみか。老人の不思議な苦しみ方にブロッドは納得する。
総司もどこかすっきりした顔付きで次は鞄から数珠を取り出し、それを右手に巻き付けた。
「ソウジ君それは!?」
「塩がないので僕がやります。大丈夫です、自信はありますから」
「や、やるって……何を」
「ヒイ!」
感情の読めない闇色の瞳に静かに見下ろされ、苦しんでいた悪霊は先程のブロッドのように這って逃げようとする。少しずつ少しずつ開いていく距離。それを総司がカツン、カツンと靴音を立てて一歩ずつ近付いていく事で縮めていく。
明らかに形勢逆転。散々怯えさせられたブロッドの仇を取るかのように老人へじわじわと恐怖を与えていく総司。
「逃げないでくださいよ、失敗しませんから」
「ヒイ、ヒイイイイイイイイ! 何でおじゃるか!? 失敗って何でおじゃるか!? この流れだと成功しても召される感があるでおじゃるが、失敗したらどうなるでおじゃる!?」
老人からついにまともな言語が飛び出す。語尾が独特ではあるが、数分前のあの狂人ぶりが嘘のようなしっかりした思考の持ち主である事が伺える。
「僕も初めてやるので失敗したらどうなるかはちょっと。まあ、そもそも何がどうなったら成功なのかすらよく分からないんですけどね……」
「た……助けてくれでおじゃる! そこのオーガ頼むでおじゃる! ワシこのままじゃ殺されるっぽいでおじゃる!!」
「え!? おじいちゃん悪霊じゃないだ!?」
「生きてる! 生きてるでおじゃる! さっき怖がらせた事謝るでおじゃるから~~~~~~!!」
生きたい……望みはただそれだけ。
生に渇望した老人の叫びが闇を震わせ、総司の足の動きを止めた。
「ちゃんとご存命な方なんですね。もっと早く言ってもらえれば胡椒を投げ付ける事もなかったのに……大丈夫ですか?」
「心臓が止まるかと思ったでおじゃる……ワシを逆にここまで怖がらせた客はお前が初めてでおじゃる……」
「客?」
床に這いつくばったまま涙目で総司を見上げる老人にブロッドは違和感を覚える。何か、何か大切な事を忘れているような気がするのだが、思い出せない。この老人に関する重要な何かを。
首をいくら傾げても答えが見付け出せないブロッドをじっと見ていた総司が口を開く。
「このおじいさん……もしかしてこのお店の店主の人なんじゃないですか?」
「あったりー」
総司の問い掛けに答えたのはブロッドではなく、その猫撫で声は闇の向こうから聞こえた。聞き覚えのあるその声の主の名前を総司が口にしようとした瞬間、背後から伸びてきた白く細い二本の腕が少年を優しく抱き締めた。
「ソウジちゃんこんばんは。私とーっても会いたかったのよ」
ようやく少年をこの手に触れる事が出来た。純血のサキュバスにも引けを取らない美しさと爆乳の持ち主であるリリスはご満悦の様子だった。
ぷよぷよで二、三発の連鎖でおじゃまぷよぶちこまれたら、全消し発動させて相手の息の根を止めるのが総司。




