141.夢の世界
「それじゃ、早速行ってみてくれないかしら?」
「え……?」
リリスの言い方にヘリオドールは引っ掛かりを覚えた。まるでヘリオドールだけ行ってこいというようなニュアンスだ。
リリスは頭上にクエスチョンマークを浮かべるヘリオドールを余所に総司の額に手を置いた。
「夢の世界、眠りの世界。浮遊と夢想の畔に佇む貴方を迎えに参りましょう。そのための階を私は求めます」
とろりと甘さを帯びた声でのリリスの詠唱。淡い桃色の光がリリスと総司を包み込む。
すると、ベッドの傍らに人一人通れるほどの穴が出現した。穴の中には小さな梯子がついており、それはずっと下に続いているようだった。
これが総司が見る夢の世界の入り口らしい。穴の中に腕を突っ込んでみるが、暑くもなく寒くもない。ただ、光さえも飲み込むような静寂の闇だけが広がっていた。
どこか恐ろしさを感じてヘリオドールは息を呑む。夢ではなく、もっと別の場所に繋がっているようにさえ思えた。
「さ、行ってらっしゃいヘリオちゃん」
「行ってらっしゃいって……リリスは行かないの?」
「この魔法の術者は夢の中には入れないのよ。というわけでヘリオちゃんだけ楽しんできてね」
「む……無理よ、無理!」
ヘリオドールは両手と首を一生懸命横に振った。リリスも一緒に行くと思ったから話に乗ったのだ。
そうじゃなければ単身で総司の夢の中になど入れない。緊張と羞恥でどうにかなってしまいそうだった。
穴から離れようとするヘリオドールに、リリスは「はいはい」と笑顔で指をぱちん、と鳴らした。すると、ヘリオドールの足が地面から離れて体が浮き上がる。
そうして、リリスの指の動きに合わせて穴の上へと移動させられたところで、全身に冷や汗が流れる。ヘリオドールがばたばたと暴れても意味はまるでなかった。
「リリス待って! やめて!」
「大丈夫よぉ。夢の中では怪我なんてしないから」
「そういう問題じゃなくて本当にちょっと待っ」
「お土産話期待してるわね~」
「あ゛っ!?」
リリスの満面な笑み。それを見た直後、ヘリオドールの体から浮遊感が消え去った。穴の中へと吸い込まれるように落下していく。
「ぎゃああああああああ……!!」
小さくなっていくヘリオドールの悲鳴。リリスが穴を覗き込んだ時には既に彼女の姿はなかった。
「頑張ってね、ヘリオちゃん」
その応援が本人の耳には入らないと知りつつも、リリスは囁きながら穴に向かって小さく手を振った。
「いやああああああ!! どこまで落ちてくのよこれえええええええ!?」
落ちたヘリオドールはパニックに陥っていた。どこまで下っても闇、闇、暗闇。果たして底は存在するのだろうか。梯子を掴もうとしても手が後一歩のところで届かない。
そもそも、ここは本当に総司の夢の世界なのか。そんな疑問すらも沸いてくる。
このまま一生この空間から抜け出せず、落ち続けるのだとしたら……。想像するだけで涙が出てきそうだ。
「総司君どこにいるのよ~……!」
総司が悪いわけではないのに、いまだ姿が見えない彼に八つ当たりしてしまいそうになる。この際、どんな夢でもいいから早く総司に会いたい。
そう思った時だった。
「えっ……?」
どこからか声が聞こえた。男、それも若い青年のものだった。
――今すぐ彼から離れろ! その男まで連れていけば、向こうの世界まで改変してしまうことになる!
焦燥感を纏わせた声。その言葉の意味を考えるより先に、甲高い小さな子供の泣き声が暗黒を震わせた。
悲しみが込められた幼い慟哭にヘリオドールは目を見開く。
「この声……もしかして……」
確証はない。
だが、この子供の泣き声主はきっと総司だ。ヘリオドールにはそう思えてならなかった。
どうして幼い総司はこんなに激しく、悲しそうに泣いているのだろう。聞いているだけでも胸が軋む。
思わずヘリオドールは叫んだ。
「総司君! どうして、あんた泣いて……って、ぶはぁっ!?」
言い終わるより先にヘリオドールの体は、柔らかいクッションのようなものに叩き付けられた。しかし、落下の衝撃で多少の痛みはあった。しかも顔面から突っ込む形で着地したので鼻がが痛い。
リリスめ、帰ったら絶対に許さん。そんな決意を胸に抱きながら立ち上がる。
ヘリオドールが落ちたのは巨大な蓮の葉だった。それは澄み切った水面にいくつも浮かんでおり、淡い薄紅色の花もいくつかあった。
周りを見回して言葉を失う。先ほどまでの不安感を煽るような暗闇は消えていた。いや、正しくは黒から白になっただけである。
前後左右ともに白い空間。存在するのは蓮の葉だらけの川のみ。ヘリオドールは別の意味で不安になった。
「何ここ」
リリスの言葉を信じるとするなら、紛れもなく総司の夢の中。
だが、おかしい。彼は可愛い女の子や美女にちやほやされる夢を見ているはずなのだ。さっきからそれっぽいシーンに全く巡り会えていない。
ここにずっといても何も始まらない。ヘリオドールは葉から葉へと飛び移りながら移動を開始した。飛べばこんな苦労しなくても済むのだが、何故か箒を取り出せないのだ。試しに火を起こそうとしても無反応。
夢の世界では魔法が使えない。そんな話を以前どこかで聞いたことがあった。
「うわわっ、超危なっ!」
葉は薄い見た目とは裏腹に飛び乗ると、ふわふわと柔らかいベッドのように揺れた。慣れない感覚に川に落ちてしまいそうになる。
もし川に落ちてしまったらどうなるのだろう。ヘリオドールは何気なく水面を覗き込んでみた。白い海藻のようなものが揺らめいている。
……違う。あれは海藻ではなく人間の手だ。水の底から生えた手が水流に身を任せて揺れている。ふっくらとした赤子の手から、痩せ細った老人の手まで様々だった。
えらいものを見てしまった。ヘリオドールはそう思いながらも、その奇怪な光景から目を逸らせずにいた。
だが、この後、彼女に予想もしなかった恐怖が襲いかかる。ヘリオドールが乗っている葉の端から黒い藻のようなものがちらりと見えた。何だろうとヘリオドールは葉を捲って正体を確かめようとした。
それよりも先に、葉の下から黒い毛玉にも似た物体が流れ出てきた。直後、パンツ一丁の中年もそれを追いかけるように出てきた。
「ヒイィ、ボクのカツラたん待ってよぉ~……!」
「ヒギャアアアア、あんた誰!?」
ヘリオドールの問いかけを無視して、中年は黒い毛玉を追ってバタフライで泳ぎ去っていた。彼の頭部は河童のようだった。
取り残されたヘリオドールの心は壊れそうになっていた。どうして所長の薬を飲んだくせに夢の登場人物があんな変態なのか。
こんなシュールすぎる場所にいつまでもいたくない。ヘリオドールは全速力で葉を飛び移りながら岸を目指した。
「はあ、はあ……超疲れた……」
数分後、ヘリオドールは息切れを起こしながらも無事岸に辿り着いた。ここ最近で一番疲れたかもしれない。
蓮だらけの川を抜けると、そこはジャングルジムや滑り台がある公園となっていた。冬をイメージしているのだろうか。いつの間にか灰色に着色された上からは雪が降っていた。
地面は白い雪の絨毯が敷き詰められており、誰の足跡もついていない状態だった。けれど、寒さは感じられない。雪も手に乗せると体温に負けて水になるのではなく、すっと消えてしまった。
不思議な場所。
そして、ヘリオドールがずっと捜していた少年はブランコに乗っていた。
「総司君!」
駆け寄って呼びかけてみるも、彼は口を開くどころか、こちらを見ようともしない。ヘリオドールに気付いていないようだった。
「そう……」
「藤原君に何かご用ですか?」
背後からしっかりとした口調とは裏腹に幼い声色で聞かれた。後ろを振り向いてヘリオドールは目を丸くする。そこには白いモップを持った、黒髪の子供がいた。
総司と同じ、漆黒の瞳を持ち、何より総司にそっくりな顔をしていた。