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ブラックホール・バタフライ


「紫賀先山に殺虫剤が巻かれるらしい」


 その話を聞いたのはある日の休み時間。

 後ろの席の唐島と会話している時だった。


 俺の通っている高校はちょうど紫賀先山の南の麓に位置していた。だから紫賀先山には俺も縁がある。

 昆虫採集が好きな唐島は沈痛の面持ちで苦々しげに語る。


「紫賀先山の隣にR公園があるだろ?」


 R公園はT県にある、日本有数の和風庭園だ。広い敷地を持ち、春にはお花見に行ったこともある。


「そこの松の虫食い被害がひどいらしくて、松食い虫を全滅させるためにR公園だけじゃなく、後ろの紫賀先山も含めた広範囲に薬を撒くんだとよ」


「ほんとひどい話だよね」


 話に割って入ってきたのは小坂だった。

 彼女もまた昆虫好きで唐島と一緒に昆虫部のメンバーをしていた。


「これはもう断固抗議をしないといけないよ。誰がその殺虫剤散布を決めたのか分かる? 直接直談判してやりたい気分」


「多分、知事さんや、県議会の人、あと観光事業部の人や、R公園の管理している人も関わっているかもしれないな。直談判しても無駄だと思うよ。俺たちに何ができる? 俺たちは自然が破壊されるのを見物するしかないのさ」


「新しい採集場所探さないといけなくなるね。家から近かったから気軽に来れたのに、ほんと残念」


「なあ、野添よ」


 俺はビクッとして唐島の顔を見た。


「どうしたんだ?」と、俺。


「野添も昆虫部に入ってみないか? 昔は俺たち昆虫採集をしていた仲だったじゃないか」


「ああ、そっちね」


 この話題は過去何回も繰り返されてきた定番の誘いだった。


「いや、何ていうかさ、この歳になって人前で網とかふるうのはなんか恥ずかしくて」


 内心俺はビクビクしていた。

 昆虫採集のことではない。俺の父さんが渦中のR公園の所長をしていたからだ。



 父さんは悪い人ではない。

 しかし、殺虫剤散布なんてしようとしていたら昆虫好きの人からは敵認定されるのはわかり切っていた。


 その日の夕食の席で俺は父さんに尋ねてみた。


「松食い虫の息の根を止める薬をまくって話、どこから湧いてきての?」


「県の観光事業部の人から提案されたらしいね。このままだとR公園もひどいことになって観光客数にも影響がでかねないからと、県知事に掛け合ったらしい」


「俺の友人に昆虫採集が好きな奴がいるんだけど、今からでも計画白紙にできないかな?」


「父さんの影響力じゃあそれは難しいねえ。その友人にはかわいそうだが、新しい採集場所を見つけてもらうしかないよ」


 父さんは自嘲気味に笑った。

 

 それからしばらく経った頃だ。

 県知事が失踪した。



「知事室に入ったっきり忽然と姿を消したらしい」


 父さんが職場から帰ってくるなり、母さんにそう切り出した。

 母さんも興味津々と言った感じで台所でご飯を作りながら、会話をしていた。


 俺はゲームをする手を止めて、話に聞き入る。

 

「窓から外に出たんじゃない?」


「いや、県知事室は10階にあるんだ。確かに窓は開いていたと耳にしたけれど、窓から外に出るのは不可能だろう」


「じゃあどうやって消えたの?」


「それがさっぱり分からないんだよ。あ、そういえばひとつ。部屋に入った職員の人が変なものを見たって言っていたよ」


「何?」


「真っ黒い蝶。アゲハ蝶くらいの大きさの真っ黒な蝶が部屋の中を飛んでいたらしい。その蝶が不思議で、周りの空間が歪んで見えたらしいよ。職員が知事を探している間に、窓の隙間からどこかに逃げたらしいけどね」


 この時俺はその蝶のことを対して気にも止めていなかった。

 アゲハ蝶にも黒い模様のやつはいる。失踪には関係ないだろう。


 しかし、この考えは次の失踪事件が起きて直ちに破られることになる。

 次に消えたのは県の観光事業部の所長さんだった。


 朝、所長の家の自室から、これまた忽然と姿を消したのだ。


 

「また黒い蝶が部屋の中を飛び回ってたらしい」


 父さんの顔は蒼白だった。

 相次ぐ謎の失踪にテレビやネットも騒ぎ出した。

 何らかの政治的な勢力が暗躍しているのではないかという憶測もあったが、ネットではその奇妙な黒い蝶に焦点が当てられるようになった。


 殺虫剤散布の計画もいつの間にかネット上の誰もが知ることとなり、やがてこの黒い蝶の光を歪めるような特質に目をつけ、こう呼ばれるようになった。


 ブラックホール・バタフライと。



「つまりみんなブラックホールみたいに吸い込まれてしまったと」


 学校で俺は唐島や小坂と失踪事件のことについて話し合うこともあった。


「ネットでは紫賀先山に殺虫剤を散布しようとしたせいで昆虫たちの怒りを買って、その怨念がブラックホール・バタフライとして顕現したんじゃないかって噂だ」


「私が見た話じゃあいなくなった人は別次元へ飛ばされたんじゃないかって説もあったよ。ブラックホールがあるならホワイトホールもあるとか何とか」


「いや、これはこの世界がシュミレーションである証拠だ。文字通りあの蝶はバグ、という考えもある」


「色々な説があるんだね」と、小坂。


「紫賀先山って何か他の山と違う雰囲気があるんだよな。なんかこう、入るとまるで山が生きているって感じがしてさ。もしかしてあの山、昆虫たちにとって重要な場所だったりして」


「消えた人たちはどうなったんだろうね。やっぱりブラックホールみたいにすごい重力でバラバラにされたのかな」

 

 小坂の言葉に俺はゾッとした。

 次に狙われるのは父さんかもしれない。いや、家族も危ないのではないか? となると俺も消される可能性がある。



 そんな恐れを抱いていると、第三の失踪事件が起きた。

 今度は県議会の議長だった。議長もまた殺虫剤散布を推し進めてきた急先鋒の一人だった。


 議長は家に帰ろうとして、車に乗り込んだところで失踪した。

 家に帰ってこない夫を心配して家族が連絡を入れて、議会の駐車場でエンジンがかかったままの車を発見したのだった。


 そして、父さんの話ではその車の中にも黒い蝶が飛んでいたと。


 父さんは真っ青になっていた。

 R公園の所長なら間違いなく今度の失踪事件のターゲットにされているだろう。だから、しばらく休暇をとって父さんは家に閉じこもることになった。


 俺も学校を休みたかったが、下手に休めばあらぬ噂を立てられかねない。

 仕方なく学校には毎日通った。


 そんな日が数日続いた頃、学校からの帰り道だ。

 足早に家に向かっていた俺の目の前に、そいつは現れた。


 夕日で赤く染まった住宅街に黒いものがひらひら舞っている。蝶だ。


 クロアゲハか? いや、違う。

 その姿は完全に真っ黒で陰影が全くない。まさに暗黒。その蝶の背後の景色はまるで光がねじ曲げられたかのように歪んで見えた。


 ひらひらとこっちに向かってくる。

 一呼吸する間、茫然とその光景を見ていた。あれがいわゆるブラックホール・バタフライなのか?


 だとしたらこのままでいてはまずいのではないか。他の人たちみたいに飲み込まれてしまう!


「来るな!」


 持っていた鞄を蝶に投げつけて、俺は踵を返して逃げ出した。

 数秒もたたないうちに体が前に進まなくなる。後ろからの強烈な引力のせいだ。足を前に蹴り出しているのに地面を捉えきれず滑っていく。


 やがて体が浮いた。

 加速をつけて、吸い込まれていく感覚がした。


 そして俺は意識を失った。




 どこからかセミの声が聞こえる。

 体が暖かい。草の匂いがする。


 一体何があったのだろう。

 俺は一体どこにいるのだろう。


 ゆっくりと目を開ける。眩しい青空があった。暖かかったのは日差しのせいだ。どこかの木陰に俺は横になっている。


「目が覚めた?」


 視界にある人物の姿が映り込んだ。

 長い黒髪。俺の学校の制服。逆光になっているが、その整った顔立ちからすぐに分かった。


「小坂じゃないか」


 上半身を起こす。小坂は俺の隣で手を後ろに組んで立っていた。


「なんで小坂が? というかここはどこだ? 俺はブラックホール・バタフライに吸い込まれたはずじゃ・・」


「いいところでしょ。どこだと思う?」


「どこって・・」


 俺は周りを見回す。

 どうやら俺はクヌギの木の下の草むらに横になっていたらしい。舗装されてない道が目の前を横切り、いくつかの古民家が向こうのほうに見えた。その間には青い田園が広がっている。


「どこかの田舎って感じだな」


「70年前のS市よ」


「なんだって!?」


 俺は改めて周りを見回した。

 ここがS市だなんて。


「ちょうど紫賀先山の麓あたり。昔はこの辺りはまだ開発が進んでなかったから」


 聞きたいことがたくさんあった。ありすぎてどれから聞けばいいのか分からないくらいに。ここが70年前のS市なら俺はつまりタイムスリップしたということか? あのブラックホール・バタフライは時空間の穴だったということになる。ではなぜここに小坂がいるのだろう。


「とにかく説明してくれ」


「いいよ。すべて説明してあげる。まず言っておくけど野添君はタイムスリップしたわけじゃない。ここはいわば昆虫たちの記憶。記憶で作られた幻を見ているの。そして、世間でブラックホール・バタフライと呼ばれているのは、これね」


 手を胸の前につき出すと、掌の上に光の粒子が集まりそこに黒い蝶が現れた。ゆっくりと羽を開いたり閉じたりしている。


「私は小坂柚葉じゃない。野添君の記憶の中から適当な人物の情報を取り出して、驚かさないように馴染みのある人物の姿をしたものなの。簡単に言えば私は昆虫惑星の住人。私たちにとって紫賀先山はとても大事な場所なの。人間にとっての精神的モニュメントと同義。そして守られる場所でないといけない。それが今、そこに住んでいる住人に対して大量殺戮が行われようとしている。だから、私たちはそれを阻止するの。なるべく温和な手段でね」


「昆虫惑星の住人・・、君は宇宙人なのか?」


「昆虫が宇宙生物だという都市伝説は聞いているよね? 実はそれ、事実なんです」


 サラリと語られる衝撃の事実に俺は言葉を失った。


「まさか・・」


「ずっと過去に、ざっと4億年前ほど、私たちは地球に移住した。私たちに個人は存在しない。昆虫という存在そのものの維持、それが生きる目的。だから食べたり食べられたりしても、全体として種が進化し存続できたらそれでよかった。でも、人間が現れて私たちの繁栄は転換期を迎えた。自然は開発され、住宅街や農地に生まれ変わった。山は削られ、川はコンクリートで固められ、農地にも大量の農薬がばら撒かれた。そして、紫賀先山にも人間の手が伸びることになった。さっきも言った通り紫賀先山は私たちにとって聖域なの。だから、こんなことを始めた」


「他の人はどうなったんだよ。県知事は? 議長は? 観光事業部の所長は?」


「同じ幻を見せたよ。ターゲットの全員がこの記憶を見終わってから解放するつもり。ターゲットはあなたで最後。だから、あなたが現実に戻ったら他の人も解放する。私たちは人間の自然に対する感情にこれからを賭けたい。こんなに美しい景色が過去にあったこと、そして以前より自然が減ったとはいえ、まだいる昆虫たちを殺してしまったら将来の子供たちがどんな思いをするか・・。それをこの機会に一度考えて欲しい」


 俺は彼らの意図を理解した。今の人たちにとってマンモスやダイアウルフがいない世界の方が普通だ。だからそのことで悲しんだりしない。そうしてどんどん忘れ去られていく。

 しかし、気になることもある。


「紫賀先山はそんなに重要なところなのか? どこにでもある山の一つじゃないか」


「あの山は私たちの記憶が集まる中継地みたいなものなの。私たちは宇宙の至る所にいる。紫賀先山は宇宙と地球をつなげる重要な役割があるのよ。」


 いつか唐沢が言っていた。

 紫賀山は生きているみたいだと。人間にもその波動のようなものを感じることができるのだろうか。それが唐沢にあんな風に思わせたのだろうか。


「俺を誘拐したのは父さんが昆虫嫌いだからか?」


「ええ。あの人にこんな記憶を見せつけても逆効果になると思って。子供のあなたを連れてくる方が効果は大きいよね」


 小坂は俺に背を向けると、数歩進んで田んぼの水面を覗き込んだ。


「見て、綺麗な水でしょ」


 俺もそれに倣って覗き込む。

 そこに今では絶滅しかけている昆虫の姿を見て、目が釘付けになった。


「ゲンゴロウじゃないか」


 光沢のある暗緑色の艶のある姿が田んぼに引かれた水の中でクルクルと動いている。それも至るところにいる。農薬で壊滅的な被害を受けたと聞いていたが、70年前はこんなにいたのか。

 こんな光景を見せつけられたら他の場所も気になってしまうではないか。


 田んぼの縁を歩いて、用水路にたどり着いた。

 コンクリートで固められておらず、両岸には草が生い茂っている。


 覗き込むと何か魚の姿が見える。コイやカダヤシではなさそうだ。


「フナももう見かけることがなくなったでしょう?」


 道の脇に白いたくさんの花弁をつけた花が群生していた。

 おそらくノリウツギだろう。


 あれだけ日当たりのいいところにあるのだから何か昆虫が来ていてもおかしくない。近寄って確認してみる。


 ハナムグリは今でもちょっと山のほうに行くと見つけることができるが、俺が目を奪われたのは、白い花の上で忙しなく動いているハナカミキリのほうだった。

 ヨツスジハナカミキリの仲間だろう。小指ほどの大きさ、黄色と黒の模様でハチに擬態している。


 さらに見ていると、今度はメタリックな青色をしたハナカミキリがやってきた。

 まさに入れ食い状態だ。


「すごい。こんな景色見たことない」


 俺の中で長い間静まっていた感覚が再び沸き起こってくるのを感じていた。

 

「さっき個体の生存ではなく種としての存続が重要だと言っていたよな。絶滅しない範囲で昆虫を採ることは君達にとって許容できるのか?」


「つまり昆虫採集したくなったってこと?」


「ああ」


「昆虫と人間が共存する中で大事なのは興味を持つってことだと思うの。乱獲するのでなければ両者にとってそれはwin winの関係になると思うわ」


  目の前を一匹の蝶が横切った。

 サファイアのような 光沢のある羽。白と黄色の斑点がちらりとだが、確認できた。


「オオムラサキまでいるのか・・」


「そろそろ元の世界へ戻りましょう。私たちのこと忘れないでね?」


「忘れるもんか。父さんにも話しておくよ。殺虫剤散布はやめるべきだって」


 小坂は柔らかな微笑を浮かべた。

 その姿が景色とともにぼやけていき、やがて暗転した。


 気づいた時には、俺は夕闇の中でたたずんでいた。

 スマホで時間を確認すると、ブラックホール・バタフライに吸い込まれてから5分と経っていなかった。



 俺が昆虫たちの記憶から解放された同時刻、今まで行方不明になっていた3人も突如として戻ってきた。俺と同様に行方不明になった瞬間にいたのと同じ場所にだ。


 メディアはこの摩訶不思議な失踪事件を大きく報道した。

 失踪していた人たちは取材に対して、見てきたものを語り、結果的に紫賀先山への殺虫剤散布は立ち消えとなった。


 もしかしたら昆虫に対する愛ではなく、人類を超越した存在に恐れをなしたせいかもしれない。


 俺自身はすぐに戻ってきたため、4番目の誘拐被害者だと言うことは親しか知っていない。あの後、すぐ家に帰り、父親にさっき見たことを喋った。


 父さんは最初信じることはなかったが、他の失踪者の証言と一致していることに気づくと、関係各所に掛け合ってくれた。


「松食い虫の被害はどうなるの?」


 俺は気になって一度尋ねてみた。


「地道に対策を考えるしかないだろうね。殺虫剤が使えないなら、他の手段だよ。共存するには知恵を絞るしかない」


 父さんはそう答えた。

 


 終業式の日にはメディアの報道も下火になり、俺のもとにはいつもと変わらない日常が戻ってきていた。

 放課後、昆虫部に行こうとする唐島と小坂に声をかけた。


「紫賀先山の殺虫剤散布、中止になってよかったな」


「すべてはブラックホール・バタフライのおかげさ。感謝しないとな」


 どう切り出そうか。ちょっと雑談をして、それとなく聞いてみた。


「今でも紫賀先山にはカブトムシやクワガタがいるのか?」


「ああいるよ。いないところにはいないけど、ポイントさえ知っていれば初心者でも見つけられる」


「もしかして、野添くんも興味あるの?」


「そうだなあ・・」


 少しためらったが、ここで言っておかないといけないだろう。


「俺も昆虫採集・・久々にやってみようかなって」


 二人の顔がパッと明るくなる。


「いいね! 初心者の野添にも採れるようにサポートするぜ」


「昆虫部にも顔を出してよ。悪いようにはしないからさ」


これからどんな昆虫との出会いが待っているのか分からないが、とにかくまだまだ夏は終わりそうもない。   


 

 

 

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