忘れたい記憶
その男の悩みは電車に乗れないことだった。
小学生の時に電車の中で通り魔に遭って、彼をかばった母親が刺されて亡くなるという過去があり、それ以来、電車に乗ると動悸がしたり、気分が悪くなるようになった。医者の診断はPTSDだった。
そこで男は友人に相談し、最先端治療を受けることにした。
それは記憶除去療法。20XX年にアメリカのトニー・スイフト医師が脳神経科学の分野の研究を基に、特定の記憶に関連したニューロンの働きを抑制することで、その記憶を忘れさせる治療に成功したのだ。
この治療でPTSDやうつ病、パニック障害と言った特定の記憶に関連した精神的な疾患を大幅に緩和させることができるようになったのである。
治療自体は1時間くらいですぐ終わる。頭に半球状の機械を取り付けて、寝て起きたらもうすっかり嫌な記憶は消えている。
男も同じように治療が終わったら通り魔の記憶が綺麗になくなっていた。恐る恐る電車にも乗っていた。
すると、何のことはない。気分が悪くなることもなければ動悸が現れることもなかった。彼はPTSDを克服することができたのである。
今まで行けなかった場所にも電車を使って簡単にいくことができる。それは彼にとってまさに人生の展望が開けたと言えた。
男は新しい会社に勤め始めた。電車で通勤することができるようになったので、移動距離が広がったのだ。
しかし、男はそこで酷いパワハラを受けてしまった。結局、その会社を三ヶ月ほどで辞めることになってしまった。
以来、その記憶がフラッシュバックして、すっかり人前に出ることが苦手になってしまった。どの仕事も長続きせず、すっかり困り果てた。
そんな時でも男と友人の友情は続いていて、たびたび会って話していた。何回か会っているうちに男は友人にあることを伝えてきた。
「もう一度、記憶除去療法を受けてみようと思うんだ」
「大丈夫なのか? そんなに頻繁に記憶を消して」
「実は医者からは断られたんだよ。短期間のうちに記憶除去療法を繰り返すと脳にどんなダメージがあるか分からないって」
「じゃあダメじゃないか」
「別のところに行ってみるよ。前に受けた治療のことは隠して治療するつもりなんだ」
そう言う男を心配には思ったものの、多分大丈夫だろうと友人も深くは考えなかった。
数日後。
友人の元に男の父親から連絡が入った。
「どうしましたか? 彼のことで何か?」
聞いた。
するとこう言われた。
「息子が記憶喪失になった。記憶を戻す手伝いをしてほしい」
男は記憶除去療法を受けたのだが、記憶を全て忘れてしまったのである。
今までの記憶を全部。
友人は後悔した。あの時、もっとちゃんと止めておけばよかった。そうしたら、彼の記憶もなくなることはなかったのだと。
友人は男の記憶を思い出させるための手伝いを始めた。男自身は友人のことも忘れてしまったが。昔の思い出を共有することで何か回復の兆しがあればいいと、定期的に会っているのであった。
男は家にあるアルバムを眺めながら時々悲しげな表情をする
友人が何をみているのか聞くと、母親との写真を見ているらしい。
幼少期に亡くした母親の記憶まで忘れてしまったのが、とても悲しいと。




