155.大きいドラゴン、小さいドラゴン
前回のラストでうっかりミスをしていたので、その修正がてらに本日二本目。
穏やかな風が緑色の絨毯を優しく撫でる。ざざぁ……と音を立てて揺れる草花。
薄い青色の空を様々な形をした白い雲がゆっくり、ゆっくりと泳ぐ。
この牧場は魔物生態調査課の保有地であり、保護された魔物が連れて来られる場所だ。出来るだけ自然に近い環境で過ごさせてやりたいと課長であるリリスが用意したのである。
ここで魔物たちは体や心に負った傷を癒してから、自然に帰されるようになっている。……が、課がある部屋と繋がっているこの地が一体どこなのかは誰も知らずにいる。リリス以外は。
「よく食べますね、この人」
「ふふっ、体が大きいから他の子より食べるのよ」
巨大なバケツを持った総司と、隣で微笑むリリス。
二人の目の前にいるのは、体表が淡い灰色に覆われたドラゴンだった。
灰色のドラゴンは総司の持つバケツいっぱいに詰まっている生肉を黙々と食べ進めていた。総司やリリスには目もくれない。更に総司が鼻を撫でても少しくすぐったそうにするだけで、特に嫌がる様子も見せずにいた。
そんな光景を少しどころかかなり離れた場所から、他の魔物に餌をやりながら眺めているのは魔物生態調査課の職員たちだ。彼らは怯えと感心をない交ぜにしたような表情を浮かべていた。
「ソウジ君はよく餌やりができるなぁ……」
「ウトガルドって世界にもドラゴンはいるのかな……」
自分たちよりも何倍も大きいドラゴンの世話は、リリスによって訓練された職員でも駄目だった。
ドラゴンが少しでも唸れば逃げ出し、餌やりの時にドラゴンが少しでも近付こうとすれば逃げ出す。仕事と分かっていても、ドラゴンが何らかのモーションをしただけで恐怖心が込み上げてついに逃げてしまうのだ。
リリスは流石というべきか、怯えることなく世話をこなしている。彼女が恐れるものはこの世にないのかもしれない。
それでも、彼女が不在の時もある。リリスがいない間は誰があのドラゴンの世話をするかという話になった時に総司に白羽の矢が立ったのである。
妖精・精霊研究課にいる子供ドラゴンを手懐けているのならイケるんじゃないかと誰かが言い出したのだ。
結果は見ての通りだ。総司はドラゴンが近付こうが唸ろうが、ノーリアクションで餌をやったり体にできた無数の傷に消毒液を染み込ませた綿を当てている。
そう、無数の傷。この灰色のドラゴンは血まみれの状態で保護されたのだ。
いや、保護と言うべきか。ドラゴンが発見されたのは、何とこの牧場の中だった。
牧場は保護している魔物が逃げ出さないように、外界から何者かが侵入してこないようにリリスが強力な結界を張っている。にも関わらず、このドラゴンはその結界を破壊して牧場内に突っ込んできたのだ。
結界が破られたことに気付いたリリスが駆け付けると、そこにはぐったりとして動かないドラゴンがいた。……たまたま居合わせた職員は驚きのあまり腰を抜かして半泣きだった。ちなみに男だった。
ドラゴンがわざわざ結界を壊してまで牧場に侵入した目的はいまだに不明だ。リリスは「もっと強い結界を張らないといけないわねぇ」といつもの調子だったが、他の職員は全員怯えきっていた。今まで様々な魔物と接してきたが、ここまで巨大なドラゴンが魔物生態調査課にやって来たのは初めてだった。
「この子、こんなに大人しくて可愛いのに残念だわぁ」
明らかに怯える部下たちに苦笑しながら、リリスは灰色のドラゴンの体を撫でた。広ければ数メートルはある翼も今は器用に折り畳められているし、職員たちに危害を加えようとしたことは一度もない。唸るのは喜んでいる時で、近付いても何かするわけでもなく、じっと青い瞳で観察してくるだけだ。
体のサイズが特大なだけで性格はとても温厚である。小さい体で暴れん坊な魔物たちよりも面倒は見やすい。
自分の結界を破壊したと聞いた時はリリスも多少驚きはしたが、今はこの灰色のドラゴンはすっかり彼女のお気に入りの子になっていた。
「そういえば、リリスさん。ニール君が同じドラゴン仲間ができたから会いに行きたいって行ってたんですけど、大丈夫ですか?」
「そうねぇ……多分大丈夫だとは思うけど……」
「ソウジお兄ちゃーん!」
その声に総司とリリスの動きが止まる。
「ソウジお兄ちゃん遊びに来たよー!」
草原の中にぽつりと佇むドアが僅かに開かれ、そこから黒い物体がパタパタと羽を動かしながら出てきた。
灰色のドラゴンよりも随分と小さい、仔猫や仔犬サイズのそのドラゴンは目を輝かせて総司の元へ向かっていく。
総司=ドラゴンを手懐けられる、という方程式が作られるきっかけとなった妖精霊保護研究課のマスコットキャラクターだ。
「……ニール君、来ちゃったんですねぇ」
「え!? だ、だって、お兄ちゃん来ちゃ駄目って言わなかったから……ごめんなさい……」
「いえ、君は悪くないです」
涙目になって謝るニールに総司が首を横に振る。
本当の兄弟のようなのんびりした空気にリリスが癒されていると、灰色のドラゴンがその光景をじっと見ていることに気付いた。
「可愛いでしょう、あのチビドラゴンちゃん。ニールちゃんっていうのよ」
「ニー……ル……?」
「!」
ドラゴンの口から漏れた呼吸混じりの声。それはニールの名前を呼ぶものだった。
ドラゴンはその巨体と高い攻撃力を持ちながらも、優れた知性を持つ。人間の言語を理解し、尚且つ会話ができる個体も少なくはない。事実、ニールも精神年齢は人間の子供並だが、普通に誰とでも話せる。
だが、この灰色のドラゴンはここに来てから、一度も人語を話したことはなかった。
「あなた……ニールちゃんのこと知ってるの?」
「………………」
ドラゴンは何も答えない。それどころか、リリスの質問さえ聞こえていないようだった。まるで凍り付いてしまったかのように身動き一つせず、ニールを見詰めている。
青い瞳には敵意や憎悪といった負の感情は込もっていないものの、ずっと見られていることが怖くなってニールは総司の背中に張り付いて隠れた。
「ソウジお兄ちゃん。あのドラゴンさんがお兄ちゃんが言ってたドラゴンさんだよね?」
「そうです。君が会いたいって言っていたドラゴンさんですよ」
「オイラ何かしたのかな……すっごくじーって見てくるんだけど……」
「ニール君がすごいかっこよさそうだなぁって思ってるんですよ」
「んとね、それはないと思う」
総司の適当な答えに納得できるほど子供でもないらしい。ニールは受け流し、そっと総司の背中から顔を出して灰色のドラゴンを見た。
が、向こうも自分の方をじっと見ていることに気付いて、すぐにまた隠れた。
「怖いよ~~~~~~!」
「きっとニール君と友達になりたいんですよ」
「うわあああん、今日のソウジお兄ちゃんなんか適当だよぉ」
「いやいや、そんなまさか」
「リリスおばさぁん! オイラ何かしたのかな?」
「うふふ。ニールちゃんじゃなかったら今の発言は許されないわよ?」
リリスは立派な大人だった。
その間にも灰色のドラゴンはニールの名前を呟くことを繰り返していた。
「ニ……ル……ニール……」
「そんなにオイラの名前を呼ばれて、も……」
ニールの声が固く強張った。
何故なら、急に暗くなったと思って頭上を見上げると、そこには大口を開けた灰色のドラゴンがいたからだ。