歴史の必然と通貨の循環
哲学者カール・マルクスが、社会的・政治的な必然の定めから、人間社会はその歴史の流れを通し、共産主義に行きつくと主張したのは、有名な話です。この主張には、当然、歴史は予測可能であるという意味も含まれています。
しかし、この主張に対し、数多くの人が反論をしています。例えば、その一つにこんなものが。
『科学技術の発見、発達は未知のものだが、それは人間社会に大きな影響を与えている。ならば、人間社会の歴史が予測可能なものであるはずがない』
まぁ、納得がいくのじゃないかと思います。
しかし、ならもし仮に未来の科学技術の全てを知り得たなら、人間社会の歴史の流れの全ては予測可能だと言えるのでしょうか? 多分言えません。きっと、多くの人がそう答えるのじゃないかと思います。でも、どうしてそうなるのか、と問れるとすんなりとはその理由を答えられないのじゃないでしょうか?
もちろん、これはそんなに簡単な問いかけではありません。こういう難題は、自分一人の浅知恵で何とかしようとするのじゃなく、素直に先人の知恵に頼るべきでしょう。既に正しいと証明された概念を、この“歴史の流れは予測可能か?”という問い掛けに当て嵌めて、考察してみるのです。
僕がここで頼るべきだと思うのはカオス理論。これは、単純な規則に従う法則が、不規則に見える振る舞いを示す現象を論じたものです。
数式なんかをここで書いても煩わしいだけだと思うので端折りますが、とても簡単な式からでも不規則な振る舞いが観察できるのです。ある種の漸化式… 式によって得られた結果を同じ式の次の変数にし結果を求める、といった事を繰り返すと、例え極微量の差異であったとしても、その差異が繰り返しの中で拡大して、その振る舞いに大きな影響を与えてしまうのです。これがカオスと呼ばれるもので、この極微量な差が、結果に大きな影響を与えるという性質は、初期値敏感性と呼ばれています。
そしてこのカオスは自然界の様々な場面で存在していると考えられています。極微量な差異なんて測定の限界から検出は不可能ですから、このカオスが存在する自然現象は、事実上、予測不可能性を持つ事になります。通常では無視して良いと思えるほどの極微かな差で結果が変ってしまうのだから、当たり前でしょう(これにより、100パーセント確実な天気予報は不可能であるとされました)。もちろん、人間社会にだってこの結論は当て嵌められます。だから、人間社会の歴史は予測不可能なんですね。
ただし、だからと言って、カオスが観られる現象の全ての要素が予測不可能という訳ではありません。見方や観点によっては、予測不可能と思われる事象の性質を掴み、何かしらを予見する事は可能で、そこから何かしらを学べもします。例えば、川の形成なんてものを考えてみましょうか。
ある土地に川ができるとしてみます。この川の形がどんなものになるかは、予測不可能です。先に述べたカオスがあるので、もし予測したかったら、天気の微細な情報の全て、土地の微細な情報の全てが必要になるからですね。ですが、そんなものはどう足掻いても手に入れられません。
ところが、その形成に、全く法則性がないという訳でもないのです。どこにどんな風に流れるのかは分からなくても、形成される川に、あるパターンが現れる事は簡単に分かるからです。川は、毛細血管や、枝を大きく広げた樹木に似た形に、形成されるはずでしょう(これは、単に似ているという以上のものなのかもしれない、とも言われています。つまり、隠れた同一の抽象的な生成要因が、これらの背後に隠されている可能性も大いにあるのですね)。因みに、川の規模とその数との間には、「べき乗則」の関係がある事が知られてもいます(すいません、詳細は割愛します)。
これと同じ様に、人間社会の歴史に何らかのパターンを見出す事も、恐らくは可能なのじゃないかと思われます。これはどんな点に着目するかで、“歴史は科学になり得る”という事でもあるでしょう。さて。このように、カオスがあるからと言って、何をも見出せない訳じゃありません。しかも、更に言ってしまうのなら、どんな規模でどんな点に注目するかによっては、カオスがあったしても予測可能領域は存在するのです。いえ、どんなスケールに着目するかで、カオスが現れたり現れなかったりする、という表現の方が正しいのかもしれません。
もう一度、川の例を出してみましょう。いかにカオスが存在していたとしても、全体的な傾向としては、川が高い所から低い所へ流れるのは当たり前に分かります。極小規模な場所に注目をしたら、稀に流れていく方向が高くなっている場所もあるけど、海から山に流れる川なんて存在しません(当たり前ですけど)。つまり、小規模に着目すると川底の高低にはカオスが存在するけど、大規模に着目するとカオスは存在しない事になります。
これとは逆に、予測可能に思える事象でも、スケールを大きくすればカオスの予測不可能性が現れるものもあります。例えば、完璧な規則性を見せると思われている天体の動きだって、一億年規模に膨らませれば、カオスが見出せる事が知られています。予測不可能な動きを見せるようになるのですね。
気温を例にするともう少し分かり易いかもしれません。例えば、一週間規模の気温の変化には予測不可能性があります。季節にもよりますが予測は非常に難しいのです。ところが、もう少し大きな規模で捉えると、予測が可能になります。言うまでもなく、春夏秋冬、四季の流れに沿って気温は変化します(もちろん、これは日本の場合ですが)。秋は夏よりも気温が低くなるし、冬は秋よりも気温が低くなります。しかし、これを年単位規模で観るとまた予測が難しくなります。一年後と二年後でどちらの気温が高くなるかなんて分からないのです。ただし、もう少し規模を大きくすると、地球温暖化で徐々に気温が上がっていくと簡単に予測ができます。しかし、ところが、もっと規模を大きくするとやはり予測不可能性が現れるのです。
もちろん、規模の問題だけじゃなく、時期の問題もあります。寒気暖気が混ざり合う、梅雨の時期は夏や冬に比べて、気温の予測が難しくなります。
さて。では、この考えを人間社会の歴史にも当て嵌めてみましょうか。これらの結論を考えると、人間社会の歴史にだって、ある程度の予測可能性がある、と結論付けられるのじゃないでしょうか。なんだか、難しそうな理屈を色々と語ってきましたが、要はそれを言いたかったのです。もちろん、注目すべき点を誤ってはいけませんが。歴史の必然から、共産主義に行き着く、なんて事は恐らく予測不可能です。もちろんそれは、別に共産主義を完全否定するって意味でもないのですが。
実は、実際に僕はある国の社会の流れを予測し、それは見事に的中しました。そのある国とはアメリカです。まだ、アメリカ経済の一人勝ちと言われていた時から、僕はアメリカ経済の凋落と財政問題の悪化を予測していました。
と、言っても、この流れを予測していた人達は世間にたくさんいるので、それほど自慢できた話でもないのですが。アメリカ経済はバブルだと言われていたので、その崩壊を心配する声は多くあったのです。なにしろ、経済ニュースで頻繁にアメリカの住宅バブルがいつ崩壊するか分からない、というような内容が、何度も流されていましたから(アメリカのバブルが崩壊した時、まるで晴天の霹靂のような伝え方をしているケースがありましたが、実はそれ以前から予測されていた事だったのです)。
ただし、僕がアメリカ経済は長くは好況を維持できないだろう、と考えていた理由はちょっとばかり他の人達とは異なります。一般的には先にも述べた通り、住宅バブルの崩壊が心配されていた訳ですが、僕は所得格差の極端な拡大から、どんな形であるにせよ、問題が顕在化すると考えていました。それは僕が“通貨の循環”を念頭に置いていたからです。
通貨とは循環しているものです。循環するからこそ経済社会は成り立つ。商品を買えば企業を通して労働者に通貨は渡り、その労働者がまた商品を買って企業へ、と。この通貨の循環がどこかで遮断されれば、当然、不況に陥ります。
そして、極端な所得格差は、この“通貨の循環”を遮断してしまうのです。何故なら、限界消費性向… 所得に占める消費の割合は金持ちになればなるほど減るからです。つまりは、金持ちほど多く貯金するという話ですが。当然、それは、循環しない死蔵された通貨になります。
もっとも、金融経済の場合は、この理屈は少しばかり違っていて、通貨を得ても新たに投資(投機)へ向かう為に、一部に通貨が集中しても通貨の循環が維持される可能性はあります。ただし、金融経済には、通貨(と言うよりも富)を多く持っていれば持っているほど有利になる、という正のフィードバックの性質がある為に、これを野放しにすれば、一部に富が集中し過ぎ、やがては社会に負荷がかかって崩壊するでしょう。実際に、アメリカ金融経済はそれで大ダメージを受けた訳ですが。
アメリカ経済が、富が一部に集中した後もしばらく通貨の循環を保っていられたのは、常に投資(投機)へ向かう通貨と、一般国民の借金のお蔭です。アメリカでは、借金によって膨大な消費が維持されていた。結果として、通貨の循環が維持されていたのです。もちろん、それはバブルという形となって現れていました。そんな歪んだ構造が、長続きするはずがありません。
偶々、アメリカの場合は住宅バブルという形で歪みが現れましたが、通貨の循環を遮断する要因があるのに、無理矢理に経済社会を維持しているのであれば、住宅バブルでなくても他の形で絶対に歪みは現れます。そしてその歪んだ構造はいつかは必ず崩壊します。どうか、この点はよく覚えておいてください。後でもう一度述べますが、今(2011年11月)日本もこの歪みを抱えているのです。アメリカとは違った形ですが。
アメリカの話に戻しましょう。通貨の循環が遮断されるほどの所得格差があるのなら、当然、経済危機は起こります。バブル崩壊によってそれは表面化した訳ですが。が、それは財政出動によって当面は回避される、というのは当たり前に予測できます。そしてそれは財政赤字の拡大を意味します。ならば、財政問題は悪化するだろう、というのは誰でも簡単に予測できるでしょう。つまり、ここまでの歴史の流れは予測可能だったのです。これが前に僕が述べた歴史の予測可能性の話の具体例になります(もちろん、100パーセントではありませんが、かなりの高確率でこうなると、予測できた)。
因みに、このバブル崩壊とそれを財政でカバーし、財政赤字を膨らませるというのは、近年の日本の(悪い)流れとそっくりです。これをして、日本はアメリカ経済の先を行っている、なんて主張がありますが、これは錯覚でしょう。歴史の予測不可能性の話とも被りますが、日本とアメリカでは事情が色々と異なっています。つまり、それぞれ別の道を歩んでいる。どちらが先でどちらが後、という話ではありません(これとは逆に、アメリカ型経済の方が先を行っている、という理論が唱えられてもいます。まぁ、どちらも願望によって捻じ曲げられた主張だとは思いますが)。
ここで、“通貨の循環”についてもう少し詳しく説明したいと思います。僕がこれに拘り、経済を考える上での基盤にしているのは、“通貨循環モデル”と名付けたモデルを考案したからです。それを利用すると、経済の姿が通貨の循環という観点から浮彫になるのですね。
と言っても、そんなに難しいものではありませんが。
(既に他で何度も説明している内容なので、もう充分に理解しているという人は、読み飛ばしてもらっても構いません)
10人だけの経済社会を考えましょうか。この社会はとても単純で、Aという生産物を一種類だけ生産しています。10人がAを生産し、10人がAを消費しているという社会ですね。
ここに、技術革新が起こったとします。1人だけでAの生産が可能になったとしましょう(生産効率が上がったのです)。すると、残りの9人の労働力は余ってしまいますね。当然、9人に収入はなくなり、働いている1人だけに通貨は集中をします。1人がAを1個だけしか買わなかったとすると、Aには貯金ができる事になりますね(つまり、貯金が多いという事は、そのまま労働力が余っている事を意味するのです)。そして、残りの9人は失業者で、収入がないのだから当然、何も消費できません。
すると、消費活動は弱まり、経済社会は委縮してしまいます。
この問題を解決する為にはどうすれば良いでしょうか? 実に簡単な解決方法があります。新しい生産物を誕生させれば良いんです(仮にそれをBと名付けましょうか)。そして、その生産物Bを生産する為に、余った労働力である9人に働いてもらえば、委縮した経済が回復するどころか、更に成長をする事になります(その生産物Bが誕生する為には、投資が行われる必要があります。余った貯金を利用すれば、それは可能です。これが本来の投資の役割です)。当然、その生産物Bは消費されなくてはなりません。生産物Bに対しての通貨の循環が発生しないからです。
つまり、技術革新によって生産効率が上がり、それにより余った労働力を別の新しい生産物の生産へと向ける。これを繰り返す事で、経済は成長をしているのです。
これは工場の誕生により生産性が上がると共に車やテレビやパソコン、携帯電話と新たな生産物が次々と誕生し、経済が発展してきた歴史がそのまま証拠になります。
さて。この簡単な話を今の経済に当て嵌めてみましょうか。
まず、失業者が多い。これは、労働力が余っている事を意味します。同時にこれは人々の使わないお金、つまり貯金が多い事を意味してもいます。投資によって海外に資金が流れてしまう場合は、その限りではありませんが、日本はその代わりに、海外への投資によっての莫大な収入があるので、大きな問題はありません(もっとも、これは円高の要因になって、現役世代を苦しめていますが)。
今、この豊富な資金に頼って、日本は借金を行っています。これは逆に言えば、国が借金をする事で、通貨の循環が維持されている、とも表現できます。
ただし、これが歪な構造である点は否めません。 そして、前述した通り、歪な構造はいつか必ず崩壊します。借金には金利があるので、何もしなくても時間が経てば経つほど財政危機は着々と進行する上に、もし借金をする為に発行している国債を各金融機関が手放し始めたら、一気に国債が暴落して国家破産します。
また、国がそうして、借金をすれば、民間から資金を奪う事にもなってしまいます。
因みに、今までそうして国は、借金によって無駄な公共投資を行い、資源の無駄遣いをしてきました。その他には、当然、年金や医療などの社会保障にも借金は当てられています(もちろん、公務員への給与にも)。それらの大きな問題点として、通貨循環を阻害する金の使い方をしている疑惑が大きい事があります。一般的には金持ちは貯金が多い。つまり、それ以上は消費しない。その金持ちにさらに金を与えても消費活動は喚起できません。それが高齢者ならば、高齢者は一般的に消費意欲が低いので、なおさらです。しかし、国はこれをやってしまっている。これでは、経済の委縮に拍車をかけてしまいます。
この現状を打破するには、経済成長しかありません。先のモデルからも分かりますが、経済成長する為には、新たな生産物が誕生する必要があります。そしてその為には、投資が必要になってきます。ところが、国はこの投資を抑制してしまっているのです。
農業、医療、電力、その他様々な分野に規制が設けられており、それで民間企業が参入できず、結果的に投資ができません。規制されているのは、それら団体の既得権益を守る為だと言われています。つまり、自分達の為だけに日本全体を犠牲にしようとしているのです。
因みに、消費意欲が低い高齢者に資金が集まり景気が回復しないこの現状は、日本病と呼ばれています。それにより、日本では需要不足が解決しない。
さて。
しかし、です。果たして、これは日本だけの問題でしょうか? 確かに、日本は国内に充分な資金があるにもかかわらず、需要が極端に伸びない点で異様かもしれませんが、世界に目を向けると、何処でも失業問題に苦しんでいます。
これはアメリカの話ですが、企業の業績が上がったのに、従業員を減らすというのです。ですが、中国では成長する可能性があるから従業員を増やすという。ならば、その中国では失業問題がないのかと言えば、日本以上に過酷だと言われています。
失業者の存在はそのまま労働力が余っている事を意味します。そして、労働力とは生産物を生産する為のもの。その労働力が余っているという事は、つまり、それはそのまま、生産物に対する需要不足を意味します。早い話が、需要不足とは日本だけの問題ではなく、今や人間社会全体の問題なのです。
恐らく、人間社会は生産性を高くし過ぎてしまったのでしょう。そして、生産物の種類は増えすぎてしまった。現段階では飽和状態を迎えているのかもしれない。少なくとも、需要不足を跳ね返すほどの生産物の誕生は起こらないでしょう(インターネットの登場により、更に生産効率が上がった、という要因もあります)。
そして、消費需要が飽和状態を迎えているという仮説が正しいとするのなら、短期的には回復する事もあるかもしれませんが、長期的には世界経済は委縮し続け、やがては世界恐慌に至るという事態にすらなりかねません。
これは前に述べた川の話と同じです。小規模では、高くなる場所があったとしても、全体的には高い場所から低い場所へ川は流れます。同じ様に、経済だって需要が根本的に不足しているのであれば、委縮し続ける事になるのです。
という事は、これを防ぐ為には、なんとかして消費需要を増やす必要があるのです。
では、その方法はあるでしょうか?
実はあります。
(これも、何度も他で説明している事なので、もう充分に理解しているという方は読まなくても問題ありません)
消費需要が足らないのなら、消費を無理矢理にでも創ってやればいい。これは可能です。例えば、公共料金を設定し、それで太陽電池を生産する、など。
こうすると、太陽電池を生産した分、通貨の循環が生まれ、雇用が回復し、国内総生産も増加します。また、太陽電池の場合は、エネルギー自給率が増えるので、原油やガスやウランなどの輸入が減り、その分での国内総生産の増加もありますし、太陽電池で発電した電気を蓄電池で溜めて活用する管理システムの構築まで含めるのなら、更に国内総生産は上がります。
支出が増えて生活者の負担になるじゃないかと思われるかもしれませんが、その代わりに収入も増えるので大きな問題はありません(個人単位で観れば、損する人も得する人も現れるでしょうが、社会全体で観ればそこに“通貨の循環”が生まれるだけです)。もちろん、低所得者には配慮すべきでしょう。
更に、ここで増える通貨の循環分は、通貨の増刷が可能なので、初めの一回だけは無料での実施が可能です。通貨需要が増えるのに合わせて通貨供給を行うので、悪性の物価上昇は起こらないのですね(もっとも、委縮した分が回復する健全な物価上昇は起こる)。
公共料金で徴収して太陽電池を生産するのは、電気料金で徴収しても同じ様に料金を支払う点で同じですが、こうすると低所得者層への配慮がし易くなったり、収入の増えない企業への負担を増やさなくて済む(もっとも、この場合は労働者の負担になってしまう)ので、融通が利かせられるようになります。
もちろん、これは太陽電池以外でも応用が可能です。風力発電でも、地熱でも、またリサイクルでも。更に言うなら、医療福祉にでも使えます。
未知の試みなので、不安もあるかもしれませんが、そもそもが、経済発展とはこのように“通貨の循環”が増える事によって為されてきたものです。更に言うなら、これは「均衡予算乗数の定理」と呼ばれるものと、原理的にはほぼ同じで、税金を取って警察や消防を運営するといったことと、とても近い策でもあります。つまり、実績があるのですね。
懸念点としては、
1.国内の人件費(または、電気料金など)が上がるので、国際競争力を落とす事になりかねない。
2.この制度を政治家や官僚に悪用される可能性がある。
3・金融市場への影響が未知数。
などが考えられると思います。
このうち1の問題に関しては、輸出企業を支援する事でカバーできます。太陽電池を生産する場合なら、生産した太陽電池を無料、あるいは極めて安価で輸出企業に貸し出して電気代を浮かせる。更に、日本企業から物を買えば、二酸化炭素増加を抑えられると海外にアピールし、炭素関税の義務付けを提案し輸出が有利になるよう誘導する、などの方法が考えられます。
2については、インターネットなどを通して監視を強化する。公共料金という位置づけにし、悪用しにくくする。などくらいしか思い付きませんが、少なくとも短期的には致命的な問題にはならないと僕は考えます。ですが、長期的には一番のネックになるかもしれません。
3の問題。つまり、金融市場への影響がもっとも不透明です。この方法に理解が得られなければ、円安になるかもしれません。ただし、実験的に試み、トライ&エラーで適切な方法を探していくような対応を行っていけば大きな問題にならない可能性も多いにあります。
この方法がもし成功したなら、世界経済の課題、財政再建と経済成長を同時に達成する事が可能になり、世界恐慌を回避できる可能性が大きくなります。ヨーロッパもアジアもアフリカもアメリカも、経済的な危機を脱出できる。少なくとも、具体的な解決方法を示す事ができます。もちろん、この方法を世界中が執れば、人件費(またはその他コスト)が上がり国際競争力を落とす問題はなくなります。
そして、労働力を資源枯渇問題や環境問題や食糧問題、人口問題などの解決に充てられるようになるのです。
「通貨循環モデル」を説明するネタが、もうないですわ。
小説に組み込むしかないか…