あなたでは、娘達の離婚をとがめる事は出来なかったでしょう
エドワード・ルミエール男爵家子息として生まれてから、屋敷の庭は遊び場である前に、息をする場所みたいなものだった。敷石の小道は朝露で滑り、刈り込まれた生け垣は風の向きを教え、温室の硝子は空の色を少しだけ淡く映して、見上げるたびに胸の奥が落ち着いた。
そこへ毎日のように現れたのが、クラリス・ヴァレンティア伯爵令嬢だった。伯爵家の馬車が門前に止まるたび、御者の背筋まで張り詰めるのに、当の本人は草の香りを吸い込むみたいに笑って、靴を汚しても気にしない顔で小道を駆けてくる。
「エドワード、今日も庭を貸して。城みたいな木を作るの。枝を王冠にして、いちばん高いところに登った人が勝ちよ。負けたら花で飾ってもらうの」
クラリスはそう言い切って、こちらの返事を待たずに生け垣の角を曲がり、伸びた若枝を見つけては腕に抱え、まるで宝物を運ぶみたいに胸を張った。幼いころの彼女は、伯爵令嬢というより、春の強風そのものだった。
男爵家の子息として知っていたのは、伯爵家は雲の上で、公爵家はさらに遠いという大雑把な高さの差だけで、それが何を奪い、何を与えるかまでは、まだ指に数えられなかった。だから、同じ土を踏み、同じ花粉でくしゃみをして、同じ噴水の音に笑うなら、隣にいるのが当然だと信じていた。
「枝を王冠にするなら、棘で手が切れるから、革手袋を持ってこいよ。あと服の裾は引っかけるな。泣いても知らないからな。転ぶなら芝の上だ」
自分の言い方は、いつも彼女の勢いに水を差すみたいで、口にした直後に少しだけ後悔するのに、クラリスは怒らなかった。むしろ、わざとらしく頬を膨らませてから、次の瞬間には笑い声に変えて、こちらの袖を引っ張って走り出す。
その手の小ささを、掌の温度を、春の陽の匂いを、何年も先まで覚えていることになるなんて、そのころの自分は知らなかった。
遊びに疲れて芝へ寝転ぶと、空は広くて、雲の形が次々に変わり、世界が忙しく回っているのに庭だけが取り残されているみたいに見えた。クラリスは花をちぎって冠を編み、編み終えると当然の顔でこちらの頭に乗せ、出来栄えを確かめるみたいに覗き込んでくる。
「似合うわ、エドワードは王様みたい。でも本物の王城に行ったら、もっときれいな冠があるのよね。わたし、将来は王城でいちばんきれいになるの。皆が振り向くの、絶対に」
言葉の勢いだけで世界の扉を押し開けるみたいな宣言に、胸の奥が熱くなって、否定する気持ちが一切湧かなかった。彼女が「絶対」と言うときは、石を投げれば水面が跳ねるのと同じくらい当たり前の出来事みたいに聞こえて、疑うほうが意地悪に思えた。
「いちばんきれいになっても、皆が振り向いても、隣は空けておけよ。背が伸びても靴が変わっても、今みたいに笑ってくれたら、それで十分だ」
口にした瞬間、心臓が一度だけ跳ねて、芝の匂いが濃くなった気がした。告白という言葉を知らなくても、今のはそれに近いものだと、幼い頭でも分かったからだ。
クラリスは一拍だけ黙り、花冠を作り直すふりをして視線を逸らし、それから、何でもないことみたいに頷いた。
「うん、空けておく。エドワードの席は、いちばん前じゃなくてもいいわ。・でも見えるところがいい、わたしが踊ったら、ちゃんと見てて」
見てて、という言葉が胸に刺さって抜けず、その日から、彼女が何を望んでも、見ている側に回る覚悟だけは早く固まった。手を引いて連れて行くより、危ない場所に踏み込む前に肩を掴むより、視線の届く距離で待つほうが似合うと、自分の骨が先に理解していたのかもしれない。
◇
社交界デビューの年を迎えたころ、庭は同じ形のままなのに、そこに立つ自分とクラリスだけが別の生き物になっていった。彼女の髪は艶を増し、笑うときの口元に計算が混じり、目に入る景色が庭の端から王都の灯りへ移った。
クラリス・ヴァレンティア伯爵令嬢は、花冠を編む指で扇を操り、駆け回っていた足で優雅に一礼をしてみせるようになり、誰かの視線を浴びるたびに嬉しそうに肩を上げた。
その変化を美しいと思いながら、同時に怖かった。庭の中でなら彼女の笑いは自分のものだと錯覚できたのに、王都の夜会では、彼女の笑いは誰のものにもならない光の粒になって、空気に散っていく気がした。
「エドワード、今日は来ていたのね。ええと、ええと、後で話すわ。今は皆がいるから、ね、分かるでしょう。こういう時は、立ち位置って大事なの」
彼女がそんな言い方をしたのは、初めてだった。昔なら「来たの」だけで走ってきたのに、今は言葉の間に薄い壁が挟まっていて、触れた指先が冷えるみたいな感覚が残った。
分かるでしょう、と言われて分かりたくなくて、けれど分かってしまうのが、自分の厄介なところだった。
十五歳の春、クラリスが選んだ婚約者は、伯爵家の同格にあたる若い伯爵子息だった。名前を聞いた瞬間、胸の内側が静かに沈み、怒りも涙も出なかったのに、庭の噴水の音だけが妙に耳に残って、世界が遠くへ引いていく感覚があった。
屋敷の回廊で彼女とすれ違ったとき、祝福の言葉を用意していたのに、舌の上で味が変わってしまい、結局、短い挨拶しか出てこなかった。
「おめでとう、クラリス。君が選んだなら、それが一番いい。きっと華やかな式になる、庭の花も、その日のために咲くはずだ」
祝福に見せた言葉の端で、置いていかれる音がした。クラリスは一瞬だけ目を丸くして、それから、扇の向こうで小さく笑った。
昔の無邪気な笑いではなく、王都で磨いた薄い笑いだった。
「ありがとう、エドワード、あなたは優しいのね。昔からずっと優しくて、だから、安心してしまうの。でもね、安心って時々、退屈と似ているのよ。分かるかしら」
退屈、という音が胸を掠めたのに、彼女の顔はきれいで、言葉の鋭さだけが浮いて見えた。反論はできた。怒鳴り返すこともできた。けれど、彼女の望む舞台に泥を投げる権利は自分にはないと、勝手に思い込んでしまった。
だから、頷いた。頷いた瞬間、庭で交わした「席は空けておく」という約束が、風にさらされた紙片みたいに軽くなった。
その夜、ひとりで庭に出た。噴水の音は変わらず、芝は同じ匂いなのに、花冠を編む手も、踊ったら見ててと言う声も、もう戻らないと分かった。
それでも、見ている側に回る覚悟だけは、変えられなかった。彼女が選んだ先で転ぶなら、転んだ姿まで目に焼き付けるしかない。そう考える自分に呆れながら、視線を逸らせなかった。
月明かりの下で、木々の影が長く伸び、敷石の小道を黒く塗りつぶしていく。あのころの自分なら、この影を怪物だと言ってクラリスを笑わせただろう。
今は、影の端を踏まないように歩き、胸の内で一つだけ言葉を繰り返した。隣にいると告げた約束は破れた。
◇
クラリス・ヴァレンティア伯爵令嬢が婚約したという知らせは、春の花粉のように王都じゅうへ広がり、誰もが一度は噂話の種にしてから、すぐに別の話題へ移っていった。伯爵家同士の婚約は珍しくもなく、祝福も嫉妬も半日で薄れる程度の出来事だったが、彼女の視線だけは、既に別の場所へ向かっていた。
そのことを最初に悟ったのは、夜会の片隅で立ち尽くしていた自分だった。
アルヴェイン王国の王城大広間は、天井の装飾が星のように煌めき、燭台の炎が絹の裾を照らして、誰もが少しだけ現実よりも美しく見える場所だった。レオンハルト・アルヴェイン王太子が中央に立つと、周囲の空気が一段静まり、楽団の音色さえ慎重になる。
王太子という肩書きは、剣よりも鋭く、宝石よりも眩しい。
クラリスは、その光を真正面から見上げていた。婚約者である伯爵子息の腕に手を置きながらも、瞳は別の方向へ伸び、扇の動きさえ緩慢になっているのが遠目にも分かった。
彼女は昔から高い枝を目指して手を伸ばす子だったが、王太子は枝ではなく、空そのものだった。
「ねえエドワード、見たでしょう。あの方の立ち姿、あれこそ本物よ。ただ立っているだけで皆が息を呑むなんて、あんな世界があるのなら、触れてみたくなるのは当然だと思わない?」
夜会の回廊で偶然顔を合わせたとき、クラリスは声を落としもせずにそう言った。婚約者が少し離れた場所で他の令嬢と談笑しているのを確認しながら、まるで悪戯を共有するみたいに笑う。
自分は壁の装飾を眺めるふりをして、返す言葉を探した。
「王太子殿下には、既に公爵令嬢との正式な婚約がある。君も知っているはずだ。あの距離は舞台の距離だ。近づくほど焦げる」
忠告というより、願いに近かった。彼女が火に触れる前に、少しだけ手を引ければと思ったが、指先は届かない。
クラリスは肩を竦め、扇で口元を隠しながら目だけで笑った。
「焦げるかどうかなんて、触れてみなければ分からないでしょう。伯爵の妻になる未来と、王太子の隣に立つ未来、比べてしまうのは罪かしら。わたしはまだ若いのよ、選ぶ権利くらいあるわ」
選ぶ、という言葉が軽く放たれるたびに、庭で交わした約束が遠ざかる。彼女にとって未来は常に上へ伸びる梯子で、自分はその最初の段に過ぎなかったのだと、今さらのように理解した。
それでも、視線を逸らさなかった。
数度の夜会を経て、クラリスは露骨に王太子へ近づくようになった。踊りの順番を調整し、偶然を装って視界に入り、扇の影で微笑みを送り、ささやかな噂を自ら呼び込む。
社交界は残酷で、誰もが面白がりながら距離を測る。
「ヴァレンティア伯爵令嬢は大胆だな、婚約中に王太子殿下へあれほど近づくとは、伯爵家も肝が据わっている」
「大胆というより無謀でしょう。公爵令嬢が黙っているはずがないわ、あれでは自分の立場を削っているようなものよ」
そんな囁きが耳に入るたび、胸の奥が重くなるのに、止めに入る資格はない。自分は男爵家子息で、彼女の婚約者でもなく、ただ幼馴染という曖昧な立場に過ぎない。
見ている、と告げた約束だけが、足をその場に縫い止める。
やがて、公的な場で王太子が距離を示した。レオンハルト・アルヴェイン王太子は、舞踏の順番を別の令嬢へ譲り、クラリスが一礼して近づいたときも、丁重ながら冷たい言葉で応じた。
「ヴァレンティア伯爵令嬢、貴女の心遣いには感謝するが、私には既に婚約者がいる。これ以上の誤解は双方の家に不利益をもたらす、どうか立場を弁えてほしい」
その一文は静かだったが、剣のように明確だった。大広間の空気が一瞬で変わり、楽団の音が遅れ、視線が彼女へ集中する。
クラリスは微笑みを崩さず、扇を閉じて一礼したが、指先がわずかに震えているのを、自分は見逃さなかった。
夜会の後、庭園の隅で彼女を見つけた。月明かりの下で立つ姿は、昔と変わらぬ細さなのに、背負うものだけが増えているように見えた。
「噂は、すぐに消える。君が何も言わなければ、やがて別の話題に移る。今ならまだ戻れる」
そう告げると、クラリスはゆっくりとこちらを振り返り、目を細めた。
「戻るってどこへ?伯爵の隣へかしら、それとも庭へかしら。エドワード、あなたはいつも同じ場所から動かないのね。だから安心できるのよ、でも安心だけでは足りない時もあるの」
その言葉に、胸の奥で何かが軋んだ。動かないのではなく、動けないのだと叫びたかったが、彼女の目に映るのは王城の灯りだけで、自分の影は薄い。
やがて彼女は、婚約中の伯爵子息へ冷たく接するようになり、夜会でも並んで立たなくなった。
「あなたとは合わないわ。わたしはもっと広い世界を見たいの。あなたは堅実で誠実で、だからこそ窮屈なの」
その言葉が伝えられた日、伯爵家同士の婚約は破棄された。社交界は一斉にざわめき、ヴァレンティア家の評判は揺れ、彼女の名は噂の中心に置かれる。
自分はその報せを、屋敷の執務室で聞いた。窓の外には、昔と同じ庭が広がっている。
噴水の水音が、遠い昔の約束を思い出させる。隣にいると言った言葉は消え、見ていると告げた言葉だけが残った。
クラリスは高みを目指し、枝を折り、手を焦がし、それでも振り返らない。
それでも自分は、目を逸らさなかった。彼女が選ぶたびに、何かを失うのを知りながら。
◇
伯爵家同士の婚約が破棄されたという報せが王都を巡ったとき、クラリス・ヴァレンティア伯爵令嬢の名は、軽率だとか野心的だとか、好き勝手な形容で包まれていた。噂は色を変えながら膨らみ、彼女の横顔だけを切り取っては、勝手な物語を貼りつけていく。
その渦の中心にいるはずの本人は、意外なほど静かだった。
ヴァレンティア伯爵家の庭園で再び彼女と向き合ったのは、婚約破棄から数日後の夕暮れだった。幼いころ駆け回った芝は整えられ、花壇は以前よりも規則正しく並び、あの頃の無秩序な楽しさは薄れている。
クラリスは東屋の柱に背を預け、夕陽に照らされた横顔で、遠くを見ていた。
「エドワード、また来てくれたのね。みんなは遠巻きに見るだけで、近くまで来ようとしないのに、あなたは昔と変わらない顔で立っている」
昔と変わらないと言われて、胸の奥に苦いものが広がる。変わらないのではなく、変わる勇気を持てなかっただけだと、自分が一番よく知っているからだ。
それでも、今日はただ見ているだけでは終われないと思った。
「クラリス、噂は好きにさせておけばいい。だが君の選択は、君自身の足場を削ることになる。王太子殿下は明確に線を引いた、今ならまだ、落ち着いた道を選べる」
助言のつもりだったが、口にした瞬間、それが彼女にとって退屈な提案でしかないと分かった。
クラリスはゆっくりとこちらへ視線を向け、少しだけ笑う。
「落ち着いた道って、伯爵夫人として穏やかに微笑み続ける未来かしら。それとも傷が癒えるまで黙って待つ未来かしら。エドワード、わたしはまだ諦めていないのよ。王太子殿下に拒まれたからといって、わたしの価値が決まるわけではないでしょう」
その目は、まだ光を失っていなかった。拒まれた痛みよりも、次を探す熱が勝っている。
だからこそ、言わなければならないと思った。
「君がどれほど高みを目指しても、足場がなければ落ちる。俺は昔から君を見てきた。泣きそうな顔も、無茶をして怪我をした日も、全部覚えている。だから言う、俺と結婚してほしい」
言葉が庭に落ち、風が止まったように感じた。
告げた瞬間、胸の奥で長年溜め込んだものがほどけ、同時に空洞が広がる。
「ずっと待っていた、隣に立てなくてもいい、華やかな舞台に立てなくてもいい。俺は男爵家の跡を継ぎ、領地を守る。派手さはないが、揺るがない家にする。君が望む輝きはないかもしれないが、背を預けられる場所にはなる」
静かに言い切った。懇願ではなく、宣言のつもりだった。
クラリスはしばらく黙り、夕陽に透ける睫毛を伏せた。
「エドワード、あなたは本当に優しいわ。優しくて、堅実で、きっと良い夫になるのでしょうね。でもね、その未来を想像すると、わたしは胸が騒がないの」
騒がない、という一言で、庭の空気が変わった。
彼女は一歩近づき、こちらの胸元に視線を落とす。
「あなたとなら穏やかに暮らせるわ。きっと傷つくことも少ないでしょう。でも穏やかさだけでは、わたしは満足できないの。わたしはもっと上を見たい、まだ届かなくても、手を伸ばしていたいの」
拒絶は静かだったが、揺らぎはなかった。
覚悟していたはずなのに、喉の奥が焼けるように熱くなる。
「俺では足りないか」
問いは短く、情けない響きを帯びた。
クラリスは首を振る。
「足りないのではないわ、違うの、あなたは完成しているのよ。だから眩しくないの。わたしはまだ未完成で、未完成のまま高い場所へ行きたいの」
完成している、と言われることが、これほど空虚に響くとは思わなかった。
未完成の彼女を支えたいと願った自分は、彼女の物語に必要な役割ではなかったのだと理解する。
やがて、彼女は新たな婚約を発表した。
ヴィクトル・ハインリヒ公爵という名は、王都で重みを持つ。若くして家を率いる穏やかな人物だと評判で、名誉を何より重んじる家風は揺るがない。
夜会で並び立つ二人を見たとき、胸の奥が不思議なほど静かだった。
ヴィクトル公爵は礼儀正しく、クラリスに過度な視線を向けず、しかし必要なときは迷いなく手を差し出す。
「ヴァレンティア伯爵令嬢、いや、未来の公爵夫人殿。どうか無理はなさらないでください、私は家を守るために立っている。貴女が隣にいるなら、なおのこと慎重でありたい」
その言葉に、クラリスは柔らかく微笑んだ。
王太子を追ったときの鋭さはなく、穏やかな仮面を纏っている。
結婚式の準備が進み、王都の職人たちが忙しく動き、宝石商が出入りし、仕立屋が夜を徹して縫い上げる。
自分は男爵家の執務室で帳簿を開きながら、その噂を淡々と聞いた。
求婚は届かなかった。
それでも、不思議と後悔はなかった。言わずに終わるより、言って終わるほうが、まだ立っていられる。
庭へ出ると、昔と同じ噴水の音が響く。
あの頃の約束は、形を変えて残っている。隣に立てなくても、彼女が選ぶ道を見届けることはできる。
空は高く、夜風は冷たい。
クラリスはまた高い枝を選んだ。今度の枝は太く、折れにくいはずだと、誰もが思っている。
それでも自分は、折れる音を想像してしまう。
◇
クラリス・ヴァレンティア伯爵令嬢とヴィクトル・ハインリヒ公爵の婚礼が近づくにつれ、王都は華やかな期待に包まれていた。公爵家の紋章を染め抜いた旗が通りに掲げられ、仕立屋は夜を徹して白絹を縫い、宝石商は王都中の光を集めたかのような首飾りを運び込む。
あれほど騒がれた婚約破棄も、今では過去の話題として扱われ、誰もが新たな祝宴に視線を向けていた。
自分は男爵家の執務室で領地の報告書を読みながら、その噂を横目で追っていた。祝福の声も、皮肉も、すべて遠くの出来事として耳に入る。
クラリスが選んだ枝は太く、今度こそ折れないはずだと、誰もが思い込んでいた。
崩れたのは、式の二週間前だった。
最初は、些細な囁きだった。
花嫁の体調が優れない。
式の日程が急に調整された。
公爵家の侍医が頻繁に出入りしている。
やがて、囁きは形を持つ。
クラリスが身ごもっている。
しかも、その子の父はヴィクトル公爵ではない。
報せを聞いたとき、手にしていた羽根ペンが止まった。胸の奥で何かが崩れる音がしたが、驚きよりも先に、理解が広がる。
王太子レオンハルト・アルヴェインの名が、再び彼女の隣に置かれた。
王城は素早く動いた。公爵家は激怒し、婚約は即座に破棄された。ヴィクトル公爵は公の場で短い声明を出し、家の名誉を守るために決断したと述べた。
その声音は穏やかだったが、揺るぎはなかった。
「ハインリヒ家は誓約を重んじる。誓約が破られた以上、結びは解かれる。感情ではなく、家の名誉の問題だ」
その一文が、王都に冷たい風を走らせた。
クラリスは再び、舞台の中央に立たされた。
王家は体面を保つため、迅速に動いた。
王太子とクラリスの婚姻が発表される。
祝福という言葉が並ぶが、そこに温度はなかった。
王城で執り行われた急ぎの式は豪奢だった。白い大理石の床に映る二人の姿は美しく、宝石は眩く、楽団は完璧に奏でる。
それでも、その場に立つクラリスの瞳は、かつて王太子を追ったときの輝きとは違っていた。
遠くからその姿を見た。
自分は招待客の末席に過ぎず、視線を向けることしかできない立場だった。
レオンハルト・アルヴェイン王太子は変わらぬ端正な姿で立ち、責任を受け入れる形で彼女の手を取る。
その手つきに熱はなく、義務の正確さだけがあった。
クラリスは笑みを浮かべる。
笑みは完璧で、誰も欠点を見つけられない。
だが、自分は知っている。庭で花冠を編んだあの日の笑いと、今の笑いは違う。
式の後、王都の反応は二つに割れた。
王太子妃となった伯爵令嬢の成功譚として語る者。
責任を取らされた王太子と見る者。
だが、いずれにせよ距離は生まれた。
社交界は彼女を称えながらも、無意識に一歩退く。
ある夜、王城の回廊で偶然すれ違った。
王太子妃となったクラリスは、重い宝石を首に下げ、ゆっくりと歩いていた。
「エドワード、久しぶりね。あなたは変わらないわ、男爵家は順調かしら」
声は穏やかだったが、そこにかつての挑発はない。
自分は一礼し、視線を上げる。
「順調だ、領地は安定している。豊作が続き、家臣も落ち着いている」
「そう、それは良かったわ。あなたはきっと、静かな家を作るのでしょうね」
静かな家。
その言葉に、かつての拒絶が重なる。
「君は望んだ場所に立った、それで満足か」
問いは短く、無礼に聞こえたかもしれない。
クラリスは一瞬だけ目を伏せ、それからゆっくりと息を吐く。
「満足という言葉は便利ね、けれど、ここに立つには多くを失うわ。わたしは高い場所を選んだ、それだけのことよ」
その横顔に、疲れが滲んでいた。
高みに立つことと、支えられることは別だと、ようやく気づいたのかもしれない。
彼女の腹部に宿る命は、やがて王女として生まれた。
王家の血を引く姫として育ち、再び高い場所を目指す。
見守ると決めた。
彼女が選ぶたびに何かを削り、何かを得る姿を、最後まで見る。
王城の窓から見える夜空は、昔庭で見上げた空と同じ色をしている。
だが、あのとき隣にいた少女は、もう戻らない。
崩れたのは婚礼だけではない。
高みを目指すたびに、足元の土は薄くなる。
それでも彼女は、歩みを止めない。
◇
王太子妃となったクラリス・ヴァレンティアの名は、やがて王都の空気に溶け込んでいった。最初の衝撃は時間と共に薄れ、彼女は王城の一室に根を張る存在として扱われるようになる。
王太子レオンハルト・アルヴェインの隣に立つ姿は絵画のように整い、王女が生まれたという報せは国中に祝福として広がった。
自分は王都に滞在することを減らし、男爵家の領地へ戻った。
畑の収穫量、用水路の修繕、家臣の配置、冬支度の準備。
華やかさはないが、目に見える形で積み上がる日々は、確かな重みを持っている。
ある秋の日、隣領の男爵家を訪れたときに出会ったのが、マリア・ベルフォード男爵令嬢だった。
派手な装いではなく、落ち着いた色のドレスに身を包み、父であるベルフォード男爵の隣で静かに書類を確認している姿が印象に残った。
「ルミエール男爵家子息のエドワード様ですね、父よりお話は伺っております、領地経営に熱心でいらっしゃるとか」
丁寧な挨拶の後、彼女は自然な口調で問いを重ねた。
「水路の改修は順調ですか。こちらでは昨年、石材の質を変えたことで崩れにくくなりました。もしよろしければ資料をお持ち帰りください」
社交界の言葉よりも、土の匂いがする会話だった。
王城の眩しさに慣れた耳には、逆に新鮮に響く。
「助かる、実地の工夫ほど役に立つものはない。領地は飾りでは守れないからな」
そう返すと、マリアは小さく頷いた。
「守ることを考える方は、派手な失敗をなさらないでしょう。私はそのほうが安心できます」
安心、という言葉を聞いても、かつてのような棘は刺さらなかった。
それは退屈の代名詞ではなく、積み重ねの証に聞こえた。
交流を重ねるうちに、彼女は自分の過去を知っていると分かった。
王都での噂は隠しきれるものではない。
「クラリス王太子妃のことを、長く見守ってこられたのでしょう。私は否定も肯定もいたしません。ただ、今ここに立っているエドワード様が誠実であるなら、それで十分です」
その言葉に、胸の奥の古傷が静かに閉じていくのを感じた。
過去を責められず、同時に持ち上げられもしない。
求婚は、以前とは違う形で口にした。
「マリア、華やかな舞台は約束できない。王城の灯りも遠い。だが領地は守る、家族は守る。君が隣に立つなら、背を預けられる家にする」
彼女は迷わず答えた。
「十分です。私は高い枝を目指すより、根を深く張るほうを選びます。共に立てるなら、それで満足です」
結婚式は質素だった。
豪奢な宝石も、王城の祝砲もない。
だが、家臣たちの顔は近く、祝福の声は直接耳に届く。
やがて一人の男子が生まれた。
小さな手が指を握り、泣き声が屋敷に響く。
抱き上げたとき、胸の奥に広がったのは、かつて庭で感じた熱とは違う種類の温もりだった。
高みを目指す衝動ではなく、守るべきものが腕の中にあるという実感。
王都の噂は時折耳に入る。
王太子が国王となり、クラリスは王妃となった。
三人の姫が生まれ、それぞれが王国の未来を担う存在として育てられているという。
それでも、自分の心は揺れなかった。
マリアが隣に立ち、息子が庭を駆ける姿を見るたびに、選択の重みは形を持つ。
ある日、息子が花冠を作って頭に乗せてきた。
その無邪気な笑いに、遠い日の記憶が重なる。
「父上、似合うでしょう、ぼくは王様だ」
その言葉に笑い、頭を撫でる。
「王様でも農夫でも構わない。まずは足元を見ろ、転ばないように歩くことだ」
庭の空は変わらない。
だが、隣に立つ人は変わった。
◇
アルヴェイン王国の王都へ久方ぶりに足を踏み入れたのは、息子が成人し、男爵家の実務を半ば任せられるようになった年のことだった。王城で開かれる大規模な夜会に、地方貴族も広く招かれるという知らせが届き、断る理由も見当たらなかった。
王城の大広間は二十年前と変わらぬ輝きを保ち、燭台の炎は相変わらず人の顔を少しだけ美しく見せる。
レオンハルト・アルヴェインは既に国王となり、玉座に近い位置で来賓を迎えていた。隣に立つのは、王妃クラリス・アルヴェイン。
かつて庭で花冠を編んでいた少女の面影は薄れ、代わりに、王妃としての気品と疲労が同居した顔がそこにあった。
王妃の背後では、三人の姫がそれぞれ別の一団と談笑している。
だが、王都では別の噂が囁かれていた。三人とも婚姻を結んだが、ことごとく離縁し、実家へ戻ってきたという話だ。
その事実が真実かどうかはともかく、王城の空気はどこか重い。
マリアは息子と共に別の貴族と話しており、自分は回廊の端で杯を傾けていた。
そこで視線が交わる。
「エドワード・ルミエール男爵、お久しぶりですね」
王妃クラリスが、静かに歩み寄ってくる。
宝石の重みを支える首筋は細く、しかし背筋は崩れない。
「陛下の御治世も安定され、何よりです」
形式通りの挨拶を交わすと、彼女はわずかに微笑んだ。
「あなたは変わらないのね、庭で枝を集めていた少年のまま。いえ、あの頃よりも静かで、強くなったのかしら」
強くなったのかどうかは分からない。ただ、折れない枝を選ぶようになっただけだ。
視線を姫たちへ向ける。
「お嬢様方はお元気そうだ」
その言葉に、クラリスの指先が僅かに動いた。
「元気よ、ええ、皆それぞれの道を選んだだけ。わたしは何も強いていないわ」
何も強いていない。
その一文が、遠い過去を呼び起こす。高い枝へ手を伸ばし、焦げると分かっても触れようとした少女の姿が重なる。
「選ぶことは自由だ。だが、選んだ後の重みは消えない」
言葉は自然と口をついて出た。
クラリスはしばし黙り、やがて小さく息を吐く。
「あなたは昔から、見ているだけだったわね。止めもしないし、追いかけもしない、ただ、そこに立って」
「約束したからだ」
庭で交わした、見ているという約束。
彼女は目を細める。
「そんな約束、覚えている人がいるなんて思わなかったわ」
回廊の向こうで、マリアが息子と笑っている。
その光景を一瞥し、再び王妃へ向き直る。
「あなたでは、娘達の離婚をとがめる事は出来なかったでしょう」
言葉は静かに落ちた。
責める響きではなく、ただの確認のように。
彼女の3人の娘達は、全員2年足らずで結婚先から次々に戻ってきていた。
全て、娘達からの離縁だ。
クラリスは視線を落とし、遠くの燭台を見つめる。
「……そうかもしれないわね。わたしは常に高い枝を選んできた。安定よりも、眩しさを、だからあの子たちも同じものを求めたのかもしれない」
その声には、かつての鋭さはない。
ただ、長い時間を経た者の重みがある。
「だが、それでも歩くしかない。王妃として、母として」
「そうだな」
それ以上の言葉は不要だった。
彼女は王妃としての位置へ戻り、自分は回廊を歩く。
マリアがこちらに気づき、微笑む。息子は背筋を伸ばし、父としての自分を迎える。
その光景に胸が温かくなる。
庭の約束は果たされた。
隣に立つことはなかったが、最後まで見届けた。
王城の窓から見える夜空は、あの日と同じ色をしている。
だが、自分の隣にいるのは、揺るがぬ家族だ。
完。
よろしければ何点でも構いませんので評価頂けると嬉しいです。




