157.病状悪化
リリスが部下たちに口止めをし、ヘリオドールが雀卓を囲む仲間捜しに励む間、一匹のドラゴンは蒼穹を駆けていた。
人間の少年と、まだ幼いドラゴンを捕まえたまま。
「離してー! はーなーしーてーよー!」
何とか灰色のドラゴンの口から脱出しようと、ニールはもがいていた。理由は分からないが、このままではいけない気がした。
連れて行かれることそのものが怖いのではない。ドラゴンが言う『スルト山』という場所が怖いと感じたのだ。
ニールの中の本能が「行っちゃ駄目」と何度も訴えている。
「ソウジお兄ちゃん……ソウジお兄ちゃん、助けて!」
ニールは共に捕まった人間の少年に助けを求めた。子供とはいえ、ドラゴンが人間を頼るなんておかしな話ではある。
だが、総司ならばドラゴンの一匹や二匹簡単に倒してしまう実力を持つことを知るニールにとっては、唯一頼れる存在だ。総司なら……と一縷の望みをかけてみるも、本人は身動き一つしない。
「お、お兄ちゃん……?」
「僕がここでドラゴンを倒すのはできそうですけど……」
「けど?」
「その後のことを考えると怖くてちょっと無理です」
呑気に地上を見下ろしながら喋る総司に困惑するニールだが、すぐに言葉の真意に気付く。
そう、ここは空中である。もし、この状態で総司が灰色のドラゴンを倒してしまったら、一人と二匹はそのまま地上に落ちていくことになる。
総司は人間なので空を飛ぶ魔法も翼もない。ニールもこんなに高いところにきたのは初めてだ。怖がらずに慎重に飛びながら降下する自信がない。
つまり、今、総司とニールになす術はないのだ。その事実にニールの全身から力が抜けていく。
「ひ、ひどい……オイラが何したっていうの……」
「すみません」
「あっ、ソウジお兄ちゃんは何も悪くないよ!」
本当ならドラゴンよりずっとひ弱な存在の総司をこんな時に守らなくてはならないのはニールの役目だ。それなのに、ニールは叫ぶだけで何もできず、総司を困らせている。
そんな申し訳なさから謝るニールに、総司は「そうじゃないんです」と口を開く。
「飛ぶ前に抵抗していれば、こんなことになってなかったなと思いまして」
「で、でも、ソウジお兄ちゃんだってそれができなかったってことは怖かったんでしょ?」
「いえ、怖くはないです。本気で怒った母さ……僕の母親くらい恐ろしいものを僕は知りません」
「えっ……」
他にツッコミたいところはあったが、ニールにはそんなことより気になったわけではない。
総司はその気になればドラゴンを何とかできたのに、それをしなかった。どうしてだろうとニールは不安になる。
まさかドラゴンに食べられてみたかったのでは、と少し怖い考えが浮かぶ。ニールがニーズヘッグに操られていた時も、体内に閉じ込められた妖精と精霊を外に出すために、同じように体の中に入って内側から腹を引き裂こうとしたらしいのだ。総司なら考えてもおかしくはない。
だが、そんなニールの不安は的中しなかった。いや、ニールにとっては的中した方がよかったのかもしれない。
「このドラゴンさん、スルト山って言いましたよね」
「うん……言ってた」
「僕、前にスルト山に行って欲しいって言われたことがあるんです」
「お兄ちゃんが……?」
その言葉にニールは恐怖も忘れて、総司の顔を見ようとした。総司の背中とドラゴンの上顎に挟まれて身動きが取れなかったので叶わなかったが。
「夢の中だからよく覚えてはいないんですけど、確かレ―ヴァ……あっ、山火事」
「山火事ってどうしたの? 山が燃えちゃってるの?」
何とか身を捩らせて、ドラゴンの進行方向へ顔を向ける。そして、総司の言う「山火事」の意味を知るのだった。
「ほ、本当に山が燃えてる……?」
白い雲がゆったり流れる青い空を背景に、赤く染まった山があった。他の緑に覆われた山に囲まれた中で佇むその姿は異様だ。
しばし、その光景に呆けたように見入っていたニールだったが、やがてその口が自然に動いた。
「スルト山だよ……あれ……」
「……そうなんですか?」
「うん。オイラ、あんなところきたことなんて一度もないのに……あそこがスルト山だって知ってるんだ……どうしてかな……」
知っているだけではない。まるで炎に包まれているようなあの場所が懐かしいとさえ感じている。記憶にはまったくないのに。不思議な感覚だった。
心を覆い尽くそうとしていた恐怖も、あの山を見ているだけで薄れていく。それどころか、早く行かなければと今まで抱いたことのないような使命感が沸き上がる。
それがまた別の不安を呼び起こす。自分は一体どうなってしまうのだろう。ニールは総司に小さな声で聞いた。
「ソウジお兄ちゃん……オイラ、どうなっちゃうのかな?」
「ニール君はニール君ですよ。何も変わりません」
「そっか……」
いつでも総司の言葉はニールを元気づけたり安心させてくれる。なのに、今は何の救いにもなってくれない。
ニールは静かに赤い山を見詰めた。
スルト山の近隣に位置する小さな村。いつ何が起こるかも分からないスルト山の脅威に皆怯え、昔は子供たちの笑い声が響いていたが、今はどこか空虚な雰囲気の流れる地となっていた。
若い者たちはほとんど村から去り、現在村に残っているのは故郷を手離すことができない頑固者……去った者に言わせれば命知らずであった。
少し前までは深刻な日照りが村を襲い、作物が採れずに飢えていた時期もあったにも関わらず、村から人は離れなかった。ちなみに、この問題は魔王を信仰する魔族が解決してくれたが。
彼らにとってスルト山は黒竜たちが君臨する気高き山だ。その黒竜が一匹残らず消え、不浄な魔物が巣食う死の山と成り果てても、その思いは変わらなった。
村の入口に建てられた宿屋を利用するのは、これからスルト山に向かおうとする冒険者たちばかりだ。だから宿屋の店主は警告する。
スルト山には遊び半分で立ち入ってはならないと。
その言葉に従って引き返す冒険者もいるが、そうでない場合が大半だ。村人の一言で帰るくらいなら最初から山に入ろうなどとは考えないのだ。
村に戻ってきた冒険者は一人もいない。すんでのところで思い留まってくれればと村人たちは思うのだが、彼らがどうなったのかは定かではない。
それにしても……と、年老いた一人の村人は先ほどから宿屋の前で、口論を続けている三人を憐みの眼差しで眺めていた。
「だから俺も行くと言っているだろう!」
「お前は死ぬ気か! あの山に人間など入ればひとたまりもないと分かっているのか!?」
「だが、俺はこの目であの山に何があるのか見なくてはならない!」
「レイラ様! この男やはりニヴルヘイムにぶち込みましょう!」
「お前は少し下がっていろ、ヘル!」
珍妙な組み合わせの三人組だった。
腰に刀を提げた黒髪の、ノルン国のクォーツ・トリディレイン王子によく似た美少年。
スルト山を彷彿させる赤い髪と柘榴色の瞳を持つ美女。
先ほどから美少年に喰ってかかっているメイド。
しかも、赤髪の美女は村の救世主であり、魔族の王の魔王だ。
どうしてこの三人はスルト山に入ろうとしているのだろう。騒ぎを聞いて他の村人も集まり始めている。
自分たちが見世物と化しているとも知らず、レイラはクォーツを何とか宥めようとしていた。レイラが守っていれば死ぬことはないだろうが、この少年は王子だ。万が一、何かあったらと思うと心配でとても連れてはいけない。ヘルも随分と荒ぶっている。
悩む主の横でヘルは冷たい視線をクォーツに向ける。
「クォーツ王子、あなたもその刀を武器にしているということはそれなりに実力はあるようですが……」
「菊一文字を知っているのか?」
「癒しの力を持つ劔族。私も人間の姿をしていた頃の彼女を一度だけ見たことあります。同族をも癒せる力がありながら、殺しの道具である自身に苦悩し、本体を置き去りにして魂のみが彷徨っているようですね」
魂が抜けて治癒能力も失った菊一文字だが、その切れ味は凄まじく、どんな硬い鉱物でも容易く真っ二つにできる。だが、僅かに魂の残骸が残っているのか、持ち主を選ぶらしい。正しい人格者でなければ、何も斬れなくなってしまうそうだ。
ある種、かつての魔王を倒すために勇者が用いた聖剣よりも恐ろしい代物である。
その菊一文字が認めた人物を危険には晒せない。ヘルも一応クォーツを気にかけてはいるのだ。この愚直さはレイラとよく似ている。
「レイラ様、もう王子はノルンに強制的に……」
「……感じる」
「ん? レイラ様?」
レイラの様子がおかしい。ずっと空を見上げたまま動かないのである。
「この声……この匂い……まさか……私の愛すべき……」
「おい、魔王の様子がおかしいぞ」
「安心してください。いつもの発作ですから」
「止めろよ、可哀想ではないか」
ヘルのレイラに対する扱いに、どこか既知感を覚えつつクォーツも空を見上げる。
綺麗な青空を何やら妙な物体が飛んでいる。飛行機かと思ってからクォーツは訝しむ。
ここはウトガルドだ。飛行機なんてものは存在しない。
「となると、あれは一体……」
「落ち着いてください、レイラ様! 鎮静剤を飲んでください!」
「離せヘル! あそこに……あそこにあの男の気配がする!」
「現実と妄想の区別をつけましょうね!」
こちらはこちらで見苦しい事態が発生していた。何故かレイラが空へ飛ぼうとしており、それを必死にヘルが阻止すべく宥めている。
「何だ、何だ……村人が貴様らを見てドン引きしてますけど……」
「ええい、離せ! ソウジが私を待っているぞ!」
「ああっ、レイラ様っ」
ヘルの制止を振り切ってレイラが青空へ向かって浮上していく。「ついにここまで病状が悪化したか……」と嘆くメイドの隣で、クォーツは唖然としていた。
「魔王の惚れた男とはもしや……うわぁ」
この予感、是非とも外れて欲しい。クォーツは切に願った。