152.棺の少女
お別れ。その言葉の意味が分からず、ヘリオドールは一瞬反応が遅れてしまった。
「え、な、何言って……」
だから、バイト君に意識を向けすぎて気付かなかった。強襲してきたドラゴンの口から灼熱の炎が放たれ、それが眼前まで迫っていたことに。
バイト君はヘリオドールの手を引くと、炎から逃れると同時に茂みの中に飛び込んだ。
ドラゴンには二人が深い緑の中に隠れて瞬間が見えていなかったらしい。不機嫌そうに唸りながら首を動かして獲物を探している。
あんなにでかいドラゴンに殺されかけるのは、これで二回目だ。ヘリオドールは小声でバイト君に詰め寄った。
「ちょっと、あれ何よ……!」
「最初に言ったと思いますけど、藤原君が記憶を取り戻すのを妨害してくる化物さんたちです」
「でも、さっきまで全然出てこなかったじゃない」
「藤原君が重要な記憶の断片を見付けたからだと思います」
バイト君はほんの少し茂みから顔を出し、どこかを見ながらヘリオドールの疑問に一つずつ答えていった。
上空付近からは空気を振動させるほどの音量の咆哮が聞こえてくる。ヘリオドールは気丈に振る舞おうとするも、金色の瞳には涙が浮かんでいた。
「ねえ、こんなところに隠れてていいの? あいつの目的が総司君だとすると……」
「はい。僕たちを完全に見失ったと分かれば、今度は藤原君を襲いに行きます。そして、藤原君と記憶の断片を纏めて食べるはずです」
「……そしたら、どうなるの?」
「藤原君は死にはしないでしょうけど、記憶は取り戻せなくなると思います」
「そんなの駄目! あの子、わけの分からない薬に手を出してまで記憶喪失を治そうとしてるのに……」
あと少しのところで全て消え去ってしまうなんて納得いかない。
恐怖を忘れて咄嗟に茂みから出ようとするヘリオドールの手をバイト君が掴んだ。
「なので、魔女さんは藤原君のところに行ってあげてください」
「私はって……あんたはどうするの?」
「僕はあのドラゴンさんを退治してますので」
「そんな……」
「大丈夫です。魔女さんには近付かせないようにしますから」
そうではない。しれっと言い放つバイト君にヘリオドールは焦燥感を覚えた。
「バイト君を一人になんてしておけないわよ」
「僕、色んな世界に行く前にドラゴンさん一匹倒してたから、そこは問題ありません」
「私が問題あるって!」
防衛反応だか何だか知らないが、子供一人をドラゴンに立ち向かわせるなんてヘリオドールには出来そうにはなかった。魔法が使えない今、自分がしてやれることはなさそうだ。
それでも、バイト君を残したくはなかった。
力いっぱい首を横に振るヘリオドール。そんな彼女の顔を暫し見詰めたあと、バイト君はヘリオドールの両手を掴んで茂みから出た。
「バ、バイト君?」
「……………………」
「ちょっとぉ!? 総司君といい、あんたといい、黙ったまま何かしようとするの最高に怖いんだけど!?」
「ちょっと目が回ると思いますけど、頑張ってください」
そう言って、バイト君がくるくるその場で独楽のように回り始める。
始めはゆっくりだったスピードは徐々に加速していき、ヘリオドールの体は小さなバイト君によってジャイアントスイングされることとなった。
「ギャアアアアアアアア……」
「ちょっとの間でしたけど、一緒に色んなところに行けて楽しかったです。あとは藤原君を頼みます」
「た、頼むって! 私何もできそうにな……! とりあえず回すのやめて! リバースしそ……」
「また機会があればお会いしましょう。さようなら、ヘリオドールさん」
それがヘリオドールが聞いたバイト君の最後の言葉だった。
次の瞬間、バイト君は渾身の力を込めてヘリオドールを空高く投げ出した。
「死ぬ! 死ぬ死ぬ! 今度こそ絶対死ぬからこれぇぇぇぇぇぇ!!」
ヘリオドールの絶叫が青空に響き渡る。
ドラゴンがどこかへと飛んでいく物体に気付き、迫ろうとするも、突然体に強い衝撃と痛みを感じてふらついた。
巨大な胴体に乗る幼い子供。その手には白いモップがしっかりと握られていた。
「君たちも藤原君に嫌な記憶を思い出させたくないから、こんなことをしてるんですよね」
バイト君の言葉に応えるようにドラゴンが低く唸る。
「でも、藤原君の好きなようにさせてあげてください。邪魔しないであげてください」
バイト君は躊躇せずにモップをドラゴンの体へと振り下ろす。
「バイトくーーーーん!!」
宙に舞いながらヘリオドールは叫んだ。
どこか哀しげな断末魔を上げながら、漆黒のドラゴンが地上へと墜ちていく。きっとバイト君が倒してくれたのだ。
だが、彼がどうなったのかは、ここからでは知ることができない。
引き返せはしない。あまりにも距離が離れてしまったのもあるが、バイト君に総司を託された。
ここからは自分だけで総司を見付け出さなくてはならないのだ。
ヘリオドールが投げ飛ばされた先には山があった。深紅色に染まった木の葉に覆われたそれは、燃え盛っているようにも見える。
あの山のどこかに総司はいるのだろうか。
そこは不思議な空間だった。壁、床、天井ともに薄青の硝子のようなものでできており、床には色鮮やかな花たちが咲き乱れている。なのに、吐いた息が白く濁る程度には冷気に満ちていた。
冷たい花畑の中心に、その棺はあった。
氷で作られたそれは硝子のように透明で、無数の花びらや蔦が氷漬けとなっていた。陰鬱さは感じられず、ただただ美しい氷と花の棺。
総司はその側に座り込み、棺の中から伸ばされる白い手と握り合っていた。
「どうかしら、総司。全てを思い出した?」
棺の中から聞こえる少女の声はひどく柔らかいものだった。
総司はその問いかけに首を横に振った。
「僕が小さな頃、ウトガルドに行ったことがあるのは思い出せました。色んな場所に行って、色んな人に会ったこともありました」
「そう、良かったじゃない。思い出せないっていうのは何かしら?」
「どうしてウトガルドに行くことになったかがいくら考えても思い出せません。どうやって帰ったかも分からないし、一緒にいた人も覚えていないんです」
「一緒にいた人? 総司一人で異世界を歩いていたんじゃないの?」
「多分、僕は誰かといました。だけど、顔も名前も思い出せないんです」
「そうね。確かにあなたの心の中にあいつの記憶は全く残っていないわ。でも、それはあなたのせいであり、あいつのせいでもある」
「あなたは僕とその人のことを知っているんですか?」
「勿論。知っているわ。あいつとは何千年もいたし、あなたの中には何年もいたから。でも、教えてあげない」
棺で眠っていた少女は軽く笑うと、体を起こした。
「私には教える資格は持っていないの」
常磐色の髪と桃色の瞳を持つ少女は、繋いだ総司の手をどこか懐かしむように見下ろす。
「あなたがウトガルドにきたのも、あなたが嫌なものを見たのも、あなたが記憶を失ったのも全て私のせい。私に言えるのはそれだけよ」
「全部あなたが悪いと?」
「ええ。いつか……いいえ、近い内にあなたの前にあいつが現れて、全部話してくれると思う。あなたはきっとあいつを責めるでしょうけど、あいつはやり方が強引だっただけで正しくはあった。私と世界を救うために必死だったの。……それにあなたとの友情を守りたくて僅かに歪んだだけ」
「僕にはあなたが悪い人には見えませんけど」
「分からないわよ。どんなにニコニコしていたって中身はとんだ大悪党ってこともあるんだから。……そんな人を信じやすい総司に二つ伝えておきたいことがあるわ」
「何でしょうか」
「まず一つ目。スルト山に向かいなさい。そこにはまだ私がいる。さほど力は残ってないでしょうけど、回収しておくべきよ。……そして、もう一つ。オーディンって国には気を付けなさい。あそこには私の模造品がいる。それに、あの国が悪夢を作り出した諸悪の根源だから」
「……あなたは何人いるんでしょう?」
「……本当の私はもういないわ。いい? 二番目のことだけは絶対に忘れないでね。あなたの友達の親父も関わっているんだから」
「分かりました」
「よし、いい子」
「最後に」
「何よ」
「あなたの名前教えてください」
「いいわよ。ちゃんと頭に刻み付けておきなさい」
少女は総司の手を振りほどき、人差し指で総司の頭をこついた。
「私の名前は――――」
次回、今章ラストになります。