【第4幕】島津蠢動す!
小会議室に突如流れたYOU ARE MY SUNSHINEは【猪武者】福島課長の着メロだった。福島課長は慌てて電話を取り、椅子を蹴倒して部屋の奥にと小走りで向かい、大きな背中を丸めて弁解めかしい様子で電話に応対した。
あたかも得意先に接するがごとく、声のトーンも一段上がった様子で、繰り返し「はいッ、はいッ」と頷く福島課長を見て、会議室の一同は業務に関連する連絡かと想像したが、若き事情通、小早川ケンタだけはその真実を知っていた。
電話の主は、他ならぬ福島の若い妻であった。以前、小早川ケンタは、福島課長のご相伴にあずかった宴席の二次会で、けたたましく、そして繰り返しYOU ARE MY SUNSHINEが福島課長の携帯電話を鳴らしたのを聞いた。その穏やかな曲調ながら、ほとんど脅迫のような頻度で響くサウンドが、妻からの今すぐ帰れコールであることを小早川は福島課長当人の口から聞いたのだ。
「たかだか午後10時に帰宅していないだけでこの激しさときたら、陽気な日差しどころか、まるで灼熱の太陽ではないか」と若い小早川は思ったが、彼は夫婦関係というものが個別的なものであり、各々の家庭のローカル・ルールによって営まれるということを充分には了解していなかった。
福島課長がホワイトデーのお返しを職場全体として一括で行うことに執着するのは、妻の顔色を伺うという側面もあるのではないかと小早川は思った。若い女子社員に、職場の皆でホワイトデーのお返ししたのだと言ったほうが、妻の妬心を抑えることが出来るのではないか。
小早川ケンタがあれこれ考えていると、会話を終えた福島課長が振り返り、不似合いに可愛らしいストラップの付いた携帯電話を握り締めながら、会議室の一同を睨みつけて、こう叫んだ。
「もぉう!早く決めようよ!!」
その【猪武者】には似つかわしくない金切り声は、ほとんど哀訴の色を帯びていた。この必死の一言によって、一括、分割の両派及び本田次長も含めて、「部長の判断によりお返しの手法を決する」ということで意見がまとまった。
「それでは、」と石田係長が携帯電話を手にし、松平部長に連絡を取ろうとした時、「待たれい!」と本田次長が一喝した。
本田次長は、携帯電話なぞを使って部長とトークするとはもってのほか、非礼、不敬であるとした上で、こう提案した。
「事が事である。これは松平部長に直接お会いした上で、会議の経過を報告し、裁可を仰がねばならん。」
本田次長が最後まで執着したのは、ホワイトデーのお返しを巡って企画室内が混乱し、果ては派閥に分かれて争いかねない状況を、松平部長によって決定的なものにしてしまうことだった。もし、この場で松平部長に電話をすれば、部長は一括、分割のいずれかを即断することになるだろう。そうなると、一方の派閥が錦の御旗を手にして企画室は完全に分裂、すなわち長年くすぶってきた課長vs係長の構図が露なものとなってしまうのだ。
たかだかホワイトデーのお返しではないかと言うこと無かれ。女子に関わる職場の人間関係は微妙であり、そこには上下関係を超えた、いわば雄と雄の世界が存在する。これは、スマートを旨とする企画室においても例外ではないのだ。
職場の実質上の支配者、本田次長は常に企画室内のパワーバランスに細心の注意を払ってきたが、彼には企画室内にくすぶる火種が、いよいよ発火点に近づいているように思えてならいのであった。
因みに、この本田次長の憂慮はこの後に現実のものとなる。キュートな派遣女子社員を
巡って「歓迎会・二次会事変」がぼっ発し、世にいう「GW・テニス合宿五月騒動」へと事態は展開して、企画室内に血の雨が降ることになったのは、このホワイトデーの一件の1ヵ月後のことなのである。
その話はさておき、本田次長はどのような手を使っても、職場の分裂と部長の引責を避けねばならなかったのだが、彼は心にある策を秘めていた。
時計の針は午後十時を指そうとしている。話し合いが始まってから概ね四時間が経過し、ようやく部長に会ってお返しの方法の判断を仰ぐ使者の選任に至った。
「さて、誰が部長に伺うのか、、、」と加藤課長代理が切り出したが、答えは既に出ていた。
この状況において松平部長に報告と決裁を仰ぐのは、中立の立場の者がふさわしい。というのが、一方の派閥の者が使者となれば、自派に都合のいい報告を行い、松平部長を自分達にとって都合のいい結論に導くことが考えられるからだ。組織の長が下す結論は、報告者によって既に決している場合がままある。
だからと言って、二派から一人づつ人を出すというのも、険悪になった雰囲気からは中々難しい。そうなると中立の立場にある三人、すなわち前田課長と新人の小早川ケンタ、そして後から会議に加わった本田次長の中から使者を選ぶことになるのだが、子どものように拗ねてしまい、手遊びばかりしている前田課長にこの大事を頼むことできない。
また、重要な役割とは言え本田次長に使い走りをさせるわけにもいかなかないので、必然的に小早川ケンタにそのお鉢が回ってきた。
「では、小早川殿、おぬしが部長の所に行ってくれるな。」
と、上杉係長が怒ったように言った。この御仁は基本的に気が短い。
「はい。あ、でも僕、部長が今どこにおられるか分からないンですよぉ。」
たしかに新人、小早川ケンタが部長のアフター5の行動を知る由もない。
「きっと飲みに行ってるか、」
福島課長の携帯は未だブルブルと奮えている。
「自宅に連絡するわけにもいきませんしなあ!」
と、石田係長はニヤニヤしながら大きな声で福島課長の発言を遮った。
以前、就業時間後に石田係長が前田課長の自宅に連絡をして、前田課長の偽りが奥方にバレかけた一件を語り、前田課長に暗に圧をかけたのである。
その時、前田課長の手遊びは一瞬止んだが、しばらくしてまた始まった。石田発言に反応したというよりは、指のささくれを引っ張って痛かったのだろう。証拠に前田課長は無心に右の薬指をなめている。
話はやや逸れるが、職場から自宅に所在を聞くのはタブーであり、また自宅から職場に連絡があっても、居場所をあいまいにするのが男子社員の暗黙のルールとなっている。以前、自宅からいつ電話を受けても「イベントのスタッフ弁当を買い出しに行っておりまする。」と返事して、「うちの主人は50にもなって、いつも弁当の買出し担当ですか!」と、ある次長の奥方に職員が怒鳴られたということがあった。爾来その次長は、【弁当次長殿】と、あだ名された。
「島津殿だ、島津殿は部長と古い。島津殿なら部長の居場所を知っているかも知れない。」
手遊びを止めた企画室最古参の前田課長が提案した。
小早川ケンタは、夜勤の警備員に元企画室の職員だった島津という人物がいることを知っていたが、会ったこと面識はなかった。ただ、どうして企画室にいた人間が委託の警備会社の勤めているのか、以前から少し興味を思っていた。
「薩摩守(島津のこと)なら宿直にいるだろう。」
本田次長も島津氏に松平部長の居場所を聞くことを同意したようだ。
次回に続く