114.地獄の番犬
その場にいた誰もが、破壊された檻へと意識を集中させる。
魔力封じの鉄格子は無惨にもへし折られ、手足を拘束していた枷も砕かれてしまっている。人間の悪意という名の檻の残骸を踏みつけた生物、それは巨大な三つ首の犬だった。
食事を与えられず、幾分痩せてしまっているが、あらゆる負の感情が溶け込んだ瞳は赤く鋭い眼光を放っている。枷を填められた上に杭まで打たれていた手足には大穴が開いたままで、夥しい量の血が流れていた。
その杭はと言えば、檻の底に血で染まった状態で刺さったままだ。どうやら、強引に杭から手足を引き抜いたようだった。
「あ、あ……」
噎せ返りそうになるほどの血の匂い。シャルロッテは全身を震わせながら、三つ首の犬――ケルベロスを見ていた。
この部屋に押し込めたのは随分前のことだ。既に衰弱死したものだと思っていたのに、まだ生きていた。
何故。そう考えるシャルロッテをケルベロスが六つの瞳を向ける。瞬間、シャルロッテは息を詰まらせた。
どうして、この過酷な環境で今日まで三つ首の犬が生きていたのか、分かった。分かってしまった。
極度の飢餓に、杭による激痛に耐え抜くほどの生への執着をもたらしたもの。
それは復讐。自由に生きていたはずの自分を捕らえ、用済みになった途端、暗い地下に閉じ込めた人間を喰い殺すためだ。
「い……いやああああああ!!」
何とか立ち上がったシャルロッテが、側にいた兵士を突き飛ばして部屋から逃げ出す。それをケルベロスが黙って見逃すはずもなかった。
三つの首がそれぞれ雄叫びを上げる。巨体から発せられるそれは、空気を震わせ他の生物をも黙らせるほどのものだった。
全員が耳を塞ぐものの、苦悶の表情を浮かべる。耳がどうにかなってしまいそうだ。
「斎藤君、斎藤君」
ケルベロスの動向を窺っていたらしい総司が片手を耳から離して、クォーツの肩を指でつつき、次にケルベロスを指差した。
どうして平気そうな顔をしている。友人への罵倒の言葉を口の中に溜め込みつつ、クォーツは指の先を追った。
三つある頭部のうち、一つが口に青い光を溜め込んでいた。その先にあるのは部屋の入口で、兵士たちが耳を塞いで蹲っている。
クォーツは目一杯叫んだ。
「貴様ら扉から離れろ!! これは命令だ!!」
だが、ケルベロスの咆哮がクォーツの声を掻き消して彼らに届くことはない。それどころか、全員俯くか目を瞑っているせいで迫る危機にすら気付いていない。
どうする。と思考を巡らせていると、急にクォーツを浮遊感が襲った。
どうしてか、体を総司に持ち上げられていた。
「気付かせればいいわけですよね」
「やめろ藤原。貴様、正気か! 超怖いぞ!!」
「行ってらっしゃい、斎藤君!」
総司は兵士たち目掛けてクォーツをぶん投げた。
「藤原ァ――――――!!」
豪速球を思わせる速度でクォーツは兵士の群れへと突っ込んでいった。アイオライトとオリーヴが愕然としている。総司は先ほど、自らの友人が一国の王子だと聞いたはずだ。なのに、この仕打ち。
「ク、クォーツ王子!?」
突然吹っ飛んできたクォーツに激突された兵士が俯けていた顔を上げる。そんな彼らにクォーツは強打した腰を擦りながら命じた。
「いいからここから離れろ! 早くしろ、あの犬に殺されるぞ!!」
「え、あ、は、はいっ!!」
ケルベロスの口から目映い光弾が放たれたのは、クォーツたちが退避した直後だった。それはシャルロッテが去っていった入口を貫いた。
轟音と共に壁に大穴が開く。ケルベロスは唸り声を発したあと、部屋から飛び出していった。シャルロッテを追いかけるつもりなのだろう。
兵士も後を追うも、既に足が震えて動けない者もいた。
「藤原ァ!! 何故に俺を投げた!?」
クォーツは元気だった。
「消去法ですよ。アイオライトさんやオリーヴ君を投げるわけにいかないじゃないですか。君だって同じ作戦を思い付いたら、僕を投げるしかないでしょ」
「くそお、反論出来ん! あ、いや、反論出来るか! 友人を投げるような真似を普通するか!? 俺と貴様の友情は広告のチラシのように薄っぺらいものだったのか!?」
「うっ、あの犬の鳴き声聞いていたせいで耳がよく……」
「オレ、キサマノトモダチ!!」
アイオライトは戦慄していた。ここまで他人を雑に扱う総司も初めて見るが、クォーツ・トリディレインが、こんなにも良く言えば人間味の溢れた、悪く言えば残念な男だとは思わなかったのだ。
クォーツは国民からは『静寂の貴公子』と呼ばれている。国民には建国記念日の時にしか姿を見せず、黒の軍服に身を包んだ彼が発言したことは一度たりともない。その容姿から女性には人気が非常に高く、彼の肖像画も多く出回るほどだ。
(無口な性格とかでも、世を憂いているわけでもなかった……こいつ、きっと皆に「お前は人前では何も喋るな」って言われてたんだ……!!)
大正解。総司に躾の出来ない犬の如く喚くクォーツを彼のファンが見たらどんな印象を植え付けられるのか。それは火を見るより明らかだった。
「何だ、怒っているのか!? 俺が王族であることを隠していたことを怒っているのか!?」
「いえ、それについては怒る理由もないので。ただ、高校生にもなって都道府県の穴埋め問題も出来ないような人が王子だなんて、この国の行く末が少し心配になりました」
「あれ滅茶苦茶難しいではないか!! あれ穴埋め問題というより、ほぼ白紙の日本地図に県名を地道に埋め込んでいく開拓式だろうが!!」
「君、ゲームでの敵のHPは一桁代まで把握してるじゃないですか。その抜群の記憶力を勉強に使わないでいつ使うんです?」
「ギエエエエエエエエ!! 涼しい顔して全問正解する貴様に俺の絶望が理解出来るか! 可哀想だから一つだけ解いてあげますよと言っておきながら真っ先に北海道を書き込むとは邪悪な男め!!」
歯軋りしたくなるようなしょうもない男である。とても、王子の言葉とは思えないし、思いたくもない。
ドン引きしつつも、アイオライトは大きく穴の開いた入口を見た。
「あのケルベロス、シャルロッテだけじゃなくてハーチェス家を皆殺しにするかもしれないぜ。止めにいかないとヤバい……!」
「……止めるのですか?」
部屋から出ていこうとするアイオライトを止めたのは、使用人だった。ちらり、とクォーツを見てから苦々しい表情で口を開く。
「この部屋を見れば、あの魔物がどんな目に遭っていたか分かるでしょう。あの魔物には、ハーチェス家の人間を殺す権利がある」
「……アタシが行くのは馬鹿一家を助けるためじゃない。あの犬のためだ!」
「俺も行くぞ、幼女」
クォーツが柄に手を当てながら言った。
アイオライトが顔を引き攣らせる。
「いや、アンタは来んなよ! 何で戦う気満々なの!?」
「そうですぞ、クォーツ王子。あなたにもしものことがあれば……」
「俺はそう簡単には死なん。それに人間の罪を罰するのは人間の役目だ。犬ころにその重荷を着せてやるつもりもない!」
クォーツが駆け出した。アイオライトはため息をつくと、表情を引き締めて同じように部屋から出ていく。
総司は彼らを追わずに、黄金猫を捕らえている檻を壊し始めた。こんな細い体でどうやって、というほどの馬鹿力に使用人が戦慄する。
「あとで他の皆も出してあげないといけませんね。……オリーヴ君?」
オリーヴはケルベロスの檻の残骸を何も言わずに見下ろしていた。
糞尿、体毛と血液が混ざり合ったものが渇き、こびりついて酷い悪臭を放っている。杭は肉塊と鮮血がべっとりと付着し、ケルベロスがどれほど苦痛を味わされていたのかを物語っていた。
他の生物は静まり返り、じっとオリーヴたちを見ている。縋るような瞳だった。
「……遅くなってごめんよ」
もっと早く見付けてあげられたのなら。
オリーヴは項垂れたあと、瞳に昏い炎を宿して顔を上げた。
「ソウジ君、そこの男とここにいる皆を助けてやってはくれないか?」
「オリーヴ君どうするんですか?」
「ボクは……聖剣と王子と共にケルベロスを止めてくる」
総司の方を見ないままオリーヴは答え、それから付け足すように言った。
「皆、君のような人間だったら良かったのに……」
総司「斎藤君、沖縄があったかいところなのは理解してますか」
クォーツ「パイナップルとマンゴーの国だろう? 馬鹿にするな」
総司「でも東北に書き込んでます」
クォーツ「ぐぬぬ」
総司「君、地理だけは本当に苦手ですね」
クォーツ「ぐぬぬ」
総司「僕もヒントあげますからお昼休みが終わるまでには終わらせましょう」
クォーツ「貴様の助けなど借りん!」
総司「あれ、東北を山形県、富山県、山梨県、和歌山県、岡山県、山口県の山陣営で固めようとしてます?」