樹
男は趣味で昆虫採集をしている。
その日も、休日を利用して朝の比較的涼しい時間に新たな樹液ポイントを探しに森の中をうろついていた。
朝といえども気温の上昇するのは早い。
あっという間に身体中汗まみれ、蜘蛛の巣まみれになり冬の間にポイント開拓をしておくべきだと後悔してしまう。
それでもいくつかの樹液を発見し、良さそうな洞も見つけ、ひとまず開拓は上々と言ったところだ。
さて林道に残した車に戻ろう。
そう思い、彼は元来た道を戻り始めた。
しばらく進んだところで男は焦り出した。行けども行けども林道にたどり着かない。これはもしかして道に迷ったか?
男はどうしたものかと、とりあえず今まで進んできた道を引き返すことにした。しかし、どこから来たのかも分からない。かなりまずい状態になった。
その時、甘い香りがどこからともなく漂ってきた。
これは樹液の香りだ。今更探しても森から出られないのに意味がないとは思ったが、男は昆虫採集者の性として、ついその方向に足を進めてしまった。
そこにあったのはとても巨大な一本の大木だった。
幹の周囲だけで10mはあるだろうか。男が両手を広げてもとてもじゃないが抱きつけない。
そしてその表面にはものすごい量の樹液とそこに集まる虫たちがいた。鈴なりのカナブン、乱舞するオオムラサキ、そしてカブトムシにクワガタ。ここはまさに御神木と言ったところか。
太い幹は台座のようになり、歪な格好を晒していた。幹の上のほうに何やら怪しげな洞がある。男はつい、見てみようといつもの癖で幹を登り始めた。
ちょうど木の枝が張り出していて、手をかける部分もあり、幹の表面も凸凹していて足をかける場所もある。難なく大木の枝の分かれ道あたりに体を滑り込ませた。
その時、男は足を滑らせた。
なぜ幹の表面がこんなにツルツルしているのか。男は次の瞬間液体の中に身を没した。頭まで液体に浸かり、自分の身に何が起きたかも分からないままに、手足を動かし頭を液体から出した。
どうやら男が身を没した場所は、幹の凹みの部分になっていて、そこに何かの液体が溜まっているのだった。道に迷った挙句全身ずぶ濡れになるなんて。
男は急いで脱出しようと凹みの淵に手をかけた。しかし、滑る。何度やっても幹のその部分だけがツルツルしており、手がかからない。
どうなっているんだ?
男は何度も何度も脱出を試みた。その度に失敗し、再び液体の中に没した。ふと、幹の脇に誰かの眼鏡が落ちているのを見つける。その人物がどうなったのかは分からない。まさかここで力尽きたのだろうか。
いや、だとしたら死体くらいは残っているだろう。
しかしこの液体、妙に暖かい。まるで温泉みたいだ。そして、気づく。服が溶けかかっている。
信じられないがまさかこの液体はこの大木から滲み出ている消化液なんじゃなかろうか? そして男のような昆虫採集者が樹液に釣られて落ちてくるのを待っているんじゃなかろうか?
男は急いで逃げようとした。しかし、ダメだった。
体力を使い果たし、首まで液体に浸かったまま身動きできなくなった。
男は不思議と心地よさを感じてきた。体は溶けていく。しかし、もはや抵抗する気もなくなってしまった。
それから数時間後、男は完全に溶けてなくなってしまった。
オオムラサキや日陰蝶が舞い、カナブンやクワガタが樹液に群がる。
一つになった樹に昔から変わらない陽光が差し込んでいた。