昆虫の森計画
「最近、昆虫の数が減ってきたよなあ」
居酒屋で安田が友人と飲んでいると、不意にそんな話になった。
二人は昆虫採集が趣味だった。
「この前一年ぶりにS町のポイントに行ったんだが、どうなってたと思う? 森が丸ごと消えてたんだぜ」
「そりゃまたどうして?」
安田は尋ねる。
「さあな。もしかしたらメガソーラーを造る土地にするのかもしれない。いやはや、どんどんポイントが消えていくよな。嫌になっちゃうよ」
「近所の空き地も最近は家が造成されていってるしなあ」
「都会じゃテントウムシ見つけるだけでも一苦労だわ、ほんとに」
「見かけなくなったよなあ」
「そういえば安田、管理してた廃アパート更地にしたって本当か?」
「ああ」
「その土地、昆虫のための庭にしたらどうだ?」
「試してみるのも面白そうだなあ。でも、あいにくそんな整備する時間がないし。もしそんなことができたら楽しいだろうね」
安田は居酒屋を出て別れた後、一人で家への道をとぼとぼと歩いた。
その途中、道の真ん中に一人の若者が立っているのを見つけた。
「そこのお兄さん、さっきの居酒屋では昆虫が少なくなっていることを憂いていましたね」
「ああ、そうだが。話を聞いていたのか?」
「今から面白いものを見せましょう。これです」
男の手には何らかの装置があった。一見すると修正テープのような物体だった。スイッチがいくつかあり、端にはマーカーのような平べったい蛍光色の突起がついていた。
男は道路脇にあったプランターの中にある植物の苗を中心にマーカーの部分で丸く円を描いた。
「これで準備完了。この苗をよく見ていてください」
男が修正テープのような物体を操作すると、スルスルと苗が伸びていき、やがて葉をたくさんつけた大きな低木になった。
「これは一体・・」
「円の中では時間が外よりも速く流れています。これで大体十倍速ってところですかね。最大で500倍速で時間を流れさせることができます。どうです? これを使って自分の土地に森を作ってみませんか?」
「森を?」
「昆虫の集まる森です。悪くない話でしょう?」
「しかしそんな急激に森ができたら大騒ぎになってしまう」
「大丈夫。このボタンを使えば」
男が装置を操作すると、低木が消えた。
「外からは時間が流れる前の光景が見えるんですよ」
「そうか。これは実に面白い代物だな。私にくれるのかい? それじゃあちょっともらってみようかな。ははは」
安田は、物は試しと、そのタイムラプス装置をもらって帰った。
翌日、安田が家のベッドで目が覚めると、頭がズキズキと痛んだ。
「二日酔いか。昨日はよく飲んだからな」
食事をするためにテーブルにつくと、そのテーブルの上に見慣れない装置を見つけた。安田は、昨日の記憶を思い出し、あれは夢ではないことを理解した。
あの男は誰だったのか? 疑問に思ったが、もはや分からないことだ。深く考えるのはやめることにした。
この装置を使えば森ができる。
若干の迷いはあったが、彼はすぐ行動するタイプだった。
仕事が終わり、家の裏手にある廃アパートの跡地に訪れると、敷地全体を丸く囲って、外に出た。
「これでOKなはずだが。確かこういうふうに操作してたな」
装置のボタンを押すと、敷地内にあった草花が猛烈な勢いで繁茂しだした。
と思うと、あっという間に枯れていき、そしてまた草花が芽を出し、それが何度も繰り返された。
「森を作るには、まずは豊かな土壌が必要だと聞いたが、さてどうしよう」
男は暇ができると足繁く跡地に通い、森を作る方法を検討した。
本を読んだ結果、一年生植物が草原を作り、その次に多年生植物が生えてくるとのことだった。
そしてその後に陽樹を中心とした森が作られる。
昆虫が集まるような森といえば、クヌギやらコナラの生えている雑木林が思い浮かんだ。
しかし、こんな街中にそんな木の種が自然に落ちているなんてことはない。
そこで男は、近くの山に行き地面に落ちていたドングリを持ってきて敷地内に埋めた。
時間を進めると、草原からやがて、木が生え始めた。
いつか居酒屋で昆虫がいなくなったと憂いていた友人に秘密を打ち明けたのはそんな頃だった。
「じゃあ君はあれか? そんな未知の力を持った装置をくれた人物とそれ以上の会話もせずその場で別れたというのか? なんてこった。絶対そいつは未来人か何かだ。もっと話して情報を聞き出せばよかったのに」
「酔ってたからなあ。深く考えずに家に帰っちまったよ。でも、いいじゃないか。これで俺たちは夢だった森作りができるんだぜ」
「何か裏があったりしなければいいのだけれど・・」
「何の裏があるっていうんだよ。そんなことより、どうやればこれからこの森に昆虫が住み着くのか。考えていかないといけない。まずは樹液場が欲しい。どうやれば作れるだろうか?」
友人と安田は、時間の流れを通常化した敷地内に佇み、これからのことを考えた。
「とりあえず、木は育ってきてるから定期的に伐採してみればどうだろう。台場クヌギってあるだろう。あれは定期的に炭にするために育ってきた枝を伐採してあんな形になったって言われているんだよ。そういう木は複雑な形になり樹液も出やすい」
「じゃあそうしてみるか」
男は、チェーンソーを買ってきて、時間の流れを速くした敷地内で木が十分に育ってきたら、定期的に枝を切り落とす作業にかかった。
切った枝は敷地の隅に放置して時間の流れるままにまかせた。
時間の流れを進めると、クヌギからはあっという間に新たな枝が伸びてきて、あっという間に幹が太くなった。
そしてまた伐採するの繰り返し。
その切って放置された枝や幹に小さなカミキリムシが集まってきていることに気づいたのは、何度目かの伐採の後だった。
伐採した枝にいくつもの脱出口ができ、一眼見て何らかの昆虫が中で育って羽化して、出てきたことが理解できた。
友人に捕まえたカミキリムシを見せると、
「これはキイロトラカミキリだな。幼虫はクヌギやコナラの枯れ木を食べるんだが、どうやらここで発生しているみたいだな」
と、教えてくれた。
「前から疑問に思ってたんだが、この囲んだ敷地内でも季節は流れているんだろうか? 前入ったときはもう凍えるほど寒くて、これは冬だと直感したんだよ」
「普通は時間が早まるだけで季節が流れるとは思えないが、未知の技術だ。何かしら想像もできない機能もあるのかもな」
「そんなもんかねえ。しかし、昆虫が繁殖してるとなると嬉しいな。着実に昆虫のための森に近づいてることを実感するよ」
友人は少し笑ったが、すぐに口元に手を当てて考え込んだ。
「何だ、まだ裏があるとか考えてるのか?」
「ああ。何の代償もなくこんな装置をもらってしまって本当に大丈夫なんだろうか?」
「きっと大丈夫だって。とりあえず今のところ何もおかしなことは起きてないし、多分気のいい未来人だったんだって」
「そうだといいんだが」
男と友人は季節が巡り、夏から冬に、冬から春になっても作業を続けて、敷地内にはやがて立派な雑木林が形成された。
台場クヌギは複雑な形になり、森の至る所の樹木から樹液が染み出すようになった。
その樹液に、何種類もの蝶やシロテンハナムグリが群がっているのが確認できた。土壌もよく作られており、落ち葉を除けるとフカフカの腐葉土が広がっていた。
どこからか逃げ出してきたのか、カブトムシまで現れるようになった。
これで、昆虫のための森計画は成功したと、安田は感慨深いものを感じた。
彼は暇ができると、森に入り、昆虫観察を楽しんだ。充実した日々だった。
そして、ある夏の日。
友人が彼の家を訪れた。
チャイムを押しても誰も出てこない。さては、森にいるなと裏手の敷地内を覗き込むと、彼は最初違和感に気づかなかった。
しかし何かおかしい。
気づいた。
装置の機能で隠されているはずの森が外から見えている。
やがて、周りの住人たちがざわめき出した。
友人は急いで森の中に入り、そこで倒れている安田を発見した。救急車を呼んだが、手遅れだった。彼は死んでいた。
友人が後から聞いたことによると、不整脈だったらしく遺体に不自然な点は見られなかった。
突然現れた森をニュースは大々的に報道した。友人は警察に事情を説明した。信じられないような話だったが、証拠となる森が作られているため、警察や報道関係者も信じるほかなかった。
昆虫のための森は、出来事が出来事なだけに、自治体が管理することになったのであった。
そして、あの装置は何処かへ消えてしまったようで、どこを探しても見つかることはなかった。
その夜。
森を眺める一人の人物がいた。
随分と綺麗に作られたものだとその人物は、満足したように息をついた。
彼は未来人だった。安田に装置を渡した張本人である。
彼の住む未来では昆虫はその数を大きく減らし、もはや7割の昆虫がいなくなっていた。
家には大叔父の残した昆虫標本がたくさん置いてあった。
そんな昆虫標本を見て、彼は昆虫に興味を持ったと同時に、大叔父にも興味を抱いた。どんな人物だったのか、祖父に聞くとどうやら昆虫採集に熱心な人物だったことが窺えた。
そんな大叔父は若くして不幸な事故で亡くなったらしかった。
そこで彼は過去に戻り、不幸から大叔父を救おうとタイムトラベルしてきたのだった。
何度も助けようとした。
しかし、その度に運命に決められたかのように大叔父は死んだ。変えられるものではなかったのだ。
それならば、せめて人生の最後を幸せに終えてもらいたい。そこで、彼は生前大叔父が昆虫の集まる森を作りたいと何度も言っていたと、祖父から聞かされていたのを思い出し、あの装置を大叔父である安田に渡したのだった。
そして、もう一つ。
大叔父が死んだらこの昆虫のための森の存在を明かすつもりでもいた。
昆虫がいなくなった原因は様々ある。生息地の破壊、地球温暖化による森林の乾燥化、農薬による汚染、外来種、光害、未知の病原菌。
どうすればこの不幸な未来を変えられるのか。そうして至った結論は、人々の無関心をやめさせることだった。
そのために、昆虫の森計画は作られた。一人の男の執念が森を作った。それはきっと人々に昆虫に対する関心も引き起こすことだろう。
そう考えたのだった。
やがて男は夜が明ける前に大叔父が作り出した雑木林の前から去っていった。
明るい未来が来るかは誰にも分からない。