【第3幕】交渉決裂
ホワイトデーお返し調整会議【小説】第3幕 交渉決裂
本田次長がこの混乱、すなわち「ホワイトデーお返し調整会議」の一括お返し派と分割お返し派の分裂をまとめるべく、会議に合流して既に、一時間が経過した。地元の酒屋から寄贈された古臭い時計の針は、午後九時三十分を指そうとしている。
理論派で知られる本田次長の精緻を極める調整は、皆の予想どおりかえって紛糾に拍車をかける結果となった。完全に二分された議論をまとめるために本田次長に求められたものは、四の五の言わせない命令調の断定であった。
が、理論派はホワイトデーのそのものの意味合いから説き始め、一括対応が妥当なのか、分割対応も可なのかを演繹的に証明しようとした。しかし如何に合理的な本田ロジックであっても、要するに贈り物の受けての側、つまりおトヨの気持ちは憶測でしか想定できない弱みを持っていた。このような場合には、何が正しいお返し手法なのかを論じても詮の無い話なのである。
再び会議室が静まりかえる中、会議をさらに混乱させ、完全に暗礁に乗せあげてしまった本田次長に配慮して、その場の緊張をほぐそうと試みたのか、ウンチク好きの小早川ケンタはバレンタインデーの逸話、すなわち殉教者・聖バレンタインの悲話を語りはじめた。
「あの、、、バレンタインデーってもともとはローマ皇帝が、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したんですが、キリスト教の司祭だった聖バレンタインは秘密に兵士を結婚させたそうです。」
「そして聖バレンタイン捕らえられ、処刑されたそうです。その処刑の日が2月14日だったということで、この日が祭日となり、恋人たちの日となったということらしいです。」
「つまり、バレンタインデーは、愛のために殉死した【愛戦士】、バレンタイン司教の勇気と誠意を称える日なんです。」
【愛戦士】とは、映画版の機動戦士ガンダムの第二部【哀戦士】をもじったものだろうが、そんなことは大の大人達にとっては、どうでもよいことであった。ともかくテキトーにホワイトデーを済ませたい加藤代理は、後輩の長口舌をにがりきった様子で眺めていたが、豆知識好きという意外な一面を持つ過激派石田も、あきらかに不快げな顔をしていた。
石田は、小早川の話が、まるっきりインターネット辞典、ウィキペディアの受け売りであることに腹を立てていたのだ。石田にしてみれば、小早川の知識の薄さも不愉快だが、後輩ぶぜいがほざく程度のホワイトデーに関する知識で満足していた自分が恥ずかしく感じられたのだ。バレンタインデーのしばらく前、石田もウィキペディアにアクセスして、ウンチクの披露の機会を待っていたのである。
しかしこのケンタの小噺を最も憎らしく思っていたのは、赤面の中年、前田課長であろう。本田次長の調整と小早川発言で、ゆうに一時間半は費やされ、彼が一ヶ月間温めて来たスペシャルなお返しの買出しには、もう間に合わなくなってしまったのである。彼は仕事同様、すっかり捨て鉢になってしまっていた。
ともあれ、結果として小早川ケンタが話した愛に命を捧げた偉人の挿話、すなわち聖バレンタインのケッコウな【誠意】のお話が、この場においてはホワイトデーのお返しというものを、けっして軽軽しく扱うことは許されない重みを持つものにしてしまった。
小早川ケンタが場を和ませるために聖バレンタインの話をしたのであればそれは大失敗であったし、また単なる気まぐれであれば、図らずも会議の終着点を抜き差しならないものにしてしまったのである。
是か非か。ホワイトデーお返し調整会議は、一括か分割かの白黒をハッキリつける以外の結論は無くなってしまったのである。古今東西、歴史とは案外と気まぐれによって決するのである。
「もはや議論は尽きたように思い申す。この際、松平部長に一括、分割の裁決をいただこうではござらんか」
と、義の人、上杉係長が提案した。会議が完全に麻痺した以上、お上に裁可を仰ぐべしというのは、組織、上下関係を重んじる上杉係長らしい提案であったが、同時にそれは妥当な提案でもあった。
「うむ、それがよい、そうしよう、そうしようゼ!」既に捨て鉢になっている前田課長と、もう、どうしようもなく面倒くさくて、さっきからグッタリしてる加藤代理が救われたように同意した。一括お返し派の巨魁、福島課長は一瞬、「対立者からの提案なぞ受けぬわ!」と言いたげな表情をみせたが、完全に煮詰まった状況から脱するには上杉提案を拒むことは出来なかった。が、これに反発したのが、本田次長であった。
本田次長としては、松平部長に裁可を仰ぐことだけは是非とも避けたかった。松平部長にゲタを預けることは、自分の調整能力を疑われるばかりか、結果として松平部長に、一括、分割いずれかの派閥の味方をさせることになる。一括、分割の対立はホワイトデーのお返しにとどまらず、課長級と係長級の対立が背景にある。これに部長を巻き込みたくなかったのだ。
部長は君臨すれど統治せず、これが企画室の伝統なのであり、この特異な支配形態が部長という組織のシンボルを傷をつけずに済む知恵であることを企画室の最古参、本田次長は知り尽くしていた。
「部長に聞くのはマズかろう」
努めて冷静に本田次長は言った。
「ホワイトデーのお返し云々について、部長にご相談するのも如何なものかな。第一部長が、、、」
「いや、部長もチョコもらってたんで、お返しに参加したいんじゃないですかねえ。」
本田次長の言葉をさえぎったのは、小早川ケンタである。若さとは、恐れを知らないものである。たとえインフォーマルなものとはいえ、ホワイトデーお返し調整会議は、企画室内の大事を決する会議である。その中で本田次長の発言に反論したのだから、会議室の一同は驚いた。
「さっきはフォローしようとしたかと思えば、今度は反論を、、、コイツ俺の敵か味方か?」
新人にあっさりと反旗を翻された組織のNO2、本田次長は心の中で舌打ちをしたが、部下の管理職の手前、新人の発言には寛容に振舞わざる得なかった。
「なるほど、、、ケンちゃんのも一理あるね。」
小早川ケンタを「ケンちゃん」と呼ぶのは職場ではおトヨのみである。時々前田課長が宴席で「おい、ケンチャナヨ」※1と小早川ケンタに呼びかけることがあるが、これはハングルをちょっと知っているゾと韓流好きの女子にアピールするためである。決して小早川への親しさからではない。
※1 韓国語で「気にすんな」の意
それはさておき、その後、本田次長は完全に黙りこんだ。それは新人に言い返されたことが、バツが悪かったという以上に、今後、この新人をどのように扱ってやろうかということに関心事が移ったからである。執拗な男は常に思考を止めないのである。
いずれにしても本田次長を除くすべての会議参加者が松平決裁を求めることに同意した。
「では如何にして松平部長と連絡をとり申す?」
と、石田係長が皆に問うた時、突然、古いアメリカンポップス、YOU ARE MY SUNSHINEが小会議室に鳴り響いた。猪武者、福島課長の表情がにわかに変貌した。
次回に続く