プロローグ
その日、博物館の地下倉庫は、深い水底のように静まり返っていた。
コンクリートの壁は外界の音をすべて拒み、時計の針の音すら飲み込んでいる。
村瀬詩織は、薄明の蛍光灯が描く蒼白な光の中で、作業机に広げた古文書へと身を屈めていた。
古い紙の匂いは乾いた藁のようであり、そこに混じる鉄錆の匂いは、時の重さを嗅ぎ取らせる。
繊維が毛羽立つ古文書の端を指で撫でると、微かな粉が爪の先に落ち、その触感すらも過ぎ去った世紀を物語る。
その日の作業は予定通り終わるはずだった。
だが、棚の奥に積まれた木箱が一つ、いつもと異なる位置に置かれているのが目に留まった。
木箱の表面は煤け、蓋の合わせ目には封緘の痕跡があるが、蝋は剥がれ、誰かの手によって開かれたらしい。
蓋を持ち上げた瞬間、内部の空気が吐息のように抜け、微かな甘苦い香が鼻腔をくすぐった。
香木とも、獣脂ともつかぬその匂いは、この場所には似つかわしくない。
中には、一冊の書が横たわっていた。
装丁は和綴じを思わせながらも、表紙の質感は羊皮紙に似ており、光の加減で繊細な皺が浮き沈みする。
何より目を奪ったのは、表紙中央に刻まれた金泥の文様だった。
円と線が重なり、星図のようにも、見知らぬ国の印章のようにも見える。
その金は新しいのか古いのか判じがたく、しかし確かに呼吸するかのように、鈍く明滅していた。
光が途切れるたび、文様の縁に刻まれた細かな文字が、淡い影を落とす。
それは古漢字にも似て、楔形文字にも似て、しかしいずれとも異なる。
長年、古文書を見慣れた詩織でさえ、一文字も読み取れなかった。
「……何、この文字……」
唇が無意識に言葉を紡ぎ、指先が文様の曲線をなぞった。
指の腹に冷たい金属の感触が伝わり、刹那、
空気が変わった。
蛍光灯がぱちりと瞬き、音を失ったように辺りが沈む。
倉庫の乾いた紙の匂いが、唐突に湿った大地と雨の匂いに変わり、足元の床が柔らかく沈み込む。
壁の影が膨らみ、光が反転して渦を巻いた。
熱でも冷気でもない、不思議な圧が胸を押し、耳元で見えない水流が轟々と鳴る。
世界が裏返った――そう感じた瞬間、詩織はもう博物館にはいなかった。
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視界が開ける。
そこは白銀の広間であった。
天蓋は蒼金に輝き、複雑な文様がゆるやかに脈動し、まるで生き物のように呼吸している。
壁は乳白色の石で積まれ、無数の光粒が漂い、そのひとつひとつが淡く弾けては消えていく。
足元の床は磨き抜かれた大理石で、水鏡のごとく彼女の姿を映し、歩くたびに靴音が透明な鈴のように響く。
空気はひややかでありながら、微かに甘く、春先の雪解け水の匂いが混じっていた。
遠くで水の滴る音がし、それが反響して空間の広さを告げる。
やがて、その静寂に、鈴の音のような細やかな音色が重なった。
その音は近づくにつれ、人の歩みの気配と重なり、やがて白衣の老翁が現れた。
背は高く、衣は霞のように揺れ、銀糸を編んだ髭が胸まで垂れている。
その瞳は、深海の底に沈む蒼を湛え、夜空より遠いところを見ていた。
声はなかった。
しかし確かに、その言葉は詩織の胸奥に響いた。
――汝、流転の記録官なり。
老翁が掌を掲げると、天蓋の星図が瞬き、光の糸が降り注いだ。
その光は詩織の手の中に集まり、一振りの筆へと形を変える。
白銀の軸はしっとりと温かく、穂先は風もないのにかすかに震えた。
掌に伝わる脈動は、まるで生き物の鼓動のようだった。
「……これは……?」
詩織が問いかけるよりも早く、老翁の姿は白い靄に溶けた。
その代わりに、緋と黒の衣を纏う数名の人物が現れた。
裾を引く長衣の擦れる音と、金具の触れ合う微かな響きが広間に広がる。
彼らは詩織を見やり、互いに目を交わした。
「異邦の者……?」
「筆主の選は、大陸の民より行われるはず……」
「これは前例なきこと……」
低く抑えた声に、驚きと不信とが混じる。
詩織は言葉の意味こそ分からぬが、その視線の冷たさは肌を刺すように感じられた。
高い天蓋の下、広間の空気は重く、彼女の息を奪う。
こうして、村瀬詩織はこの世界に降り立った。
筆主の大神が定める秩序を示す、流転の記録官として――。