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校正者のざれごとシリーズ

校正者、キレられる

作者: 小山らいか

 だいぶ前の話だ。私は校正プロダクションの社長と一緒に、とある大手出版社の校閲部に納品に向かっていた。

 いつもは納品は1人で行く。その日、なぜ社長と一緒だったのかは記憶にない。社長がその出版社に何か用があったのかもしれない。とにかく、2人で出版社の大きなビルに入り、受付を済ませてエレベーターで上に上がると、校閲部のドアをたたいた。

 そこは、半分は図書室のようになっていて、たくさんの本が並んでいた。入り口近くのデスクには数台のパソコンも完備。人数の割には広く、しんと静まりかえった空間だった。

 私に依頼されたゲラ(校正紙)の担当者はベテランの女性校閲者、赤木さん(仮名)。ちょっと神経質そうな人だ。対面で座り、社長に目を通してもらったゲラを手渡す。緊張が走る。彼女はさっと目を通して「ありがとうございます。お疲れさまでした」と言った。

 ほっとした。こちらも「ありがとうございました。またよろしくお願いいたします」と言って腰を浮かせかけた。すると、

「校正者さん、ちょっと待って。これ、調べもの終わってないの?」

 ゲラを手にした彼女は、語気を強める。

「これ……調べものが終わってないところがかなりありますよね。どういうことですか」

 この出版社では、調べものが必要な箇所の横にVのような印をつける。それについて調べて確認が取れると、このVの字によこぼうを入れるというルールになっている。調べ終わったという印だ。今回のゲラは難しい調べものが多くて、Vのままの箇所がかなり残っていた。納期との兼ね合いで、まあ仕方ないかという感じだった。

 彼女はずいぶんイライラしているように見える。困惑した私はそっと横にいる社長のほうを見たが、困ったように苦笑いを浮かべて、何か言い出す様子はない。さっきゲラを見てもらったときは、Vの印のことは何も言ってなかったのに。彼は基本的に気が小さいので、こういう場面にはからきし弱い。

「申し訳ございません。あの……もしよろしければこちらでもう少し調べものをさせていただいてよろしいでしょうか」

 私がおそるおそるそう言うと、彼女は待ってましたとばかりにうなずいた。てきぱきとデスクをひとつ用意し、「じゃあ、ここでお願いします」と言った。

 しんとした静かな空間で、緊張しながら作業をする。パソコンと校閲部にある本を借りて、必死にVの字のついた項目を調べていった。気がつくと、一緒に来ていたはずの社長の姿がない。逃げたな。まあ、私が担当した仕事だ。やるしかない。

 ――保育園のお迎え、間に合うかな。

 ふと不安がよぎった。当時、上の子は保育園に通っていた。納品して帰れれば、余裕をもって間に合うはずだった。このまま作業が長引くと、閉園の時間さえ間に合うかどうか。

 校閲部の窓から外を見ると、日は少しずつ陰っていく。はあ。思わずため息。

 そのとき、なぜか学生時代の遠い記憶がよみがえった。

 大学生のころ、私の愛読書は太宰治だった。かばんの中には常に彼の小説を忍ばせていた。『人間失格』など、何度読んだかわからない。いま思うと、学生時代の私、大丈夫だったのかしら。 

 なかでも好きだったのが『富嶽百景』。「富士には、月見草がよく似合う。」の一節が有名な短編小説だ。このなかでも当時特に気に入っていたのが、次の描写。

 ――アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。……暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思いは、二度と繰りかえしたくない。

 やっぱり、学生時代の私は相当情緒不安定だったのだろう。でも、数十年たった今でもこのフレーズは心のどこかに残っていて、懐かしい気持ちになる。そして、もちろんこの引用部分はVの字によこぼうが入る。手元には新潮文庫の短編集『走れメロス』があり、その3つめには『富嶽百景』も入っている。確認済。

 

1時間半後。 

とにかくひたすら調べものを進めて、終わったものを赤木さんに持っていった。彼女は、「これでOKです。お疲れさまでした」

 そう言って笑顔を見せた。よかった。これで、やっと帰れる。

 このときの経験から、調べものに対する意識はずいぶん変わった。いまでは、各種法改正や税制改正大綱、厚生労働省の統計などは、少しだけ得意分野と言えるようになった。

 出版社のビルを出ると、すぐに保育園に電話。迎えが遅くなる旨を伝えたが、何とか閉園時間には間に合わせることができた。

 ほとんどのお友達が帰ってしまった保育園の教室は、いつもより広く見えた。上の子は私の姿を見ると嬉しそうに駆け寄ってきた。「ごめんね。遅くなって」そう言って、用意しておいたお土産を渡す。菓子付きミニカー。上の子の大好きなものだ。彼はいつも「ママ、お仕事がんばってね」と言ってくれる。この笑顔を見ると、沈んでいた気持ちも晴れてくる。もう、窓から見える小さな富士は私には必要ない。なあんてね。あはは。


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