110.脱獄からの探索
「役所で働いている少年を誘拐しただと!? 何を考えているんだ、シャルロッテ!」
ユグドラシル城から久しぶりに帰ってきたフラット・ハーチェスは、妻から聞かされた話に仰天した。一ヶ月ぶりの家族団欒での食事を楽しもうと思ったが、それどころではなくなってしまった。
前髪を乱雑に掻き毟り、苛立たしげに息を吐くフラット。彼はユグドラシル城では大臣を勤めており、部下や上司から厚い信頼を寄せられている。
そんな人格者の妻と娘が捕獲を禁止されているラインの黄金猫を捕まえていた。それだけでも大きな問題だというのに、更に異世界人を誘拐した。
これが公になってしまったら、今まで築き上げてきた地位も信頼も全て崩れ落ちる。
娘のグレイシアは大の動物好きで、欲しいと言われたらどんな生き物でも買ってやった。フラットは普段は城に籠りきりで、こうして自宅に帰ってくるのは一月に数回程度。グレイシアには満足に父親として愛情を注いでやることも出来ず、ずっとシャルロッテに子守りを任せっきりだった。
だから、せめて娘の願いぐらいは……と、好きな動物を好きなだけ飼わせた。そのツケがこうしてやって来ることになるとは。
頭を抱える父親に、グレイシアはステーキを切り分けながら反論した。
「だって欲しかっただもん。ウトガルド人の男の子、人形みたいで可愛かったよ?」
「馬鹿なことを言うんじゃない!」
危機感がまるでないグレイシアの愚かさに腹を立て、フラットは拳をテーブルに叩き付けた。怒号とダンッという音が広いリビングに響き渡る。
グレイシアは涙目になるも、睨むように父親を見る様子からは反省の色が全く見られない。むしろ自分がどうして怒られているのか理解すらしていないようだった。
「グレイシアの面倒をろくに見てこなかったあなたが、グレイシアを否定するような言葉を浴びせるなんて間違っているわ」
「お前がそれを言うか、シャルロッテ!」
もっと厄介なのはシャルロッテの方だ。まだ幼い我が子をエゴの塊に育て上げたのは彼女である。
結婚する前のシャルロッテはさほど裕福ではない家の娘だったが、外見の美しさに見合った心優しく穏やかで、気品の良い女性だった。そんなシャルロッテに一目惚れしたフラットは、彼女に振り向いてもらいたい一心で何でも言うことは聞いた。欲しいと言われた物はプレゼントした。あの女だけはやめろ、という兄弟からの忠告も無視した。
様々な苦労の末、フラットはようやくシャルロッテを妻として迎え入れることができた。
だが、結婚後シャルロッテは豹変してしまった。私欲の限り、自らが欲するものをハーチェス家の莫大な財産を使って買い占めるようになっていた。いや、変わってしまったのではない。その欲にまみれた本性を可憐で清楚な女性という仮面で隠していただけだった。
『あの件』があったときは流石に目眩すら覚えたものの、フラットのシャルロッテに対する愛の灯火が完全に消えたわけではない。いくつになっても変わらない美貌を持つ彼女を抱くことができるのだと思うと、仄暗い優越感が生まれた。
だが、何故若き日の自分は周りの声にもっと耳を傾けられなかったのかと後悔もしている。あの頃は、身分違いの婚礼などみっともないと反対しているとばかり思っていた。
実際は彼らは既にシャルロッテの本当の顔を知っていたのである。何の疑いもせず、フラットは甘美で恐ろしい罠に嵌まっていたのだ。
「大丈夫よ、連れ去る時は周辺に人がいないことを確認させたから。あなたが余計なことさえ言わなければ、誰にもバレやしないわ」
「……黄金猫とケット・シーはともかく、問題は少年だ。解放してあげなさい。彼は私たちと同じ人間だぞ」
「人間だからこそ逃がすわけにはいかないわ。あの坊やが私たちのことを言ったら、ハーチェス家は終わりだわ。あなたも大臣の座を降りなければならない。それでもいいなら、今すぐ地下牢に行ってきなさい」
妖艶に微笑む妻にフラットは何の反論も出来ない。名家の出身とは言え、ハーチェス家がやっていたことが全て露見すれば残るのは破滅だけだ。
自らが自らであるためにフラットが下した決断。それは沈黙と隠蔽という後ろめたくも卑しいものだった。
どの程度経っただろう。無音の地下牢の中、オリーヴは膝を抱えていた。
「アイオライトさん、遅いですね」
彼女が来てくれると信じているのか、仔猫の目の前で五本の指をバラバラに動かしながら呟く。仔猫は指を何とか捕まえようと忙しなく動いていた。
「どうにかしてボクたちがハーチェス家に気付いたとしても、彼女が屋敷に入れるかは別だ。あの時、ボクが我が儘を言わずに仔猫と役所に行っていれば、こんなことには……」
「囚人になった気分ですね。これでしましま模様の服を着ていれば完璧だったのに……」
悔やむオリーヴに構わず、総司が鉄格子を両手で掴む。その姿は解放を乞う哀れな少年にしか見えない。
「僕の世界の漫画とかアニメでよくこういうシーンがあるんですよ。助けてくれー、開けてくれーって叫びながら渾身の力を込めて鉄格子を抉じ開けようとし」
ぐにゃりと総司が掴んでいた部分がほんの少し、横に曲がった。
「あっ」
「あっ」
「にゃっ」
二人と一匹が叫んだ。
「………………」
総司がそのまま鉄格子を持つ手に力を込めたようで、格子は飴細工のように変形していく。
やがて、約二分後、猫一匹が通れるほどの隙間しかなかった鉄格子の中央には、大きな穴が広がっていた。すべて総司が素手で拵えた脱出経路である。
「…………………」
「…………………」
「……とりあえず脱獄しますか?」
「……そうだね」
牢から出てみると、見張りは特にいない様子だった。仔猫をオリーヴの掌に乗せ、なるべく足音を立てないように進んでいく。
道なりに進んでいくと、昇り階段が見付かった。恐らく地上へと上がるためのものだろう。その先には扉がある。
「……よほど、自信があったのかな。あの牢からは逃げ出せないと」
鍵がかかっていたら、と危惧していた扉はあっさりと開いてしまった。
「地下から抜け出せたみたいですね」
「……いや、違うな」
「え、だって」
扉の向こう側は赤い絨毯が敷かれた廊下に繋がっていた。光魔法で作った光球が天井にはめ込まれ、周辺を明るく照らしている。
だが、ここはまだ一階ではないようだった。オリーヴは鼻をひくひくと動かした。
「風の匂いが地上とは違うし、人の気配も一切ない……それに……」
「それに、何ですか?」
「魔物か単なる動物かは分からないが、獣の匂いも若干漂っている。しかも、複数だ」
オリーヴの中にある恐ろしい憶測が生まれる。今、自分たちがすべきなのは脱出。
しかし、どうしても確かめなければならないことがある。オリーヴは光球を物珍しそうに見上げる総司に頭を下げた。
「ソウジ君、頼みがあるんだ。君をここまで巻き込んでおいたボクに、こんなことを言う資格がないのは承知している。だが、話だけでも聞いてもらいたい」
オリーヴの懇願に闇夜を閉じ込めたような瞳が向けられる。
「ここにはまだボクたち以外にもボクたちと同じように、ハーチェス家に捕まった魔物がいるかもしれないんだ」
「なんと」
「もちろん、あくまでも憶測の範囲内だ。また危険な目に遇う可能性も高い。それでも、ボクはこの地下をもう少し調べてみたいんだ」
単なる杞憂で終わるかもしれない。それでも、このまま帰るにはいかなかった。
鞭で叩かれそうになった時、自分を庇ってくれた彼ならば力になってくれるかもしれない。その思いから頭を下げるオリーヴに、総司が口を開く。
「僕は構いませんよ」
「そうか……ありがとう」
「その子のお母さんや兄弟も捕まっているとしたら助けてあげたいですから」
総司はそう言って、オリーヴの掌で丸くなっている仔猫を見下ろした。
オリーヴもそれについて考えていた。あのグレイシアという少女の言葉が気になるのだ。
——黄金猫って皆人間が好きじゃないの?
他にも黄金猫を知っているような口ぶりだった。探す価値は十分あると見ている。
「よし……じゃあ、よろしく頼むよソウジ君」
「はい、探索頑張りましょう」
差し出されたオリーヴの手を、総司が握る。
先ほど、鉄格子を曲げた怪力の持ち主とは思えない細い手だった。