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41.かぶとむし

 一人の少年が作成した虫避けスプレーによって一つの森が地獄絵図と化している頃。魔法や魔物が存在しない世界ウトガルドにあるオタク大国日本のとある会社では、一人のサラリーマンが盛大なくしゃみをぶちまけていた。いつも仏頂面な顔をこれでもかというくらい歪ませ、低音での「ぶえぇいくしょんッ」に彼の部下は動揺した。

 部長、風邪か? と。


「部長やべー! ついに部長にも病魔が!」

「笑い事じゃねーよ。こっちはずっとくしゃみと鼻づまり止まらねえんだぞ」


 珍しい光景にテンションが上がる部下に部長は舌打ちをしてから鼻をかむ。ポケットティッシュでは対処しきれないため、デスクの上にはボックスティッシュがセッティング済みであった。

 インフルエンザで部下が次々とやられても、淡々と彼らの分の仕事をこなし、花粉にも負けない男の体調不良。明日は雪が降るかもしれないと、その男を知る誰もが恐れおののく。


「ほら、言ったろ。うちの息子が作ったスプレー使ったらぶっ倒れたって。あれからなんだよ。最初よか随分楽にはなったが……ぶしょいッ!!」

「息子さん虫避けスプレー作ったんでしたっけ? それでやられたって事は部長前世は虫だったんじゃないですか?」

「ちげーよ。あいつが完成した薬になんか混ぜたせいで成分おかしくなったんだって。入れる前のスプレーの臭い嗅いだ時は何ともなかったんだぞ」

「なんか科学変化でも起こっちゃったんですかねー」


 部下の言葉に部長は台所で一心不乱になって息子が林檎をすりおろしていた光景を思い出す。やはりあれが原因か。林檎。あの甘い芳香を漂わせる果実にそんなおぞましい効果があるとは初耳である。

 スプレーを使用した直後に意識が遠退いた時は息子に恨まれる事をしてしまったのでは、と思った程の殺傷能力である。


「ていうか……奥さんは大丈夫だったんですか!?」

「嫁と息子はノーダメージ。何だって俺だけこんな目に……いや、あいつらも同じ目に遭わなくて良かったけどよ……」

「つまりやられたのは部長だけであると。なんか部長にだけ効くスプレーになってたんじゃないですか?」

「……馬鹿じゃねーの。林檎如きでそんなもんになるわけな」

「部長有能過ぎてライバル社からは漆黒の悪魔って呼ばれてるでしょ。案外、息子さん悪魔を祓う聖水みたいなの開発しちゃってたかもしれないですよ」


 「息子さんすげー!」と笑う部下は気付いていなかった。自分の冗談半分で言った言葉に上司は顔面蒼白になって凍り付いている事に。








 この世の地獄とはこういう事なのか。ヘリオドールはあちこちに横たわる蟲人を見下ろし、恐怖で足をがくがくと震わせていた。

 ほんの数分前までは感じていた数多の殺気は消え失せた。その持ち主達が次々と昏倒してしまったからである。少年が持参してきた虫避けスプレーによって。それを風の魔法を使って森中に撒き散らしてしまったせいで。


 総司の案に懐疑心を持っていたフェイは口を魚のように開閉させていた。もうあまりのショッキング映像のせいで声すら出せないようだ。だが、何となく言いたい事は分かったヘリオドールは目を潤ませながら首を横に振りまくった。


「ち、ちが……私達、こんな大それた事を仕出かすつもりは……」

「ヘリオドールさん見てください。蝶々綺麗ですよ」

「あんた流石にこんな時くらいは慌てなさ……あ?」


 総司の網の輪の部分にとん、と止まった蝶は彼の言う通り美しかった。瑠璃色と闇色で彩られた翅にヘリオドールも思わず見取れてしまう。見取れた後に気付く。

 蝶であると。


「え、ちょっと……おかしくない? それ蝶よね」

「蝶です。多分蛾ではないと思います」

「そうじゃなくて、何でそれは平気なのよ。虫なのに」


 蟲人への効果が絶大だったのだ。魔の力を宿していない、彼らに比べたら遥かに脆弱な存在のただの虫も、あの劇薬の餌食になっていないのはおかしい。

 蟲人の中でも最高の防御力を誇るはずの甲虫かぶとむし鍬形くわがたですらコテンパンだ。そこら辺の虫なんぞ瞬殺である。

 考えてみればオボロは一度スプレーを吹き掛けている。その時点で何らかの異変は起きてもおかしくはないはずだった。


「肩の上に甲虫乗ってんだけど君どんだけ虫に好かれてんの……」

「僕、昔は昆虫博士に憧れてました」

「憧れてるんなら虫を殲滅するような劇薬作っちゃ駄目じゃない……虫嫌いの犯行にしか……」

「いーや、こいつの作った薬は虫には全く関係ないみたいだぜ」


 アイオライトが空になった霧吹きに残った匂いを嗅ぎながら言う。苦笑いを浮かべながら。


「ソウジ、お前が作ったのは聖水みたいなもんだよ。分かるか? 魔族にダメージを与えられる聖なる水。本来は魔術師が水に色んな魔法をかけて作るもんなんだけど、これは聖水に近い成分なんじゃねえかな」

「やっぱり林檎のすりおろしを入れたせいで効能が変わったんでしょうか……」

「あんたは林檎から一旦離れなさい! ……でも、私達が撒き散らす前にオボロが一回吹き掛けた時は何も起こらなかったわよ?」

「そりゃ滅茶苦茶薄めてるからだろ。これだけじゃ魔族に効き目は全くない。けど、さっきお前らが出した風あっただろ? あの風に含まれているお前らの魔力に聖水が反応して効き目が出るようになっちまった……んじゃないかなあ。アタシにもよく分かんないわ」


 アイオライトも首を傾げつつ、霧吹きを総司に返す。全ては解明しきっていないが、大方の謎は解けた所でヘリオドールはある質問をした。ここが一番重要である。


「蟲人がこのまま目覚めないって事は……」

「そりゃないな。こいつらはただ気絶してるだけさ。……そんでもかなり薄めておいてこの威力……これが原液だったらヤバかったかもな」

「どんな感じにヤバいの?」

「体が一瞬で灰になるぐらいはいくな。これに耐えられるなんて多分相当の力を持った魔族ぐらいだぜ?」


 大量虐殺の共犯者にならなくて良かったと安堵しつつ、ヘリオドールは恐怖した。自分が魔族だったら同じように倒れていただろうと。

 オボロも同じ事を考えていたらしい。「良かった」とぽつりと呟いていた。竜の炎で敵を一気に焼こうぜな鬼畜発言をした青年が今やこの有り様である。


 フェイの中では総司の株が上がったようで、まだ驚きの表情のままで少年を凝視している。


「凄い……森を一切傷付ける事なく蟲人の戦力を奪うなんて……」

「あ、いえ、そういうつもりで作ったんじゃなくて、蚊対策で用意しただけです。僕もまさかこうなるとは……」

「謙遜すんなって。結果的に戦わずに済んだんだぜ。いやー、本当にお前見てると『あの子』思い出すなあ」

「あの子?」

「こっちの話だから気にすんな。ほら、さっさと祠に急ぐぞ!」


 アイオライトは一瞬だけ懐かしむような表情を浮かべた後、総司の手を引いて先に進み始めた。それにフェイが続き、ヘリオドールも地面に転がる蟲人を避けながら恐る恐る進んでいく。

 そんな中、オボロだけが浮かない表情で歩き出す。その視線の先はフェイ。


(彼女はどうやってベンケイを大人しくさせるつもりなのかな……)


 フェイはベンケイについては自分で何とかすると言った。その方法は一切語らないまま。それが妙に引っ掛かるのだ。

 きっと彼女自身はいくら聞いても教えてくれない。ならば、とアイオライトに視線を向けようとした瞬間。


 がさっ。がさがさ。


「ギャアッ!」

「オボロさん?」

「き、君は何入れてんの鞄に……」


 総司が肩に掛けている鞄が生き物が入ってるとしか思えない軽快な動きを披露した。驚き過ぎて仰け反ったオボロに総司が小首を傾げる。


「変なのは何も入れてませんけど……」

「親友として言わせてもらうけど、君の変な物の基準はよく分からないんだよ!」


 良くぞ言った。心の中でオボロに喝采を送りながらヘリオドールは周囲を見回す。

 いくら進んでも無事な蟲人が一人も見当たらない事に逆に不安を覚える。アイオライトは目覚めると言ったものの、ここまでバタバタ倒れられてると彼らは本当はもう死んでいるのではと疑いたくなってしまう。ある程度の激闘を予想していたのに、まさか戦う相手の心配をしているとは誰が予想しただろうか。


 総司の虫避けスプレーがクラスチェンジして生まれた聖水には感謝こそはすれど、原液を持ち出していたらそれこそ大惨事である。彼の父親が結果的に被験者になってくれたおかげで森が救われた。彼の犠牲なくして数多の蟲人の命なし。


(……ん?)


 総司の作った虫避けスプレー(聖水)は魔族にしか効かない。それを総司の父親は使ったせいで倒れた。アイオライトは言っていた。余程強い魔族でない限りは原液を使用すれば灰になってもおかしくないと。


「………………」


 つまり――。


「柔らかき純白の聖光よ。災厄から人々を護り包み込め。平和と安らぎのための祈りを――『護りの羽毛』!!」


 その結論に辿り着くと同時にヘリオドールは杖を掲げ詠唱した。白く半透明の光が一同を包み込み、木の上から突如落下してきた『それ』の衝撃から守った。だが、耐えきれずにパキンと音を立てて聖なる結界は消滅した。


「ほう、某の気配に気付くとは……やるな魔女め」


 『それ』は全滅したはずの昆虫族だった。褐色の肌を持つ甲虫タイプの蟲人だが、他よりも額から生えた角が太く、より引き締まった筋肉質な体をしている。奇襲を防がれたというのに不敵な笑み。切れ長の瞳は爛々と輝いている。

 素早く後ろに下がって間合いを取った甲虫の蟲人に、フェイの顔が苦々しく歪む。


「彼はこの森に棲む蟲人の中で一番強い男です。予想はしていましたが、彼まで操られているとは……」

「某はあの男に操られておらぬ」

「は?」

「え?」


 今何つったよ、こいつ。アイオライトとフェイから間抜けな声が出る。


「あのような男の妖しい術などにかかる某ではない。だが、森に棲む者達は術によって操られてしまい、某も手を焼いていた。そこに現れたのがそこの小僧だ」

「僕ですか?」


 甲の男は総司を右手で指差すと左手で力強い拳を作った。この辺りで誰もが流れがおかしくなっていると気付き始めていた。


「某は感謝すると同時にお主と戦ってみたくなった!」

「はあ!? こんな時に馬鹿じゃないのこいつ!?」

「愚かなのは承知の上。しかし、甲の蟲人は己よりも強い者との戦いを常に求める存在。出会えば本能が叫び声を上げる。『戦え』と! さあ、戦え小僧!」

「なるほど」

「総司君!?」


 何故か力強く頷く総司。フェイは蟲人最強の男の闘争本能に絶句するばかりだが、総司をよく知る者はそれどころではない。

 普段は誰にでも優しい温厚な性格の少年だが、戦えと言われたら素直に戦うという律儀な面もあるのだ。そんな総司に決闘を申し込んできた脳筋。


 ヤバい。


「あなたの気持ち、よく分かりました」


 その不安を助長させるように一歩前に踏み出した総司に、甲の男もニヤリと笑う。ヘリオドールとオボロは「やっちまった」と言うように顔を両手で覆った。









「今、急いでるんで絶っっっっっ対に嫌です」


 総司は顔の前で手を横に振って脳筋の誘いを拒絶した。アイオライトが腹を抱えて大声で笑い出す数秒前の出来事であった。

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