165.棺の中の少女
『ニーズヘッグ様が焔神は美しい氷と花に守られて眠っていると、前に話してくれたわ。だから……ここで間違いないと思う』
ヒルダの声が静かに響く。
棺以外には何もない空間だった。全員、棺に駆け寄り、レイラが最初にあることに気付いた。
「……無理矢理こじ開けた跡がある」
近くで見ると表面は傷だらけで無惨な姿となっていた。明らかに人為的なものだ。
既に一度開けられているからか、棺はあっさり開いた。
だが、そこには死体はなかった。ここにやって来た人間たちに連れて行かれたのだろう。
レイラとヘルは息を呑んで、空っぽの箱を見詰めた。死体こそないが、棺には微弱な魔力の痕跡が残されていた。
その魔力は二人がよく知る人物のものと酷似していた。
「何故だ……」
「レイラさん?」
「……ここにかつて眠っていたのは、恐らく先代の魔王だ」
「何だと?」
レイラの言葉に食い付いたのはクォーツだった。総司はと言えば、「夢と違う……」と小声と呟いていた。それを聞き取ったニールが小首を傾げた。
凍り付くクォーツに、レイラはたどたどしく話す。とはいっても、彼女自身分からないことが多すぎて、これが果たして真実なのかは定かではなかったが。
「信じられない話だが……焔神はかつての魔王だ。ここに残る魔力があの悪鬼のものと同じだ」
「私もレイラ様も奴を知っています。魔王のものはもっと禍々しく……悪意と憎悪に満ちていましたが」
魔王の魔力を濁り濁った泥水の渦に例えるなら、棺に残された魔力は穢れない流水だ。
澄み切った透明な清流を濁らせた正体にレイラは顔をしかめる。
妖精霊の町パラケルススの番人であり、三界神のエリクシアは言っていた。魔王の正体は同じく三界神でアスガルドを守る役目を担っていたレーヴァテインであると。レーヴァテインは人々から吸い上げた負の感情により、心が壊れかけたと。
……そして、エリクシアと最後の三界神のマフユによって封印されたと。
スルト山、黒竜の滅亡、二国の研究者、空の棺、魔王。それらの情報はレイラを一つの結論へと導いていく。
恐ろしい、結論だった。
「なんてことだ……」
「レイラ? どうした、顔色が悪いぞ……」
「……クォーツ、先ほどお前に言わなかったことを話そう。この山から黒竜が消えたのは、人間たちが放った魔物に襲撃されたからだ」
クォーツが固まった。
レイラは口元を手で覆い隠して深く息を吐く。
「そして、もう一つ……焔神は魔王であり、お前の言っていたオーディンとバルドルの研究者たちは、魔王に深く関わっている」
「……そうか」
「驚かないのか?」
「いや、そんな気はしていた。驚きはしない。あまり動揺もしていない……」
クォーツは何かに耐えるように拳を握り締めて笑った。
「スルト山で何があったかを知る。これが俺の望みだ。知って後悔するつもりはないぞ」
「……分かった」
「さて、帰るか。焔神とやらももういないのなら、いつまでもこんな寒い場所にいる意味はないだろう」
「あ、ちょっとだけ待っていてください」
踵を返そうとするクォーツを総司が呼び止めた。棺の中に手を入れて、物を握るような仕草をする親友に、クォーツは困惑した。
「何をしているのだ、貴様は」
「こうしろと言っているので」
「だから誰かだ」
「ここに眠っていた人です。僕が見た夢の中でも、この中で寝ていたんですよ」
「……何?」
棺に入れていた総司の手が光り出す。「うひゃあ!」とニールが叫んで総司から離れた。
微かにしか残っていなかった魔力も凄まじいスピードで強まっていく。
だが、魔王が持っていた魔力と違い、力が増幅しても穢れることはない。透明で清らかなままだ。
「これは……」
いても立ってもいられなくなり、レイラは総司の両肩を掴み、自分へと振り向かせた。
「私の声が聞こえているか、レーヴァテイン! ソウジの中にいるのはあなたなのだろう!? 教えてくれ、どうして三界神であったあなたがあんな……!」
「事故よ、事故」
次の瞬間、レイラの目の前にいたのは総司ではなくなっていた。
常磐色の長い髪と、桃色の双眸を持つ少女がレイラをじっと見据える。
「誰もあんな化物が生まれることなんて、望んでなかったと思うわよ。でも、やり方を間違えてしまったせいで魔王とかいう最悪なもんが生まれたの。結局、アスガルド中の人間を殺そうとした災厄の正体は人間の悪意ってとこかな」
「レ―ヴァ……」
「……元はと言えば私が一番の原因なんだけどね。全部人間に責任を押し付けることなんてしないわよ。……きっと近いうちに同じようなことが起きる。あんたたちは何としてでもそれを止めなさい」
「近いうち? あなたは一体何を知っている……?」
「さあね。私も未来のことはうっすらとしか見えないし。ただし、あんたも虐殺の魔王じゃなくて魔族の王である魔王を名乗るなら気張りなさい。ちゃんとそのためにいいものをあげるから」
少女――レーヴァテインの体がうっすらと透け始める。消える。レイラは焦燥感に駆られた。
まだ聞きたいことが山ほどあるのに。引き止めようとするレイラの唇をレーヴァテインの細い指が軽く突く。
「総司によろしくね。この子の魂はよく分からないけど、滅茶苦茶頑丈で私の一部が少しだけ入り込んでも余裕で耐えられたわ。これなら将来、私と一緒になっても何とかなるでしょ」
ん? レイラは別な意味で焦った。将来、一緒になる。どういう意味でだ。
全身から冷や汗を流すレイラにレーヴァテインは鼻で笑った。
「悪いけど、神様だって人間に惚れるもんよ。じゃあね。この子、かなりモテてるみたいだからライバルは私一人だけじゃないから」
「ま……待て! 本当に待て!」
レーヴァテインを制止する声にはもはや怒りすら混じっていた。爆弾発言を残してレーヴァテインは完全に姿を消すと、そこにはいつになくぼんやりとした表情の総司が立っていた。
光も止んでいた。
「あれ。僕今ちょっと寝てませんでした? 意識がほんの少し飛んでいたみたいなんですけど……」
「そんなことはな……そ、そうだな、寝ていたぞ。目を開けたまま寝ていたぞ」
「寝不足でしょうか」
「そうかもしれないな。だったら私が添い寝をしてやろう」
「レイラ様、セクハラ発言はやめてください。それと今、誰と話していたのですか?」
どうやらヘルとクォーツにはレーヴァテインは見えていなかったらしい。それどころか、総司の姿も光のせいでよく確認できず、レイラの声も激しい耳鳴りに襲われてよく聞き取れなかったようだ。
「まだ寝惚けているのか、藤原」
自身のこめかみを撫でている総司に、クォーツが呆れたように言う。
「そうじゃなくて、あの人の声聞こえなくなったなぁと……あっ、いる」
総司が棺の中を見てそう言うと、全員が覗き込んだ。
そして、驚きのあまり皆言葉を失った。
空っぽだったはずの棺の中には五、六歳の幼い少女が眠っていた。
レーヴァテインと同じ、常盤色の髪の少女だった。
「この娘……呼吸はしていますね。ただ眠っているだけのようですか」
「とりあえず、ここでいつまでも寝ていたら風邪を引いてしまいますから、連れて帰りましょう」
「あ、ちょっと貴様何してんの」
少女を抱き上げた総司の大胆さにクォーツが引いた。
総司に抱っこされても少女は身動き一つせず、規則正しい寝息を立てている。
レイラは奥歯を噛み締めてその微笑ましい光景を眺めるしかなく、ヘルに引かれていた。
ぽた、ぽたと天井から水滴が垂れる。草花もみるみるうちに枯れていく。
役目を終えたかのように棺は溶けて水に変わってしまった。
次回で今章ラストです。
そんでもって、モンスター文庫さんの公式サイトで四巻の表紙がアップされましたでやんす。