イヤーワーム
男は小さな部屋の中で椅子に座っていた。
どうやらどこかの小屋のようだった。壁には木が使われており、すぐ隣には簡素なベッドがある。暖炉では静かに火が揺らめいていた。
夜のようで、窓の外は真っ暗だ。
そして、彼と相対するように椅子に腰掛けるのは、全身黒い異形の人物だった。
暖炉の火に照らされたその人物には、長い尻尾とこじんまりとした黒い羽があった。
その人物は悪魔だった。その悪魔の手には古めかしいアコースティックギターが抱かれてあった。
そうして悪魔はギターを弾きながら歌い出した。
その歌はとても魅力的でキャッチーで、すぐにでも口ずさみたくなる素晴らしい歌だった。
不意に目が覚めた。
一瞬ここはどこかと思ったが、ここは男の住むアパートの一室だった。間違いなく男の住む部屋だ。
今までのことは夢だったのだ。
しかし、男の頭の中では鮮やかにあの歌が流れていた。
男は急いで起き上がりパソコンを点けると、そのメロディを音楽ソフトで採譜していった。
そして、なんとかメロディにコードだけ付けた仮曲が完成した。なんていい曲なんだろう。男は惚れ惚れとした気分だった。
夢の中で閃いた曲は過去にもいくつかあると聞いた。悪魔のトリルなんて曲もあるくらいだ。
男の趣味はネット上に自作の曲をアップすることだった。これまで載せた曲はお世辞にも注目を浴びるような出来ではなかったが、この曲なら間違いなく話題になるだろう。こんないい曲はこれまで聞いたこともなかったからだ。
しかし、もしかしたらどこかで聞いた曲を夢の中で再生しただけかもしれない。盗作は避けたい。そこで、彼は昔の友人や職場の同僚に仮曲を披露して確かめることにした。
その反応は好意的だった。
誰もが、その歌を褒めちぎり、賞賛した。
「それ誰の曲なんだい?」
「俺の作った曲なんだ」
「まじ? すげえなおい」
「夢の中で悪魔が弾いてたんだが、どこかで聞いたことなかったか?」
「いや、初めて聞く曲だよ。絶対売れるから発表したほうがいいって」
男はその反応を後押しに、曲の制作に取り掛かった。
今ではパソコンのソフトでいろんな楽器の音を再現できるようになった。音を重ねていき、自分が納得する音源にしていく作業を続けること一週間。
自分で歌を歌い、それを音源に被せてついに曲は完成を向かえた。
これなら売れるはずである。男は確信した。
翌日、男はネット上にその曲を公開した。
この曲がバズれば、おそらく音楽会社の方からもオファーが来るのではないか。そうすれば、ミュージシャンになるのも夢じゃない。
そんな時、仮曲を聞かせた昔の友人が家にやってきた。
どうにも疲れ切ったような顔をしている。
「どうしたんだ? 寝不足か? ひどい顔してるぞ」
「ああ。実はこの間、資格試験を受けたんだ。あいにく落ちちゃったけどな」
「それはご愁傷さま」
「それがな、試験の時間になって問題を解こうと思ったら、お前の作ったあの曲が脳内を流れ始めて全然集中できなかったんだ」
「俺の曲が?」
「最近、あの曲が耳から離れなくなってな。どうしたものかと困ってるんだ」
「イヤーワームってやつか。きっと、すぐ治るよ。多分」
男はそんな話を多少気に留めつつ、勤めている会社に出社した。
すると、あの曲を聞いた同僚から相談を受けた。
「あの曲どうなってんだよ。いつも頭の中で延々とループしてるんだが、いい加減困ってしまって」
「君もか?」
「君もって? どういうことだい?」
「友人も同じことを言っていた。試験に落ちたらしい」
「悪魔が夢の中で歌ってたんだろ? 何か嫌な予感がする。この曲を発表するのはやめたほうがいいんじゃないか?」
「いや、もうネットにあげてしまったんだが」
「どれだけの人がその曲を聞いたんだ?」
「この前載せたばかりだからまだ分からない。でも、単なる一過性の現象だろ? きっと大丈夫だって。すぐ治るよ」
だが、同僚はその日の外回りで車で事故を起こしてしまい、しばらく入院することになってしまった。
男が連絡を取ると、同僚はこう言った。
「耳からあの歌が離れなくて運転に集中できなかったんだ」
この段階になって初めて男はこの曲が何らかの副作用を持っているのではないのかと疑い始めた。
原理は分からないが、悪魔が歌っていた曲だ。
男は家に帰ってすぐに、自身のチャンネルにアクセスした。
動画の閲覧数は十万回と書かれてある。
「何てこった」
男はこれから起きる出来事を想像して、体が脱力するのを感じていた。