104.ケット・シー
透き通るような優しい色合いの青が太陽の熱に燃やされて赤く染まり、その後は少しずつ黒く染まっていた。そうやって夕方に近付いていく空を、広場のベンチに座って眺めていた小さな少女。前触れなく彼女に差し出されたのは、猫の顔をした赤い風船だった。
花が開いたような笑顔を浮かべた少女の視線の先にいたのは、肩の上で切り揃えられた黒髪が特徴的な十歳ほどの少年だった。少し灰色がかったタキシードに身を包んだ姿は、少し滑稽で、けれども愛らしい。右は緑、左は赤のオッドアイに喜ぶ少女を映して少年――オリーヴは穏やかに笑ってみせた。
「受け取ってくれるかな、可憐なお嬢様?」
「ありがとう!」
「どうしたしまして。もし、興味があればボクたちのお祭りに来てね」
子供の笑顔はまるで花が満開に咲き誇るようなものだ、とオリーヴは手を振って少女に別れを告げながら思った。街には同じように風船を持っている人々がいる。子供だけではなく、大の大人まで。街の住民に風船を配っているのは少年だけではない。猫耳を模したフードを被った女性や、猫耳のカチューシャを装着した男性など、さらには本物の耳と尻尾を生やした猫の獣人もいる。全員が猫を思わせる出で立ちをした集団。普段なら奇異な目で見られるであろう彼らも、今夜は別だ。
集団の正体は『猫の舞踏会』という猫をこよなく愛し、猫の保護も行っている団体である。役所に設置されている妖精・精霊保護研究課の猫バージョンといったところか。
そして、今夜開かれる猫の展覧、販売会の主催団体でもあった。
「ふーせんちょうだい!」
「わたしもー!」
小さな子供たちがたくさんの風船を持つオリーヴへと群がる。大人の男性は猫耳フードの女性や猫の獣人の女性に惹かれるようだが、やはり子供には、同じ子供が一番接しやすい。これでは風船もすぐに配り終えてしまうな、と嬉しさを滲ませつつ、オリーヴは一人一人に優しい言葉と共に風船を渡す。
「ギャアアアアアア」
と、女性たちの雄々しい絶叫が聞こえたので見れば、白い全身タイツ姿の小太りの中年が四つん這いになって彼女らを追いかけていた。頭と尻にはちゃんと猫のシンボルが付いている。その走り方はどちらかと言えば猫ではなく、頭文字にゴが付く黒光りするあの虫に近く女性たちを恐怖のどん底に叩き落としている。端から見ている子供には面白いと好評だが、当の本人たちはそれどころではない。どこまでも迫ってくる白い悪魔に嫌悪の声を上げるばかりだ。
「イヤアアアアア来んなキモい!!」
「ウぜエエエエエエ!!」
「こっち来たら金玉潰すからな! いいか、絶対だからな!!」
麗しい容姿とは裏腹に過激な発言で威嚇を繰り返す女性陣に心をズタボロにされたかと思いきや、中年は満ち足りたように穏やかに微笑んでいた。異性による言葉のナイフに突き刺される快感を見出だしているようである。
変態による狂乱が終わる気配はなく、猫の舞踏会にも止めようとする動きはない。理由は明白で中年はこのイベントに乱入した愉快犯などではなく、れっきとした猫の舞踏会のメンバーだからだ。しかも、単なる女性への嫌がらせとしか思えないあの疾走にもきちんとした意味がある。
(でも、あれはちょっと)
面白がっている子供もいるが、小太りの変態を女性が力強く罵るという一歩間違えたら年齢制限のかかる光景に絶句する子供も存在する。現に子供が一人、オリーヴの後ろに隠れて固まっていた。
恐らく追いかける『側』のあの猫の見た目と性癖がよろしくない。頃合いを見計らって止めなければ、何も知らない者が見たら誤解は避けられないだろう。
ハラハラしながら地獄絵図を見守っていると、後ろにいた子供が明るい声を発して離れていった。親でも来たのかな、と視線で追ってみると子供は二人組の少年と少女へ走っていった。少年は十代後半の漆黒の髪と瞳を持った異世界人のようで、どこかぼんやりとした表情を浮かべている。青い髪の少女の方は少年に比べると背丈も大分小さく、駆け寄っていく子供とそう変わらない。
ぎこちない笑みを浮かべつつ、少年の手を握り締める幼くも愛らしい姿にオリーヴは僅かに目を見開く。彼らに強い既視感を覚えたのである。
どこで見た? 記憶の糸を手繰り寄せていると、子供が半泣きで少年の足にしがみついた。
「ソウジお兄ちゃん! あそこにいる変な人やっつけて!」
変態退治の要請だった。思い出すよりも先にやることがあると、オリーヴは駆け出した。
少年は興奮と運動のせいで荒い呼吸を繰り返す白い中年を一瞥して、涙ぐむ子供に告げた。
「可愛い猫さんじゃないですか」
視力に異常があるとしか思えない狂気めいた言葉に、雷に撃たれたような衝撃を受けたオリーヴは勢いよく転倒した。見事な転びっぷりに仲間が心配して悲鳴を上げた。
オリーヴが持っていた風船が一斉に夜空へと放たれようとする。それらは寸前のところで青い光を帯びた結界の中に閉じ込められ、その場に留まった。
ウルドの住民だけではなく、猫の舞踏会のメンバーも感嘆の声を上げる。オリーヴは強打した鼻を擦りながら起き上がると、青髪の少女が美しく輝く剣を手にしていることに気付いた。
あらゆる邪気を祓うかのような神聖さすら漂わせる光を纏った刃。小さな体には不釣り合いなその剣を軽々と持ち上げ、少女は安堵のため息をついた。
「ふう、ギリギリセーフってところだな」
「さすが、アイオライトさん」
「て、照れるから褒めんなって!」
少年に漢書の欠いた声で褒められ、気恥ずかしそうに頬をほんのりと色付かせる少女。少年から発せられた少女の名前『アイオライト』にオリーヴは聞き覚えがあった。まさか、と逸る心を抑えつつ、口を開く。
「アイオライト様、あなたはもしや聖剣の……」
「へっ? お前……どうしてアタシのこと知ってんだ?」
「ボクはこういう者でね」
アイオライトは突然子供にそんなことを聞かれて戸惑った。アイオライトが勇者と共に数々の死闘を潜り抜けてきた聖剣を務めていた劔族と知る者はそう多くない。
困惑を隠せないまま頷いてみれば、オリーヴは恭しく頭を下げた。瞬間、その体が発光した。光は数秒ほどで消えたが、そこにいたはずのタキシードを着た姿も消えていた。
代わりにそこにいたのは夜空のように深い漆黒のタキシードを纏い、同色のシルクハットを脇に抱えた、二本足で立つ灰色の猫だった。
「初めまして、聖剣殿。ボクはケット・シーのオリーヴと申します。あなたにお会い出来る日が来るとは思いもしなかった」
「あ、ありがと……」
随分長生きしてきたが、ケット・シーを目にするのは今夜が初めてだ。こっちもお会い出来る日が来るとは思っていなかった。なんて考えながら、アイオライトはくすぐったい気持ちになった。以前は聖剣として褒め称えられると、勇者であったアイカへの罪悪感によって複雑な心境になったし枷として心に重くのしかかった。
しかし、以前と比べるとそれらは強く感じることがなくなった。ミーミル村での一件が過ぎた頃からだろうか。自分を国の道具としてしか考えていないようなユグドラシル城の人間たちにうわべだけの褒め言葉をもらったら腹が立つのは今でも同じだが。
オリーヴからは彼らのような邪な感情は感じられない。本心からアイオライトを讃えている。
「しかし、聖剣殿が猫好きとは聞いていなかった。これほど可愛らしい姿をしていることも」
「アタシもケット・シーが人間に化けてると思わなかったよ……」
「元の姿でいると奇異の目に晒されやすい。人間の格好でいる方が都合がいいことも多いのでね」
こんな風に、オリーヴは微笑を浮かべて自分を凝視している総司を見上げた。表情に変化は見られないものの、珍しがっているのは分かった。
「ボクにしてみれば、その若さで異世界からやって来た人間の方が何倍も珍しいと思うのだが、どうだろう」
「僕的には喋るし二本足で立っている猫の方が珍しいと思うんですけど……というより、どうして僕がウトガルドから来たって知ってるんですか?」
「四千年ほど生きていれば分かることも君たちより幾分多くなるものなんだよ」
「おお……」
素直に感心する総司にくすくすと笑い、オリーヴはアイオライトに向き直った。
「彼はあなたの部下で?」
「うーん、遠からず近からずって言ったところかな……」
「失敬、言いづらい関係だったかな」
「ば、馬鹿!」
オリーヴのからかいにアイオライトが怒号混じりの反論を行う。
二人のやりとりを見ていた総司が「僕たち、役所で働いてるんです」と口を挟むと、オリーヴは役所のある方向を見た。
「聖剣殿と異世界人が働く役所か。奇妙で面白い場所だ」
「ありがとうございます」
「おい、ソウジ。どうしてそこで礼を言うんだよ」
「一応は褒め言葉のつもりだったので構わないよ。……ところで、ソウジ君」
オリーヴのオッドアイが総司をじっと見上げる。先ほどとは逆転した立場に、総司がオリーヴの頭を優しい手つきで撫でながら尋ねた。
「僕に何か……」
「いやね、大したことではないんだ。本当に些細なことだ」
「はい?」
「君とボクは以前どこかで会わなかったかい?」
聖剣と異世界人という不思議で因縁深いものを感じさせる二人組を目にした途端、湧きあがった既視感。それは総司に対してのものだった。