【第2幕】抜け駆け一番槍
前田課長は、興奮を抑えるかのようにして一つ咳払いをした。そして、ぎこちない笑いをつくりながらこう言った。
「こういったものはやり、 謝意を伝える誠意が一番。やはりおトヨどのが返礼に何を望むかを知るのが、肝要である。」
先に石田係長が「過分の返礼」と言ったのは、前田課長が今日の昼休みにインターネットでホワイトデーお返しサイトにアクセスして 、「女子にモテるお返しグッズ」を物色していたことを揶揄したものである。
前田発言は、これに対して「相手の気持ちを慮った誠意」という立場で反論をしたもので、前田課長は、お返しをすることを楽しみにしていたわけではないことを間接的に表明したのである。
石田係長は、この発言を無表情なまま聞いていたが、小会議室の一番奥で腕組みをして、さっきから独り虚空を睨んでいた 上杉係長が初めて発言した。
「今、前田課長は誠意と仰られたが、これはまことに重要なことである。もう少し言えば、そう、義と言ってもいいと思い申す。」
「今回の一件は、おトヨどのの義理チョコレートという経済的、時間的負担に対して、我らが義をもって応えるべきではござらぬか。」
上杉係長によって、新たに提起された義という観念に、いよいよ話が混乱してきたぞという空気が流れた。その空気をいち早く察したのはやはりムードメーカーの加藤代理であった。
「ほう、上杉どの、ではそこもとが言う【義】とは、具体的には、どういうことでござるか。」
加藤代理の発言がやや詰問調になったのは、上杉発言の中に、お返しに関して自分が何か費用以外に負担を負わねばならないようなものを感じたからである。彼はともかくホワイトデーが面倒くさいのである。上杉係長は、よどむことなくホワイトデーの義について語った。
「おトヨどのが費やした時間、費用を各自が負うことが、本件における義である。」
上杉係長は自分の発言に陶酔したのか、潔癖症ゆえスラックスのシワが気になったのか、立ち上がってこう続けた。
「すなわち、まとめてお返しするなぞというのは、論外であると存ずる!」
上杉係長言うところの返礼法は、石田係長のそれとは本質的に志を異にするが、お返しを分割実施することについては同じである。
反乱だ。いや、謀反と言ったほうがカッコいいかも知れない、、、。生来の日和見主義者、新人の小早川ケンタはこの状況をすばやく分析した。
ほとんど本能的といってもいいバランス感覚の持ち主である小早川は、会議が二分したこと、つまり一括お返し派の福島課長、加藤代理と分割お返し派の石田係長、上杉係長に分かれたことを誰よりも早く見抜いた。そしてこの対立が、多年企画室でくすぶっていた課長対係長という構図、すなわち保守派と改革派の対立関係も同時に明らかにしたのである。
このような対立構造にあって意思決定を行う場合は、中間派がキャスティングボートを握ることになるが、この点で二人は甚だ頼りがなかった。新人の小早川ケンタにとっては、どのような形式でお返しをしようとも自分が買出し部隊に任じられるのは、明確であるから、一括、分割どちらであってもいい。
さっきから赤面している前田課長としては、石田係長に自分だけ特別なお返しをしたがっていると満座で恥をかかされた上は、石田派に組するのは、いまいましい。でもやっぱり、自分だけは気の利いたお返しをしたい。
50男のジレンマとしてはあまりに小さな話であるが、若手女子社員との宴席を何よりの悦びとしている彼にとっては、今般の義理チョコの受領とホワイトデーの返礼は、次の宴への重要な橋頭堡なのである。
おトヨの同期女子への影響力をも鑑みた上での重要な布石なのである。彼は悩んだ、が、矜持と欲望を満たす妙案など世の中には無いのである。
分割実施が優勢で鼻息の荒い、石田、上杉の両係長。めんどくさい、係長ぶぜいの言いなりになりたくない一括実施派の、福島課長、加藤課長代理。そしてどちらに属するかを渾身で思考する小早川ケンタと、もう泣き出したいくらいの前田課長。会議は完全に紛糾したのである。
と、その時、ガチャリと耳障りな音が響き、小会議室の扉が開いた。
「どうです、話はつきましたか」
午後8時20分。残務整理のために今までこの「ホワイトデーお返し調整会議」を外していた本田次長が現れたのである。
一同皆、マズイと思った。それは、影で他部門の者から、スネークピット、蛇の穴と畏れられる執拗な性格の本田次長が、この会議をさらに混乱させると直感したからだ。