47.サキュバスの習性
今回のヒロインは彼女でいきます。
ウルドの役所の所長室は書物と書類で埋もれた紙の部屋とされている。机の上は様々な課からの書類が積み上げられ、棚には自身の趣味で取り揃えられた書物が並べられている。中には世界に一冊しか存在していないとされる幻の魔導書もある。
これだけ見れば、この部屋の主は多忙かつ高名な魔術師であると誰もが思うであろう。事実、そうである。ユグドラシル城で大臣として名を馳せ、そこからウルドの要である役所のトップに任命されたのだ。誰からも敬われる存在のはず、なのである。
誰もいない無人の部屋。ガコン、と本来するはずのない音がした。それと共に本棚が独りでに右へと動き出す。棚が完全に移動した後に現れたのは壁、ではなく隠されていた扉だった。
扉がゆっくりと開き、中から出てきたのは小柄な老人。この役所の所長であり、この所長室の主だった。皺だらけの顔はいつも以上に緩みきって今にも昇天寸前といった様子だ。
恍惚とした表情の所長の後を追うように扉から出てきたもう一人の人物。それは頭から生えた山羊の角がトレードマークの美女だった。傷みが全くない栗色の長髪と動く度にたわわに実った豊かに育った巨乳。妖艶な笑みを浮かべるその美女が漂わせる壮絶な色香に所長はだらしなく笑った。
「今日のリリスちゃんも最高じゃったのぉ~。綺麗で可愛くてわしにたーっぷりサービスしてくれたしのぉ」
「ふふっ、日々役所のために頑張ってる所長を労るのは職員として当然でしょう……?」
「そうじゃなぁ、そうじゃなぁ!!」
妖しく微笑うリリスに賛同する所長。二人の背後では再び本棚が動き始め元の位置に戻った。秘密の部屋の入り口を守るかのように。
秘密の部屋。とは言ったものの、例えば偉大な宝が眠っていたり、強大な魔物或いは神が封じられているなどそう言った類いではない。何て事はない。扉の向こうにはベッドや様々な『玩具』が置かれているだけである。
所長が大臣だった頃からの知り合いである職人達に用意させた寝心地が抜群の最高級品のダブルベッド。所長がウルド支部にやって来てから知り合った職人に用意させた玩具。後者は幼い子供に見せてもただのガラクタにしか見えないし、赤く色付けされた縄の用途は見当も付かないだろう。
それらをこの柔らかなベッドの上で使用し、使用されながらリリスは所長を労っていた。部屋に僅かに残る花や果実の芳香にも似た香りは、リリスが放出したフェロモンである。これを嗅がせる事により、相手を指一本動かせなくなるまで脱力させたり、反対に相手を異常なまでに興奮させる。そうしてから相手を貪り喰い、相手にも自分の体や心を喰らい尽かせる。それがサキュバス流の男性を『労る』方法であり、ハーフであるリリスの趣味でもあった。
「勝ち気な性格のヘリオドールちゃんも、純粋無垢な性格のフィリアちゃんも、ちいちゃなアイオライトちゃんも可愛いけど、やっぱりリリスちゃんが一番じゃのう。わしはこの幸せな一時のために仕事をしとると言っても過言ではない……」
「あら、所長。そんな事言われると嬉しすぎてどうにかなっちゃいそう」
「どうにかなっちゃってもいいんじゃよ~……ってフォォォォオッ!?」
リリスの豊満な胸へと飛び込もうとしていた所長から上がる謎の奇声。一時停止してから蛙のように窓に張り付き、また「ヌォォォォォオ」と奇声。
リリスも気になって窓の外へと視線を向けてみる。いつも通りの淡い青色の空。巨大な飛行物体がウルド上空を飛んでいるわけではなかった。
すると所長が悔しげに呻く原因は何か。リリスは視線を下の方、花壇へと向けてまあ、とジジイとは対照的に嬉しそうな反応を見せた。
そこにいたのは異世界の衣服を来た黒髪の少年、と金髪碧眼のエルフの美少女だった。少女はたった今、純粋無垢で可愛いと言われた、言わば所長のお気に入り。いつか自分の物にしようと企んでいた少女の側に他の男。これが彼女の直属の上司であるジークフリートならまだいい。彼は基本的に異性に興味を持たずに妖精と精霊が一番可愛いと言うような男だ。その他の少女を狙う男であっても後で脅して諦めさせればいいだけの話。
「ぐぬぬ……あのソウジとかいう小僧め……」
あの少年、総司は違う。女性には全く興味などありませんとでも言うような涼しげな表情の裏で、どす黒い欲望を抱えているかもしれない。加えてどんな脅しも全く通用しないであろう強靭な精神力の持ち主。何よりも少女の心をいとも容易くかっさらった憎きライバル。
さらった心はエルフの美少女のものだけではない。彼の上司である金色の瞳の魔女には弟のように可愛がられ、何故かフレイヤの国の姫君からは父として慕われている。しかも最近は役所の小さなアイドルである藍色の少女からも好意を寄せられているそうだ。
考えれば考える程沸き立つ悔しさと淡い羨望。所長は耐え切れず、リリスの胸に顔を埋めて泣き声を上げた。泣いてなどいない、立派な嘘泣きだが。
「わし、わし分からんわい! どうしてあーんなぼんやりした小僧なんぞにかわいこちゃんが集まるんじゃあ!?」
「はいはい、泣かない泣かない」
「わしだってあやつくらいの時から女の子とたくさんイチャイチャしたかったんじゃあ!!」
「うんうん、でも所長はあの子ぐらいの頃にはもう親から内政の仕事に就けるようにみっちり勉強するように言われてたのよねえ」
妖艶な娼婦のオーラを消し、慈愛に溢れる聖母の微笑を見せながらリリスが砂漠化の進む白髪頭を優しく撫でる。妖女の言葉に老人は胸に顔を擦り付けながら頷きまくった。
「そうじゃよお……そんでやーっと大臣になれたと思ったらずっと仕事仕事って恋をする自由も与えられなかったんじゃよ! 酷くない!?」
「そうねえ。酷いわねえ」
「そんな不自由な生活から解放されたと思ったらこの歳じゃもん……今まで我慢してた分好き放題やって何が悪いんじゃあ……!」
嘘泣きが本泣きへとシフトする。自分を唯一受け入れる女性に抱かれながら号泣する姿は見る者の同情を誘う。好き放題に女性職員に過激なセクハラを繰り返しまくった結果、深刻な職員不足になってしまった事実を知れば同情なんて簡単に砕け散るだろうが。
とりあえず欲望を数十年もの間、抑制され続けて解放されてしまうと人間は色々羽目を外してしまうのだ。そして、大体ろくでもない事になる。
生ける者なら誰しも抱くであろう欲望を抑える事は決して悪くはない。やり過ぎるとよくないのだ。こんなろくでもないセクハラジジイを生み出す。
「ふえぇ……リリスちゃあん……」
総司に対する愚痴はどこへ行ったのか。自らの激動の人生を嘆く所長。そんな色んな意味で哀れな老人をリリスは馬鹿にしようとはしなかった。微笑をそのままに所長の耳元に囁く。
「泣かないで所長。私が慰めてあ・げ・る……」
「ほ、ほんとかのっ? どんな形で慰めてくれるんかのっ?」
予想は付いているのだろう。それでも聞かずにはいられない。涙で潤んだ瞳をキラキラと輝かせる所長に、リリスは淫魔の顔を見せる。
「今度は私を所長の好きにしていいわよ?」
「うほぅ! それじゃもっかい行くぞい!!」
各課から上がってきた書類を確認するのは後でやればいい。所長がパチン、と指を鳴らすと扉を隠していた本棚が動き始める。
すっかり機嫌を治した、というより元気になった所長にリリスは嬉しそうに笑う。女性職員からは避けられていても、リリスにとっては大事な『お気に入り』の一人。いつもの調子でいてもらいたい。
今日はもう少しだけ楽しめそうだと思いつつ、窓から花壇を見下ろすと黒髪の少年と金髪の少女はまだいた。二人で花壇周りの雑草を毟っているようだ。白い手を土まみれにしながらも少女が幸せそうに笑っているのは、想い人と一緒に作業出来るからだろう。
そんな微笑ましい光景をリリスは下唇を舌でゆっくり舐めながら見下ろす。
「……ふふっ」
漏れた小さな声。リリスの琥珀色の瞳が妖しい光を宿す。
(所長とかヘリオちゃんとかフィリアちゃんとかアイリィちゃんとか姫ちゃんには悪いとは思ってるけど、それとこれは別なのよねえ……)
男性の心と体を求め続ける妖艶な魔族サキュバスの血を引くリリス。彼女の新たな『お気に入り』候補は現在役所で一番注目されている少年だ。特に彼をライバル視する所長には申し訳ないが、自分の好みの雄を手に入れたがるのはサキュバスの習性のようなもので仕方ない。
(後でちょっとだけ摘まみ食いしてみようかしら。所長とヘリオちゃんにはバレない程度に)
それは後のお楽しみ。まずは目の前にある楽しみを存分に堪能しようとリリスは秘密の部屋へと向かった。
「キィィィイエェェェェェ!!」
花壇の周りに響き渡る絶叫。その正体は総司が握り締めているものだった。
根が人間の形状をしている植物マンドラゴラ。土から引っこ抜かれた際に上げられる、おぞましい悲鳴は聞いた者の精神を破壊させる。
「ヘビメタのボーカルのような随分とサスペンスな声をしているんですね。うん、嫌いじゃありません」
「ソウジさーん! 冷たいお茶もらってきました!」
「……もう少し声を小さくしてください。フィリアさんがびっくりしてしまいますから」
抜いた後、総司がいつまでも続く悲鳴をじっくり聞いていると、食堂に行っていたフィリアがトレイに冷茶が入ったポットやらカップを乗せて戻ってきた。花壇へとパタパタと小走りでやって来る少女を見て、総司は根を強く握った。マンドラゴラが一瞬「グギョッ」と呻き叫び声を上げなくなった。
「遅くなってすみませんソウジさん」
「そんな事ないです。ありがとうございます」
「い、いえ、そ、そんな……ってソウジさんそれマンドラゴラです! 叫び声聞いてないですか!? 大丈夫ですか!?」
「大丈夫です」
真っ赤になったり青ざめたりと顔が忙しい事になっているフィリアに総司は即答した。
総司逃げて超逃げて




