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16年前
「……なんという事だ…………」
とある町の中央部にある、とある施設の前で白衣を着た男がまるでどうしようもない絶望に直面したような顔でため息をついていた。
男の居る場所は清潔そうな雰囲気であり、男の格好と組み合わせれば誰であってもその場が何であるか理解できるだろう。
そう、男の立っている場所は病院の一室----より詳しく言うなら産科の待合室だった。
さらに耳を澄ませてみれば状況が詳しくが分かるだろう----産まれたばかりの赤子の声が響いている為に。
「……なんという事だ」
赤子の泣き声は新たな生命の誕生を意味しているというのにそれを背景とした男の顔はまったく優れず、ひたすらこの世の苦しみを一手に受けているかの如き表情を浮かべるのみだった。
「どうした物か……なあ、どうすればいいと思う」
「少なくとも……我々はこの子を護らないと。『あの人』も、それを望んでいる筈です」
「本当にそうなのか……? いや、我々はこれから、生きていけるのか……?」
そう言って、男の背後に居た白衣の女は腕に抱いた赤子を見つめる。
捉え方によっては、母性愛を感じさせる光景。だが、それが真に子を抱くべき者ではない事が男の心にどうしようもない絶望を植え付ける。
どうすべきか、どう説明するのか、そんな事が男の頭を駆け巡っていたその時、男の耳に一つの足音が響いてきた。
音だけで焦っている事が分かる音がどんどんと近づいて来る事を理解した男は、背後の女が抱いている赤子を見て、諦めたように居住まいを正す。
「……とりあえず、事実を報告しよう」
「話は聞いたぞ! 妻は無事か!? 子供は無事か!? いやそもそも産まれたのか!?」
白衣の男が呟いた瞬間、部屋の扉が蹴破られるような勢いで開いたかと思うと、一人の男がそこから飛び出してきた。
精悍な顔立ちだが、何故か粗野な印象を与えるその男は、手に持っていた何かを床に叩きつけると返事を待たずに修羅のような表情で白衣の男を締め上げる。
「で、どうなんだ! 吐け!」
「が、ゲ、ググ……そ、れは……」
「あの……アナタのお子さんなら、ここに。その、女の子、です」
苦しむ白衣の男、医者を哀れんだのか、それとも自身へ危険が行かないようにと考えたのか、女が腕の中の赤子を男に差し出した。
すると、男は今まで浮かべていた表情を一変させて医者の首から手を離す。
「……そうか、この子が、私の……そう、なのか……」
まるで生け贄に出されるように渡された赤子を、しかし男は愛情の籠もった視線で見つめている。
それを見た白衣の男女は、気まずい雰囲気で顔を見合わせた。男の喜びが分かるからこそ、これから話す内容は余計に重い。
「ははっ……いいな、嬉しいぞ……妻にプロポーズした時と同じくらいに、嬉しいぞ……」
歓喜の表情で、男は赤子を抱き続ける。
「見ろ、この目元……きっと母親似だ、良かった。私には似ていない。きっと美人に育つぞ、穏やかで、心の強い優しい子に育つ筈だ……」
赤子の顔を見つめつつ、男は独り言を呟き続ける。そこには、危険な色を一つも感じられない、ただ穏やかな物だけが感じられた。
「……あぁ、しかしそうだな……」
しかし、しばらくすると、目に見えて名残惜しそうにしながらも白衣の女に自身の『娘』を預けた。
「……? もう、いいのですか? もう少し抱いていても……」
「いや、いいんだ。この子を寝かせておいてくれ、その方が良い筈だ……」
それを聞いた女は少しの間だけ医者と目配せをして、明らかに安堵の息を吐いて部屋を後にしていった。まるで、隠し事を他人に押しつけるかのように。
「……で、だ。妻は、どうなった? ああ、お前等の態度を見ていれば『ヤバイ』のは理解できる、理解できるんだ……どんなに認められなくても、な」
女が部屋を去ったその瞬間、赤子の親である男は医者を締め上げるかのように問いつめる。
だが、医者は言葉に詰まった。男の眼光は危険な物すら感じられる。が、それを言えば自身がどうなってしまうかは明らかだった。
「……」
「……なあ、黙り込むなよ。なあ? 明るい顔を、しろよ……折角、俺の子供が産まれたんだぞ? 笑うなり、祝うなりあるだろうが……」
しかし、黙り込む医者の雰囲気で察したのだろう、男の顔色はどんどん悪くなっていき、徐々に懐に手が伸び始める。
目の前の男は紛れもない悪人であり、マフィアのドンであり----同時に、妻を深く愛している事を医者は知っている。もし急な出産で無ければ、男は何日でも寝ずに妻の側に居たであろう程に。
男が何をするつもりなのか、理解した医者は腹をくくって話す事を決めた。
「私達は、全力を尽くした……いや、言い訳だな。これは」
「……」
「彼女の遺言は『あの人に伝えて、この子をお願い、って』だったよ」
そこまで言った瞬間、銃声と共に医者の耳に穴が開いた。
「……それが事実だ。ごまかしようのない、事実だよ」
いつの間にか、懐から銃を抜いていた男が発砲した事を理解して、医者は耳から流れる血を抑えながらも痛みに耐えて男の顔を見た。
「つまり、あいつは……逝ってしまったのか?」
銃を持った男の顔には、怒りがなかった。ただ、くしゃりと顔を歪ませ、今にも崩れ落ちそうな、大切な物を無くした男の悲しい顔だけがそこにはあった。
医者はその時、長年の知人である男に医者として産まれて初めて嘘を言いたくなった。『お前の妻は死んでいない』と、『母子共に元気だから安心しろ』と、しかし、それは出来ない、出来ないのだ。
医者は、何も言わずに少し離れた場所にあるベット、先程新しい命が産まれ、それまであった命が消えたベットのシーツを取った。
「……なんという、事だ」
シーツに隠されていた物を見た男は、先程医者が言った事と同じ、だが意味合いは違う言葉を呟いて、今度こそ崩れ落ちた。
ベットに寝かされていた人間は、美しかった。腰まで届く輝く赤毛に、見とれるような白い肌、儚さを思わせる美しい容姿をしたそれは、しかし物だった。
何故なら、その体からは人として必要な物が----生命が、感じられなかったのだ。
「クッ……おいッ!」
一瞬、医者は自分に声がかけられたのかと男の顔を見た。
しかし、それは間違いだ。男は命を感じられない妻の首を掴んで、思い切り持ち上げた。それでも何ら反応を返さない妻に、業を煮やしたように男は叫ぶ。
「ああ、そうだろうなっ……そうだろうよ! お前、元々体弱いんだろうがッ……! 俺との、子供が産みたい何ざ……! お前が死んでりゃ意味無い、だろう!」
「やめるんだ! 死者を傷つけるような事はするな!」
「ほっといてくれ! 俺は、俺は……こいつを!」
「止めろ! 止めるんだハーベイ! ハーベイ・ライアン!」
妻の遺体の首を絞め続ける男----ハーベイを医者は覚悟を決めた様子で一喝した。
すると、ハーベイは冷水を頭からかけられたような表情で妻の首から手を離し、そのまま抱き抱えてベットに戻す。まるで、眠れない者を寝かせるかのように。
「なあ、ハーベイ。お前はライアン・ファミリーのドンだ。お前が取り乱したら、全員が取り乱しちまう」
目の前の男が落ち着いた事を確認した医者は、諭すようにハーベイに声をかける。
「……ああ、そうだな。そうだった、すまなかったよ」
ハーベイは、異常に落ち着いた様子で医者の声に答えた。妻の首に手をかけていた時とはまるで違うその態度に、医者は僅かな違和感を覚えた。
だが、落ち着いた事は確からしく、ハーベイは妻の遺体を悲しそうに一瞥すると、医者の方を見て、覚悟を決めた表情を浮かべる。
「とりあえず、あいつの遺言は『娘をお願い』だったな?」
「あ、ああ。そうだ」
「だったら、俺は娘を何が何でも生かしてやらないといけない、協力して、くれるか?」
ハーベイの提案を断るような気持ちは、医者には一切無かった。元々ほとんど無かったのもあるが、微かにあった気持ちも彼の手にある銃によって消し去られていた。
医者が静かに頷いた事を確認したハーベイは、自嘲の笑みを浮かべながら片手を医者に渡し、無理矢理に握手をした。
互いに、握手をしながら考えていた。
「娘は、彼女の二の舞にはするまい」と。
そうしている時、ハーベイは油断していた。これ以上、何かが起きる事は無いだろう、と。
同じく、医者は油断していた。これ以上、ハーベイに不幸がのし掛かる事は無いだろう、と。
だが、甘かった。全ては今からだというのに、二人は何も気づけなかった。
「二人共! 大変です! あの子が、あの子が!」
だから、先程産まれたハーベイの娘を寝かせに行った女が部屋に飛び込んで来た時、二人は体を硬直させて握手し続けてしまう。
「何があったぁ!」
先に正気に戻ったのは、医者だった。
その言葉に一瞬怯んだ女は、しかし発言する事だけは止めなかった。
「それが-----」
その話はあまりにも悲惨で、妻を亡くした男には重すぎる内容だった。あまりにも酷すぎるそれに医者は唖然として-----妻を亡くした男は、禁忌を犯す覚悟を決めた。
それこそが、ここから16年後で起きた事件の始まりなのである。
後から読むと、プロローグは基本的に割りとまともな文章になる不思議