131.苦
役所を出たヘリオドールとフィリアが向かったのは、中心部にある小さなレストランだった。客を試食会に持っていかれているようで、閑古鳥が鳴いている状態だが、普段は食事時になれば行列が出来るほどだ。
店には悪いが、ラッキーだと喜びながらヘリオドールは窓際のテーブル席を選んだ。フィリアはヘリオドールの向かい側の席に座った。
「こちら、メニュー表になります」
「ありがと」
質素でありながら清楚な印象を与える制服をした店員にメニュー表を渡され、ヘリオドールは礼を告げてからテーブルに置いて開いた。フィリアにも見えるようにするためである。
魚料理を得意しているこの店は肉が苦手だという女性や老人に人気だ。店側も彼らにターゲットを絞っているようで、他の料理もヘルシーだったり柔らかい食感のものが多い。
「フィリアちゃんは何にする? なんでもいいわよ」
「え、えと……」
フィリアが緊張するのにはわけがある。ここの食事を奢ると言ったのはヘリオドールだった。
いつもなら少し躊躇しつつも、素直に甘えるフィリアも今回は申し訳なさそうに俯くばかりだ。あの出来事のあとだから仕方ないとヘリオドールも苦笑するしかない。
総司に思わぬ形で逃走されて残された者同士試食会を回るという選択肢もあっただろう。だが、どうにもそういう気分にはなれず、フィリアを連れてここまで来れた。二人で静かに過ごせる場所が欲しかったのだ。
役所の中では誰かに茶々を入れられてしまいそうだが、ここなら店員は必要以上に客に干渉しようとしない。その無関心さが安らぎとなる。
何とかフィリアも料理を決めたところで店員を呼んで注文をする。かしこまりました、とにこやかに笑って厨房へ消えていく店員を眺めていると、フィリアが意を決したように顔を上げた。
「あの……ヘリオドールさんごめんなさい!」
「えっ、何で私が謝られてんの!?」
「だってヘリオドールさんも作ってきたんですよね? パイ……」
「うーん……バレちゃってたか」
ヘリオドールがフィリアを見ていたように、彼女もこちらを見ていたらしい。ヘリオドールは頭を掻いた。
「ソウジさんにあげるつもりだったのに私が邪魔するようなことをしちゃって……」
「でも、私まだあげるとか決めてなかったから。それに結果的にあの子も私たちよりお友達を優先しやがったし……」
多少乱暴になった口調には総司への苛立ちが含まれていた。
彼は彼なりに動きたいのだ。本人に文句を言ってもどうしようもないのは分かっている。女心を理解しろ! と押し付ける女は男に疎ましいものでしかないだろう。
深く息をつくヘリオドールに、フィリアがくすりと笑った。
「でも、私ソウジさんに感謝してます。もし、一緒にお出かけすることになって、もしクッキーを渡すことになってたら……ヘリオドールさんとこんな風に話すことも出来なくなってました」
「そんなことないわよ。フィリアちゃんをそれぐらいで嫌いになったりするわけないでしょ!」
フィリアに負の感情を抱くだなんてとんでもない話だ。立ち上がりそうになりながら弁解する魔女に、エルフの少女は笑みを湛えたまま「違います」と言った。
「私の想いにソウジさんがどんな答えを出すのかは別として、ヘリオドールさんに申し訳ないって思ってしまうからです。多分、私よりもソウジさんのこと、強く思ってるのに」
「お、思ってない思ってない。フィリアちゃんより総司君が好きとかあり得ない、から……」
「皆、知ってると思いますよ。ヘリオドールさんの気持ち。ヘリオドールさんがその想いを認めようとしないだけです。認めない内に私が先にソウジさんに告白するのが何となく……嫌でした」
翡翠色の瞳はどこまでも優しげに、狼狽するヘリオドールを見守っている。
そんなフィリアはやけに大人びて感じられた。これじゃあ、どちらが年上か分からない。
ヘリオドールは数回深呼吸したあと、緊張で震える口を何とか開いた。……ずっと抱えていた疑問を吐露するために。
「フィリアちゃんは……辛くない?」
「え?」
「あのね、総司君が別の世界の人間だってことは知ってるでしょ? 本当ならアスガルドにはいないはずなの。ただ、役所で働きたいってだけの理由でいるだけ。……いつになるかは分からないけど、二度と来なくなる日がきっと来ると思うの」
その時の光景を出来るだけ想像しないようにして喋っているのに、目が潤んでくる。
総司をアスガルドに連れてきたのはヘリオドールだ。けれど、いつまでもアスガルドにずっと来いと命令する権利も義務もヘリオドールにはない。
別れは訪れる。こうして話しているだけで胸が痛くなるのだ。これ以上総司と親密な仲になれば、離れた時の苦しみは更に大きくなるだろう。
「私にはさ……ちょっと耐えられないかも」
「……だったら私はソウジさんがずっとこの世界に来てくれるように、ずっと側にいてくれるようにって頑張りたいです」
「あの子がやっぱり向こうの世界の女の子の方がいいって思ったら?」
「私を選んでくれて良かったって思ってくれるようにソウジさんを幸せにしてみせます!」
フィリアの瞳と言葉に迷いはなかった。あまりにもまっすぐな想いを見せ付けられ、ヘリオドールは呆気に取られる。
そして、フィリアも恥ずかしそうに両手で顔を隠した。
「ふあああああっ! 変なことを言ってごめんなさい! 今のは忘れてくださいぃぃぃぃ!!」
「ううん、忘れないわよ。今のフィリアちゃんかっこよかったから」
お世辞などではない。純粋にヘリオドールはフィリアに対して羨望を抱いた。
「あ、ありがとうございますっ」
「でも、いいの? そこまで総司君が大好きなのにライバルを増やしちゃって」
「いいんです。ヘリオドールさんとは正々堂々と戦いんです。ソウジさんもだけど、ヘリオドールさんも大好きですから」
「……ありがと、フィリアちゃん」
初めて出会った時に比べてフィリアは本当に成長した。なのに自分は何も変わっていない。そのことを実感してヘリオドールは自嘲した。
「……よし、今日はたくさん食べていいわよ! お腹いっぱいになるまで食べたら、あの妖精も捜しに行きましょう!」
「あの子どこに行ったんでしょうか……試食会の会場にもいなかったみたいだし……」
「この辺りになると静かになるんですね……」
レヴェリーは周辺を見回しながら呟くように言った。表には大勢の人々が歩いているのに、裏道に入ってしまえば猫一匹いない。
感心するレヴェリーの前を歩いていた総司が後ろを振り返る。
「この道を使った方がレヴェリーさんの言う場所にいくら早く着けますからね」
「ありがとうございます。……それにしても、この国の人は皆笑っていますね。いい国です」
「オーディンはどんな国なんですか?」
「あそこもいい国ですよ。誰もが幸せそうにしています。誰もが……」
レヴェリーの足の動きが止まる。足音がなくなったことに気付き、総司も振り向く。
女はそんな少年に質問を投げかけた。
「私、昔自分で淹れた珈琲がとても苦くて残念な思いをした時があるんです。ソウジ君は……どうして珈琲が苦かったと思います?」
「……分量を間違えたからじゃないですか?」
「不正解。正解はミルクと砂糖を入れてなかったからです」
「原因はそこでしたか」
「くだらないと思いませんか? ……私の人生もくだらない理由で酷く、苦いものになってしまった」
やけに冷たい風が吹き、二人の黒髪と常磐色の髪を揺らす。
総司を見詰める桃色の瞳に赤みが増していく。
「私は……あまりにも多くの苦痛を得てあの『女神』の力を手に入れた。なのに、あなたは何の苦もなく『雪神』との絆を手に入れて、それを破棄した」
「ゆきがみ……?」
「私は自分こそが神に選ばれた存在だとずっと信じていた。だけど、あなたがいたせいで私は……私は私は私は私は私は私は私は」
赤く染まりきったレヴェリーの瞳が総司を強く睨む。
そして、レヴェリーの傷一つない白い両手が総司の首を掴もうと迫っていった。