115.殺すのではなく
今宵のウルド中心部は猫の舞踏会による展覧会が行われ、皆笑顔で過ごす至福の時が流れていたはずだった。
なのに、これはどういうことなのか。孫と共に展覧会に行った帰りだった老人は、目の前の光景を信じられずにいた。
この街に住む者なら知らぬ者はいないとされる名家、ハーチェス。突然、大きな衝撃音が聞こえたかと思えば、何とその家の壁に巨大な穴が開いていたのだ。
わけも分からずにざわつく通行人。近隣の住民も音に驚き、様子を窺うために家から出てきた。
だが、本当の恐怖はここからだった。穴の中から黒い何かがゆっくりと出てくる。
「あれは……」
老人は戦慄きながらも、しっかりとその姿を捉えていた。
半壊した豪邸の中から現れたモノ。それは三つ首の犬の魔物だった。六つの血色の眼球は前方を鋭く見詰め、涎を垂れ流す口からは黒い毛並みとは正反対の純白の歯が覗かせている。
魔物の足元は鮮血に染まっていた。まさか、と最悪の光景が脳裏に浮かぶも、人間の血ではないことはすぐに分かった。
魔物は手足の甲が何かで貫かれたように風穴が開き、そこから出血が止まらない様子だった。歩くどころか、その巨体を支えるだけでも精一杯だろうに、歩むことを止めようとしない。
苦しそうに息を吐きながらも傷付いた足で進む姿に、怨念めいた執念を感じさせた。
「きゃあああああっ!!」
しばらく誰一人として、その場から動けずに三つ首の魔物に見入られていたが、ついに一人の女性が悲鳴を上げた。
恐怖と混乱は瞬時に周囲にいた人々に感染した。
「うわあああああっ! 逃げろっ!!」
「何であんな魔物が家から出てくんだよぉっ!?」
「ママ! 怖いよ、ママ!!」
「いい? 絶対にお母さんから離れるんじゃないわよ!!」
恐怖に顔を引き攣らせ、叫びながら逃げ惑う人々のけたましい悲鳴は魔物を刺激したようだ。夜の涼しげな空気を震わせる咆哮が三つの口から発せられる。
殺される。老人にこれほどまでに死を予感させたのは、これが初めてのことだ。急いで孫と逃げようとする。
「お、おじいちゃん……!」
なんということか。魔物は老人と孫を追いかけるようにして、同じ方向へと駆けてきた。
迫り来る牙と爪。自分は老い先短いが、共に手を繋ぎ逃げる孫にはまだ多くの未来が待っている。こんなところで死なせるわけには。
そう思った時だ。二人を守るかのように後方に青みを帯びた半透明な壁が現れた。
「!」
それは魔物を進行を食い止め、老人たちが逃げる時間を与える。壁は亀裂が入ってすぐに砕け散り、消滅していった。
一体誰が? 考える間もなく、魔物の背後に何者かが迫った。
美しい浅葱色の羽織。その少年は素早く魔物の正面に回り込み、刀を引き抜いて魔物へと振るった。
「静まれ! 怒りを抑えろ!!」
刀は魔物を斬り付けることはなく、後退りさせるものだった。だが、それも反射的に一、二歩下がっただけで、血色の目は「邪魔をするな」というように少年を睨み付ける。
自分たちを救った少年は何者なのか。こちらへ振り向き、怪我はないかと尋ねる彼の顔を見て、老人はぎょっとする。
「あ、あなたはクォーツ様……!?」
どうして、王子がここに。恐怖も忘れて立ち尽くす老人にクォーツが苛立ちを込めて叫ぶ。
「貴様はその子供を連れて離れろ! この犬は俺たちが止める!」
「で、ですが……」
「行け!!」
凄まじい剣幕で怒鳴られ、老人が孫の手を引いて走り出す。二人の姿が見えなくなるより先に、ケルベロスが再び彼らの去っていく方が走り出そうとする。
パァン、とまた青い結界が行く手を阻んだ。
「行かせないぜ、アタシがいる限りはな」
ケルベロスの前に立ちはだかったアイオライトが胸に手を当て、瞼を閉じる。
「我が魂、我が思い、我が剣。滅したまえ、死を撒き散らす邪悪なる意思。救いたまえ、深き闇に囚われし哀しき魂を。我は破壊と創世の導き手なり。『菫青剣』!」
深い、夜明け前の空を思わせるような青の光がアイオライトを包み込む。
小さな手が胸から青色に輝く何かを引き出した。
それはかつて、魔王を打ち倒した勇者のみが使いこなしたとされる聖剣。一度は折れてしまったはずの青の刃から放たれる神聖な光に、ケルベロスが警戒するように身を屈める。
「でりゃあああああ!!」
アイオライトが自らの分身であり、核でもある菫青剣を思い切り振るう。
光輝く刀身から放たれた衝撃波を、まともに受け止めたケルベロスの体が吹き飛ばされる。見ていたクォーツが感心したようにうんうん、と頷く。
「流石だ」
「いいや、まだだ」
アイオライトの言葉は正しかった。地に伏せたはずのケルベロスは数秒もしないうちに体勢を立て直してしまった。その巨体は僅かにふらついているものの、憎悪に満ちた眼差しが失われることはない。
クォーツも予想していたのか、ケルベロスが持つ強靭な精神に動揺せずにいた。
「ふむ、もう少しすれば騒ぎを聞きつけて多くの兵が駆け付けると思うが……その前に何とかせねばならんな」
クォーツは菊一文字を構えながら呟く。
ケルベロスを殺して暴走を止めるのは簡単だ。刀で斬り付けてしまえばいい。
だが、あの魔物はむしろ被害者だ。人間の都合で捕らえられ、過酷な環境に置かれていた。クォーツにはどうしてもケルベロスを責められなかった。
兵が多く出動すれば、間違いなくケルベロスは住民に危険を及ぼす獰猛な魔物として殺される。王族の権限で止められるだろうが、街の住民たちの命も危うい状況だ。長くは持たせることは出来ない。
となれば、彼らがこちらにやって来る前に自分たちでケルベロスを止めるのが最良。
「問題はどうするか、なんだよなあ……」
アイオライトが渋い表情で菫青剣を見下ろす。
さきほど放った衝撃波は、あれでもかなり手加減したほうだ。その気になれば、ケルベロスを再起不能になるまでの威力を出すことは容易である。
問題はあのケルベロスの体力だった。あまり強すぎても死んでしまう可能性がある。それにこれ以上、止めるためとは言え、ダメージを与えることはしたくなかった。
そうなると、手段は限られてくる。
「アタシの結界で閉じ込めるのが一番いいかもしれないな……」
「なるほど。城の地下に幽閉中のニーズヘッグの結界も貴様が作り出したそうだな。犬も聖剣の作り出した結界の中から脱出出来まい」
「ただし、一個だけ厄介なことがある。結界は強力であればあるほど、作るのに時間がかかるんだ。さっき張ったみたいな弱いやつならすぐに作れるんだけど……」
「そうか。だったら俺が時間を稼ぐ」
「待て待て。それはヤバい」
王子一人にあの三つ首の魔物の相手をさせるのは中々勇気がいることだった。
彼のそんな危険な役をさせるわけにはいかなかった。
しかし、クォーツの瞳には不安の色は宿っていなかった。むしろ、口角は笑みの形を作っている。
「よく聞け。俺は自慢ではないが、国語の作文で女の胸の大きさについて書き綴ったら、授業が終わったあとに、藤原に体育館裏に呼び出されたことがあるし、ジャンケンでは藤原に勝ったことは一度もない。五回に一回程度は俺が勝っているが、あれは奴が同情して後出しして負けてくれたからに過ぎない」
本当に自慢じゃないし、したくもない。
「そんな俺でも剣術だけは藤原に負けない自信がある。つまり、魔物の足止め程度造作もないことだ」
その頃、一台の馬車が猛スピードで裏道を駆けていた。
中にいるのは何とかケルベロスから逃れてきたハーチェス一家。それと護衛の兵士だ。
「ねえ、お母さんどういうこと!? 何でケルベロスちゃんがあんなに怒ってるの!?」
「怖がらないで、グレイシア。あなたは何も悪くない。何も悪くないわ……」
まさに命からがら逃げ出し、恐怖でパニックになっているグレイシアを蒼白になりながらもシャルロッテが強く抱き締める。
何も事情を知らぬ者が見れば、哀れな親子に見えるだろう。しかし、フラットには周りからの同情を集めるための猿芝居にしか思えなかった。
「くそっ……これからどうすればいいんだ……」
ケルベロスが追って来る可能性もあるが、それを凌いだとしても今回のことでハーチェス家の悪行は全て晒されることとなる。地下を調べた時に、盗品のことも気付かれてしまうはずだ。
どう転んでも破滅。がりがりとこめかみを掻き毟っていると、突然馬車が止まった。
「ど、どうしたんだ?」
「私が見てきます」
兵士が外に出ていく。だが、直後に「お、おい!」と焦った声が聞こえてきた。
焦れたフラットも馬車から出ると、そこは人気のない静かな場所だった。
馬を引いていたもう一人の兵士がぐったりしていて意識を失っている状態だった。
これは一体。心臓がバクバクと跳ね上がるのを感じながら、フラットは前方に誰かが立っていることに気付く。
タキシードにシルクハットを被った子供だった。右は緑、左は赤のオッドアイを持つ美しい少年だった。
呆然とするフラットに子供は穏やかに笑った。
「初めまして、フラット殿。ボクは君の娘に捕まえられたケット・シーだ。……君たちに報いを与えに来た」
オリーヴですが、このキャラは今章のゲストキャラなだけなのに結構自分の中で気に入っていたようです。