140.記憶を求めて
医務室に運ばれた所長の容態は深刻だった。ずっと寝言を言い続けているのだが、その内容は奇怪しか言い様のないものばかりだった。
「名状しがたいもの……おお……いあ、いあ、はすたあ……」
召喚魔法の呪文だろうか。しかし、誰もそんな呪文は聞いたことがなかった。名状しがたいものが何を指しているのかも分からない。
ただ、総司が望んだ夢を見させられているのは確かである。内容を知っているだけにアイオライトとオボロは身震いした。
叩き起こして夢の世界から引っ張り出すことも出来るが、それはしない方向で正式に決定した。底冷えするような夢だったので、起こそうという意見もあったものの、オボロが発覚した経費の件で消されたのである。
総司がちゃんと自分で貯めた金で買ったのに、人生の大先輩が職場の金を使い込むなんてあってはならない。どうせ一回だけの効き目なので、罰として所長は自分で目覚めるまで放置することにした。
「うふふ……妖精さんかと思ったらお花じゃった……可愛いのぅ……待てーい……」
「いい具合に出来上がってるね」
目覚めた時、所長が正気を保っているか少し心配になったが、本人も愉しさを見出だしてるようなので大丈夫だろう。と、オボロは楽観的に考えることにした。
正直、総司の夢の内容を聞いて後悔している。罰で所長を放置中とは言え、寝言を聞いているだけでも怖い。
もう所長など放って仕事に戻りたい気持ちでいっぱいだ。しかし、事情を知らない職員にこの有り様を見られても面倒なのである。
妖精・保護研究課のジークフリートあたりに押し付けたい案件だが、生憎彼の課は調査のために森に行っているので帰ってこない。
監視している側もごりごりと精神を削られていく。オボロとアイオライトは二人仲良く同時に溜め息をついた。
「ソウジは何でこんな夢を見たいだなんて思ったんだろうな……」
「そんなのソウジ自身に聞いたらいいじゃん。何かもう理由を聞く気にもなれないけど……」「ソウジに、か……」
素っ気なく返したオボロに、アイオライトは複雑そうに唇を噛み締める。彼女の心中を何となく理解していたオボロは半笑いだ。
この医務室に総司の姿はない。当初はブロッドによってここに運ばれてきたのだが、すぐに仮眠室に移されたのだ。別に体調を悪くしていないのなら仮眠室で寝かせろと、医務担当の職員に言われたのである。
ちなみに所長はこちらで預かることになった。寝言がうるさく気持ち悪いので、迷惑になるからという理由からだった。重病人が来たら、所長はベッドごと廊下に連れ出す案が上がってはいるが。
そして、アイオライトがやきもきしている原因は総司が見ている夢にあった。
(女の子とイチャイチャする夢……総司君が女の子とイチャイチャする夢を……)
同じ悩みを持つ者がここにもいた。
仮眠室は基本的に昼間であっても薄暗い。窓は付いているのだが、光を吸収する黒のカーテンで常に隠されているため明るさはほぼない。天井に吊り下がった光の玉は魔力を注ぐことで明かりを放ち、魔力の量によって眩しさも調整出来る。
一名しか利用者のいない仮眠室の中、ヘリオドールは僅かな光を灯した状態でベッドの傍らにいた。
そのベッドに寝ているのは総司だ。寝言を繰り返す所長と違ってこちらは静かだった。寝返りを打つこともなく、昏々と眠り続けている。
全く身動ぎもしないので、死んでいるのではと不安になるものの、小さくても寝息は立てている。決してイケメンと呼べる顔ではなく、いつも死んだ目をしているが、こうして寝顔を見ると随分と幼く感じた。
ちょっとした悪戯心でむにっと頬をつねっても反応は返って来ない。あの星のない夜空を閉じ込めた瞳は瞼の奥に隠されたままだ。
他人の気配に敏感な総司が頬をつねられても無反応。その異常の原因は所長の薬にあった。
一生の内、一回しか体験出来ない自らが望んだ夢。それは起きてしまったら消えてしまう。たとえ眠りに入ってから五分後だとしても、誰かに起こされて目覚めたら薬の効果はその時点で切れる。
どうせなら長く楽しみたい。そんな考えから所長は最低でも五時間は絶対に目覚めないような作用を注文していたのだ。そのせいで値段も割増になっていたようだが。
「早く起きなさいよ、総司君……」
ずっと総司から離れようとしないヘリオドールの心中は穏やかではない。
何せ総司は五時間ずっと美女や美少女に囲まれた夢を見続けているのだ。
美女美少女の中に自分は含まれているだろうかとか、夢の中で総司はどんな反応をしているのだろうかとか、様々な疑問が泡の如く浮かんでは消える。
もし、寝言で誰かの名前を呟いたらどうしようとハラハラしていた。
気になっていることはそれだけではない。
ヘリオドールは小さく息を吐いて総司の黒髪を撫でる。ふわふわとしたそれは触り心地がよかった。
「総司君……あんた、もしかして結構悩んでたの?」
所長は目覚め防止の他にも、忘れていた過去を思い出すという効果も注文した。昔出会った美女も夢に出てくるように、と付与させたらしい。
この効果を偶然、総司も注文していた。最後にそれを付与してから小瓶に詰めたのだが、所長の薬と同時進行だったのでそこで取り違えが起こったのだ。
所長と似た理由で記憶を蘇らせたいと思ったら、そうでもないらしい。総司は店で注文した時にこう言ったそうだ。
「『ちょっと記憶喪失を起こしているみたいなので』……か」
総司は何を忘れているのだろう。ヘリオドールには見当も付かなかった。
だが、彼は何らかの理由で自分には記憶の一部分が欠けていると知った。そして少しでも思い出したかったのでは、とヘリオドールは思っている。
(……でも、思い出せるのかしら)
店員によると記憶を蘇らせる効果はあることはあるのだが、これも精神に深く干渉するためにあまり強く作用し過ぎないようにしているらしい。
記憶が蘇える夢など、それ自体を目的とした夢も指定不可能だ。他の夢にエッセンス程度に加えることしか出来ないのだ。
何か些細なことでもいいから思い出せればいいのだけれど。ヘリオドールはまた溜め息をついてから、総司の髪を撫でようとした。
仮眠室に誰かが入ってきたので慌てて手を引っ込めたが。
「あらぁ、やっぱりヘリオちゃんもここにいたのね」
「リ、リリス。あんた、所長のところにいなくてもいいの?」
「オボロちゃんとアイリィちゃんがいるもの。……ねえ、顔赤いみたいだけどソウジちゃんに何してたのかしら?」
「なっ、な、何もしてないわよ! あと顔も赤くない!」
顔に熱が集まるのを感じながらヘリオドールは髪を撫でようとしたことすらも隠した。何故か、それを知られることがとても恥ずかしいと思えたのだ。
脱いだ帽子で顔を隠すヘリオドールにリリスは笑ってからベッドに近付いた。多くの男が触れたいと願う艶やかな指先が総司の頬を撫でる。
どこか、いやらしい手付きにヘリオドールはむっと頬を膨らませる。
「……どうせ総司君起きないわよ」
「分かってるわ。私がここに来たのは、この子のお手伝いをするためよ」
「お手伝い?」
「そ。ソウジちゃん……何かを思い出したいんでしょ?」
「そうみたいだけど……」
「だったら、一緒にその記憶を探してあげればいいんじゃないかしら?」
リリスの肝心な部分をはぐらかした言い方にヘリオドールは首を傾げる。確かに総司の助けになるならいくらでも協力してやりたいが、今はこの状況。彼が起きるのか待つだけだ。
そう言おうとしてヘリオドールは一つの方法を閃いた。……まさか、リリスはこの手を使おうとしているのだろうか。恐る恐る尋ねてみる。
「あんた、総司君の夢の中に入って……とか言わないわよね?」
「大正解!」
「いや、大正解じゃないでしょ! いくら何でもまずいでしょ!」
プライベート。プライバシー。そんな単語たちがヘリオドールの脳裏に駆け巡る。
「でも、ヘリオちゃんは夢の中でソウジちゃんがどうなってるか知りたくない?」
「うっ」
「誰も知らないソウジちゃんを知りたいと思わない?」
「ううっ」
「もしかしたら……ソウジちゃんの意中の相手が誰か分かるかも知れないわねぇ」
「うううっ」
次々と襲いかかる誘惑の言葉。ヘリオドールの心は大きく揺らぎ――。
「ね、手伝ってあげましょうよ?」
「……し、仕方ないわね」
ついに首を縦に振ってしまった。
今頃、所長は狂気山脈かダンウィッチあたりにいるんじゃないすかねぇ。