120.春爛漫
沖田町の一角に建てられたマンション、ブリーシンガメン沖田。早朝から主婦たちがゴミ出しに、サラリーマンが出勤するため次々とエントランスホールを通りすぎ、外の世界へ放たれていく。
が、その隅に丸くなったまま動かない塊が一つあった。寒さのせいで冬眠一歩手前のハムスターではない。今が青春時な男子高校生である。
そんな彼は外への出入口の自動ドアが開く度に、一層身を縮めている。朝特有の冷たい風に耐えている様子だった。ハムスター、もしくは仲間と身を寄せ合い暖を取る兎だ。朝っぱらから寒さに震えているのは彼だけだったが。
「大丈夫ですかな、クォーツ王子! やはり、本日は休まれた方がよろしいのでは……!」
「朝の空気の寒さが辛くて学校を休むなど最近の小学生でも中々使わない欠席理由だぞ! それにそんなことで休んだら奴に怒られるではないか!!」
彼の使用人らしきスーツ姿の老人は男子高校生に怒鳴られて涙ぐんだ。ハンカチで目尻を押さえながら嗚咽を上げる。
「ううっ……王子……! まだ学校に行く意思は潰えていないのですね……立派ですぞ、王子!!」
感極まって咽び泣く老人に突き刺さるマンションの住人らの異物を見るような目。男子高校生はハッとした。
「ちょ、やめて!! よく分からんが、ものすごく恥ずかしい気分だぞ! 貴様はとっとと部屋に戻ってニュースでも見ていろ!!」
「ですが、この爺はどうしても心配なのです。王子が寒さのあまり、路上で力尽きてしまわないかと……」
「そこまでの寒さではない! それと毎日毎日口を酸っぱくして言っているだろう。人前では俺を王子と呼ぶなと……」
「斎藤君」
その呼び声に男子高校生――いや、クォーツ・トリディレインは青ざめた。自動ドアから同じ学校の制服を来た少年が現れる。早くこっちに来ればいいのに、少年は他の人の邪魔にならない程度に自動ドアの側に立ったまま動かない。
おかげで冷風がびゅんびゅん中に入ってくる。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」
「太陽の光を浴びた吸血鬼みたいな悲鳴を上げてどうしたんですか、斎藤君」
「やめろ藤原! 超寒い!!」
「寒くても頑張らないと学校には行けません」
「おやめくだされ、藤原様! これ以上冷たい風を浴びてたら王子が死んでしまいます!!」
「死にませんって」
ゴミ捨てから戻ってきた主婦は王子とやらの友人らしき少年のぶれなさに、「スゲーな」と素直に思った。
あれは自動ドアを支配下に置くことで、外気の冷たさに王子を慣れさせようとしているのだ。とは言っても、主婦にしてみれば今日はぽかぽか陽気の暖かい日だ。日中に比べれば朝は多少肌寒さはあるだろうが、あんな猛吹雪を喰らっているようなリアクションをするのは王子ぐらい。つまり、極度の寒がり。
この光景、実は一週間に一回程度見られる名物で十年前から続いている。
「嫌だ、やっぱり俺は部屋に戻るぞ藤原! 暖かい部屋でベッドの上でゴロゴロしながら、ケーキを食べてお気に入りのサイトの更新をチェックしたりネトゲを楽しむのだ!!」
エレベーターに乗り込もうとしたクォーツを背後から少年が羽交い締めにする。「離せ―!!」という絶叫がマンションの外にまで響き渡る。
滅茶苦茶だ。
「遊んで食べて寝るだけの生活は駄目ですよ、色々な意味で」
「遊んで食べて寝るだけの生活をして何が悪い!!」
「少なくとも顔はニキビだらけになって体重も増加して女性にはモテなくなります」
十分後。
沖田町を一人の少年が優雅な笑みを浮かべて歩いていた。
「見ろ、藤原。あの太陽の光は俺のためのスポットライトだ」
「お金のかからないエコ仕様のスポットライトですね」
両手を天高く上げ誇らしげに語るクォーツの横で、総司は前方からやって来る散歩中のチワワをぼんやりと眺めていた。
「ギャウウウウウウ!!」
チワワがクォーツに牙剥き出しで威嚇する。ふるふる震えて庇護欲を掻き立てるような愛らしさは存在していなかった。
「ランちゃん、どうしたの!? 落ち着いて!!」
焦る飼い主。このチワワが誰かに向かって威嚇するのは初めてのことだったのだ。
だが、今にも噛み付かれそうな勢いにクォーツが怖じ気付くことはなかった。逆に満面の笑みを浮かべてチワワへ手を伸ばそうとしている。
「おお、チクワだな。愛い奴め!」
「斎藤君危ない危ない」
総司が腕を掴んで友人の暴挙を阻止する。その隙に飼い主はチワワを抱き抱えて走り去って行った。
「ふむ、確かに無断で他人のペットに触るのは軽率だったな。感謝するぞ、藤原」
「どういたしまして」
「だが、あの飼い主……」
ミニスカをはためかせて走る飼い主の生足をクォーツは真剣な眼差しで見詰めた。
「男にとってはご褒美だが、彼女たちはあの格好で寒くないのか……?」
「今日は結構暖かいですよ。斎藤君が寒がりなんです」
「仕方なかろう。こちらの世界は向こうよりも少し寒いのだ。地域にもよるだろうが、ノルンはここまで酷くない」
両手を擦り合わせながらクォーツが忌々しそうに言う。
初めてこちらの世界に来た時、季節はよりにもよって冬でその冷気に体がまともに動かなかった。死ぬ、とわりと本気で思ったものである。
(……もっとも、その方があの時の俺としては都合が良かった)
昔のことを思い出し、クォーツは瞼を閉じた。
「でも、僕の先輩はこっちに来た時、暑い暑いって言ってましたよ。ローブだからかもしれませんけど」
「貴様を役所に引き入れたという者か。まったく……異世界の人間を働かせようなどと、どうやったらそんな考えに行き着くというのだ」
「焦ってたみたいですよ。人が足りないとかで」
「貴様もだ、藤原。そんな怪しげな勧誘にホイホイ乗るとはどういうことだ。マグロ漁船に乗せられたらどうする」
「そんな大げさな」
「俺なんてナースの格好をした女に口説かれて家にお持ち帰りされたら、腎臓を売れと脅されたぞ」
朝にするとは思えない会話だ。二人の後ろを歩いていた小学生二人が真顔になった。
「残念でしたね」
「それ俺が騙されたことに対してであって、俺がこうして無事に生きていることを残念がっているわけではあるまいな」
「流石にそこまでは……」
「でも、家から逃げ出す前にナースの太ももを揉んでから帰りたかったものだ」
欲望に取り憑かれた男の言葉に小学生二人が悲しそうな顔をした。総司は何の変化も見せなかった。友人の言動になれているからか、それとも哀れむ価値すらないと思っているのか。それは本人しか分からない。
しばらく傍目から見たらとっても気まずそうな、けれど本人たちにとっては気まずくない沈黙が十分ほど続いたあと、クォーツがぽつりと呟くように尋ねた。学校が見え始めた頃のことだった。
「……貴様は何故俺がウトガルドにいるのかを聞こうともしないな」
「君、ずっと黙ってたじゃないですか。聞いちゃいけないことだと思っていました」
「貴様、俺にそんな気遣いが出来るのなら何故、普段からしようと……」
「あっ、校門の前に女の子が集まってますよ」
総司の言葉にクォーツが校門へ目を向けると、そこには大勢の女子がこそこそとこちらを窺っていた。
クォーツは朝の醜態から想像が出来ないような、爽やかかつ甘ったるい笑みを浮かべた。
すると、女子集団から上がる黄色い悲鳴。
「きゃああああああ!! 斎藤君笑ったわよ!!」
「春人様今日も麗しいわぁ!!」
「春たんこっち向いてええええええええええ!!」
「オギャアアアアアアア!!」
アイドルのコンサート並のテンションを見せる集団。気を良くしたクォーツはウインクを決めると投げキッスを彼女たちへと送った。
「斎藤く―――――――ん!!」
「ちょっと!! 春君のキッスは私のものよ!!」
「黙れ雌豚が!! 斎藤君の口付けを家畜に渡してたまるかァ!!」
地獄絵図。朝の眠気も一瞬で吹き飛ばす熱気に男子生徒の目が死んでいく。
「ああ、やはり学校というのはいいものだな! 薄暗い部屋でベットに寝転がり、好きなだけ食べて好きなだけネットゲームに勤しむ根暗には分からないだろうな、この至福の時!!」
「斎藤君、そういえば一時間目から英語の授業でしたけど、英文ちゃんと訳してますか?」
「えっ!?」
クォーツ・トリディレイン。ウトガルドでの名は斎藤春人。その容姿の良さから異性からの爆発的な人気を集め、本人も大の女好き。しかし、爛れた異性関係は一切持っておらず、ギャルゲーのヒロインからしか「好きです」と言われたことはない。
何故か。この性格のためである。
「今日も斎藤君は相変わらず斎藤君ね!」
「可愛いわね!」
見た目と上手く釣り合わない中身のため、彼を恋人にしたいという女子は百人に一人程度。
アスガルドでは沈黙の貴公子としてもてはやされている男も、ウトガルドではパンダ的存在だった。
タイトル:(頭が)春爛漫