朝、起きると、私は魔王ではなくなっていた……
朝、いつものように目覚めた。
しかし灰色の空は、私の目の中で、いつものようには快く稲光を放ってはいなかった。
昨日限りで、私は魔王の座から引きずりおろされた……。
我が褥も、天蓋つきの豪華だったあの広いベッドではない。兵士と同じ、簡素な板のようなベッドだ。
たった一日ですべてが変わってしまった。
私はただの、一匹の魔族に落ちぶれた。
まだ『年老いた』とはとてもいえぬ、たかが千百歳の、現役のこの身で──
「魔王さま……」
瞬間移動して現れた部下のリンクスが、私の横に敬礼して立つ。
美しきダークエルフの、細身ながら精悍な黒い鎧姿もいつも通りだ。何も変わったものはないと錯覚してしまう。
しかしこれはもう、私の部下ではない。
「私はもう、魔王ではないぞ? リンクスよ。新しい魔王の命で、このザンギバルトの首でも取りに来たか?」
そう言いながら、もはや自分の首に取るほどの値打ちはないということを、知っていた。
「なぜ……シュペルピューマに王座をお譲りになったのですか?」
責めるような目をして、リンクスが私に問う。
「平和的解決を望んだのだ」
私は今さらと思いながらも、説いて聞かせた。
「あのままヤツがクーデターでも起こせば、犠牲者が沢山出る。ゆえに、大人しく譲り渡すほかなかった……」
「戦えと仰っていただけたなら……、私は貴方のために、命を賭して闘いました」
「フ……。貴様もわかっておるだろう、リンクスよ? ピューマはもはや私の部下──『四機神』の一人として仕えているような器ではない。あれの力は既に、私を超えた」
「力がすべて……そうお考えなのですか?」
「もちろんだ。我らは魔族、最も魔力のある者が上に立つのは道理」
「ならば……!」
リンクスが声に力をこめた。
「実際に戦い、その結果によって、どちらが上かをはっきりさせるものでしょう! 貴方はそれをされなかった!」
「私にとって、一番大切なのは、兵士と民だ。彼らがいるからこそ、私は魔王として長らく君臨することができた。敗色濃厚な闘いの犠牲にすることはできぬ」
「しかし……!」
「ピューマは『戦闘狂』などと言われているが、あれでなかなか民を思う心はある。あれに任せておけばよい。まだまだ若くはあるが、若さには行動力が伴うものだ。人間どもの領地へ積極的に攻め入り、勇者のパーティーをものともせず蹴散らし、ゆくゆくは世界を我ら魔族のものとしてくれるだろう」
「それでよろしいのですか?」
「……よい」
「魔王さまは、人間と魔族の共存をお考えだったのではないのですか?」
「私の考え方は古かったのだ……。ピューマの『人間は滅ぼすべきこの世の害虫』という考え方のほうが、時代に合っている」
再び褥に身を横たえ、私は隠居老人のように、毛布を被った。
寝具には先ほどまでの己の熱がまだ残っていた。暖かさに包まれながら、しかし私の心には寒風が吹いているようだった。
私は、もう、用なしだ……。
新しい時代は、あの屈強な新しい魔王シュペルピューマが創っていくのだ。
私より九百歳も若い、あの若き新魔王が──
「ねぇ、魔王さま」
背中に柔らかさと温みを感じ、私は驚きに目を開いた。
鎧を脱いだリンクスが、私の背中に入り込み、そのしなやかな腕で、私の背中に触れていた。
彼女の吐息をすぐ耳元に感じる。
女だと思ったことはなかった。
ただ、我が魔王軍の誇る『四機神』の一角を担う『弓神』として、頼れる部下としてしか見たことはなかった。
このような無礼な行為をされるのも、私が魔王でなくなったゆえのことか──
そう思いながらも、悪い気分ではなかった。
もし、私に孫娘がいたなら、このように甘えてこられて、可愛いなどと思うのだろうな──そんな心地がして、私の顔は緩んだ。
リンクスは私の後ろから、囁くように言った。
「ねぇ、魔王さま……。私にとって、ピューマは共に魔王さまのために働いてきた仲間であり、ライバルに過ぎません。対等だと思っていたあいつのために働く気は、私にはありません」
「働くのだ。これは長らく貴様の上で魔王を務めてきた私からの命令だ」
「私にとって、貴方だけが魔王さまです。貴方だけを尊敬し、貴方だけのために私は働いてきました」
「新しい時代を創るのだ、リンクスよ」
「嫌です! 私は魔王さまに……」
「私はもう眠る。あとは頼んだぞ、リン……」
「ウニャーッ!」
いきなり首の後ろに噛みつかれ、私はびっくりして声をあげた。
「うわーーーッ!」
そうだった。コイツはダークエルフと山猫の獣人のハーフ……。駄々をこねたらすぐ人に噛みつくのだった。
「ややや……、やめろ! 牙が刺さる! 痛い! 離れろ、リンクス!」
「離さないニャ! 魔王さまが元気になってくれるまでッ! ボクはこの牙を離さないニャ!」
「無礼だぞ! 『元』とはいえ魔王であったこの私に……!」
「今は魔王じゃにゃいから噛みついていいニャ! ニャーーッ!」
「禁呪『セブンス・ゲイト』を喰らいたいのか! ギャー!」
「殺したいなら殺すがいいニャ! ボクはおじちゃんに魔王さまでいてほしいのニャ! ガウーーッ!」
「と……、唱えるぞ? 三百年振りに、禁呪、唱えるぞ? オン・……ギャー!」
「そんなのが唱えられるなら、まだまだ現役じゃないかニャ! 闘うならシュペルピューマと闘えーーッ! ガブ!」
しばらく簡易ベッドの上で格闘し、ようやく離れた。
「ハァ……、ハァ……。この私と互角にやり合うとは……。腕をあげたな、リンクスよ」
リンクスは私の前で土下座していた。
「申し訳ありません、魔王さま……。つい、駄々をこねてしまいました」
「まぁ……よい」
私は荒い息を収め、笑った。
「お陰でなんだか元気が出たわ」
リンクスは立ち上がると、鎧を脱いだその胸に、私の顔を埋めた。
私の頭の上に、ぽつりと涙が落ちる。
「魔王さま……。私はずっと貴方をお慕い申し上げておりました。私は貴方だけにずっとついて参ります。どうか……どうかもう一度、覇気をお取り戻しください」
窓の外、薄暗い空に、稲光が走るのが見えた。
そうだ。私は絶大なる魔力を有する『禁呪使い』ザンギバルト──
なぜ『魔王』などという言葉にこだわっていたのか──
「リンクスよ……」
かわいい部下の頭を撫で、涙を拭き取ってやりながら、私は言った。
「貴様のお陰で力が湧いてきたわ。私はこれから『魔神』として闘いの最前線に立とう。平和を願い、人間どもとの共存を考えていたが、現魔王の意向に従おう。ついて来てくれるか?」
リンクスは一瞬、考え込むような顔をしたが、すぐに顔を輝かせ、頼もしそうに私を見つめた。
「私は……魔王さまについて行くだけですっ!」
そうだ。私の願いは魔族の繁栄と幸福──そのために人間との交易を盛んにし、犠牲者の出る戦争を排し、みんなが幸せになれる世を作ろうとした。
しかし、シュペルピューマが成長し、私を凌ぐほどの絶大なる力をつけた今、これは好機ではないか。
圧倒的な力で人間どもを蹂躙し、魔族による、魔族だけの、魔族の世を実現するのだ! そうすれば戦争などというものももう、なくなる──
決めたぞ。
人間を滅ぼしてやる。
そんな決意をする私に、頬ずりしながらリンクスが言った。
「人間を滅ぼしたら、次はシュペルピューマとの間に戦争を起こし、魔王の座を取り戻しましょう!」
いや……
……そうなるのか?




