13.優しくていい人
オボロ・サミダレにとってこの世界は玩具のようなものだった。
魔族と体質が近い狐の獣人として生まれ、幼少期から強い魔力を有していたおかげで、いつもちやほやされていた。それと同時に過剰な期待も寄せられていた。
将来はノルン国を支えるため、城に仕える者となれと両親からも親戚からも口癖のように言われた。刷り込み、一種の洗脳のようだったなと、あの頃を振り返りながら思う。
オボロがこの世に生を受けたのは二十年前。魔王と勇者との戦いが終わりを告げた頃だった。訪れた平和な時代に皆が酔いしれていた。そんな中で生まれた天才少年は一族の希望とされていた。
オボロは物心付く時には周りを冷たい目で眺めていた。
心からオボロの出世を願っている者などいなかった。全員、オボロを高い地位の人間に仕立て上げ、そのおこぼれをもらおうとしているのが分かった。強い魔力を持たない、頭もさほど良くない血で繋がった集団の中で生まれた優秀な存在。オボロがそう自覚するのに時間は多く必要としなかった。
(可哀想な連中だ。僕に縋り付いて生きようとするなんて)
両親に可愛がってもらった記憶はほとんどない。周囲の同じ年頃の子供達が遊ぶ中、オボロだけは魔術の使い方や役人になるための勉強をひたすら続けていた。時間の無駄だと言って友達を作る事さえ許されなかった。
そんな苦痛とも言える少年時代、オボロは思考を変換してしまう事で何とか心が壊れてしまわないように守り抜いた。自分は彼らの糧になるために生きているのではないと。哀れで愚かで救いようのない彼らを将来『家畜』とするために今こうして下準備をしているのだと。
自身を優秀な存在と常に思い、周りを見下して生きるようにしてみれば、後は楽だった。役所に就職して役立たずの連中から仕事を次々と掠め取って功績を残していく内に、一ヶ月ではあるがユグドラシルへ赴いて城での仕事に携わる事も出来た。帰る際には大臣から「近い内にウルドから城への異動を正式に決めよう」と言われた。オボロの将来は決まったようなものだった。
安泰の未来と自分に盲目な両親と親族。女も向こうから勝手に媚びを売ってくるので困らない。その内、まあまあ頭の良い女と結婚して子供を産ませればいいのだ。
今まで通り他人を蔑んで上を目指していれば、数年もすれば何不自由ない生活が待っている。その余裕は次第に飽きへ変わって行った。既に未来は確定している。だが、そこに辿り着く前に遊んでみたいと思った。刺激的な体験してみたいと思った。
(ヘリオドールも凄い新人を連れてきたよねぇ)
あのウトガルドからの人間な上、色々と規定外の能力の持ち主。それだけでも十分興味を惹かれたというのに、あの暗黒竜を一人で倒した話をこっそり聞いた時、オボロは興奮を覚えた。新たな魔王が復活したという件については流石に動揺したが、それよりもニーズヘッグを打ち破った者がこの職場にいる事実の方がオボロに大きな衝撃を与えた。
会いたい。是非会って色々な事を聞き出したい。
何故異世界に来ようと思ったのか。
どんな能力を持っているのか。
どうやってニーズヘッグを倒したのか。
二十年前の『勇者』について何か知っているか。
そのためにもまずはどうにかして彼に近付かなければならない。他人は自分より上の人間か下の人間かの二種類しかいないと思っていたオボロにとって、彼は初めて見る未知数の人間だった。
「Aさん、Bさん、Cさんは書類の日付を見て日ごとに分けてください。DさんEさんはオボロさんと僕が記入を終えた紙のこの辺りにハンコを押してください。Fさん、Gさんは記入漏れがないか最終チェックを。お願いします」
そして、オボロは現在この状況に混乱しきっていた。ヘリオドールを言いくるめて二人きりで新人と課長の後始末をする事になったのはいい。いいのだが。
「では始めましょう」
自分達以外誰もいない、長机と椅子だけがある室内に谺する総司の声。その直後、机の上の大量の紙が強風に煽られて宙に浮かぶ。魔力をさほど持たない人間から見れば何事かという光景。平然と書類の処理を始めた総司とは対照的に、オボロは呆然と頭上を見上げていた。
風を司る精霊シルフ。背中から小さな羽を生やした小さな少女達が総司の指示を受けて紙を仕分けしていた。彼女らがA、B、Cらしい。机の上には自分の体と同じ大きさのハンコを持ったシルフが二体、眼鏡を掛けて出来上がりの書類を待つシルフが二体いた。
(精霊に仕事を手伝わせるなんて聞いた事がないんだけど、何なんだよこいつ……)
魔力を全く持っていないのに精霊と会話が出来るのは事前に知っていたものの、彼らをこんな風に使う人物とは聞いていない。精霊を服従出来るなら、もっとマシな活用法があるはずだ。風は敵を吹き飛ばしたり鎌鼬で切り刻めるし、攻撃を弾き飛ばせる。シルフはその風を自在に操れる力を持つ。地味な作業を手伝わせるのははっきり言って無駄だ。無駄遣いだ。
「オボロさん? さっきからボーッとしてますけど、どうかしましたか?」
「え、ああ。凄いと思ったんだよ。シルフが人間にこんな形で手を貸す所なんて初めて見たからね」
「僕を手伝いに任命してくれるのは嬉しかったんですけど、まだ新人の僕では作業が遅くてオボロさんの足を引っ張ると思ったんです。それでどうしようかとシルフさん達に相談したら手伝ってくれる事になりました」
「そうなんだ……」
精霊に相談なんて軽く言っているが、この少年は魔術師なら誰もが憧れる事をやっているいうと自覚がないのだろう。自身がどんなに貴重な存在であるかさえ気付いていない。
(……僕とは反対だ)
周りとの平凡な人間達とは違う。自分は非凡で優れていると。過度の期待から心を守るため、そう思い続けて過ごしてきたオボロには考えられない思考の持ち主だった。
呑気な奴め。シルフの助けもあっていつも以上にスムーズに進む作業の合間に内心で悪態をつくと直後、総司はオボロの名前をまた呼んだ。
「オボロさん、そういえば」
「何?」
「僕のせいでヘリオドールさんに喧嘩を売るのはやめてくれませんか? ヘリオドールさんが可哀想です」
「……君、話聞いていたの?」
「?」
総司が首を傾げる。ヘリオドールとの会話を聞かれたかと思ったが、そうでもないらしい。オボロは実際には口には出していなくても、呑気だと馬鹿にした事を密かに詫びた。
見掛けによらず、意外と鋭い。となれば、警戒心を解くために浮かべていた優しい表情も柔らかな声もあまり意味は持たない。オボロはくく、と込み上げてきた笑いを喉の奥で潰した。
「なあんだ。最初から気付いていたなら、僕と彼女の攻撃を受け止めた後に指摘してくれれば良かったのに」
「あそこにはヘリオドールさんだけじゃなくて、他の方々がたくさんいたから喋らない方が思ったんです」
「鋭い上に思慮深いときたか。大丈夫だよ、心配しなくてもニーズヘッグや魔王の件をあそこで堂々と話すつもりはなかったよ」
「え?」
総司がペンの動きをピタリと止めた。彼が驚いたような声を出した事に、オボロはニヤァと笑みを浮かべる。
「びっくりしたでしょ? 僕が森の件を知っていたなん……」
「どうしてそこでニーズヘッグさんが出てくるんですか?」
「え?」
今度はオボロが首を傾げる番だった。
「僕はオボロさんがヘリオドールさんに片思いをしている事を他の人に知られるのはあまり良くないんじゃないかと思って……」
「ちょっと待ってストップ! ストップ!!」
ここでオボロは気付いた。総司と話が噛み合っているように見えて、実はずれまくっていたのだと。
「安心してください。誰にも話してません」
「話さなくていいよ事実無根なんだから!」
「え……オボロさんはずっとヘリオドールさんが好きで、なのに僕がヘリオドールさんといるようになったからヤキモチを焼いて喧嘩を売ってきたのでは?」
「どうして? どうして君はそんな結論に辿り着いたの!?」
計り知れない想像力にオボロは恐怖さえ覚えた。ヘリオドールに恋愛感情を覚えた事など一度もない。向こうも同じだろう。何故、あの状況を見て片思いをしていると思われたのか理解出来ない。
そして、更に総司は爆弾発言を投下していく。
「オボロさんは恥ずかしがり屋で、だからヘリオドールさんにも素直になれないんだなと思ったんです」
「恥ずかしがり屋ぁ!?」
「課長に散々怒っていたくせに結局は許して書類もやると決めたじゃないですか。普通の人だったらもっと文句を言ってから仕事も受け取りません」
「いや、それは」
「オボロさんは本当はとっても優しくていい人です。だから、もっと素直になりましょう。そうすればヘリオドールさんもきっとあなたの優しさに気付くはずです」
「………………」
オボロに否定する気力は残されていなかった。この少年は鋭くも何でもない。ただの才能を無駄遣いする想像力に長けた馬鹿だった。
(本当に何だよ、こいつ……)
天才、優秀、捻くれ者、腹黒とはよく呼ばわれているが、優しくていい人間呼ばわりされたのは初めてだった。それも真っ直ぐに見詰められながら。
どう言い返せばいいかオボロには分からなかった。