1 プールサイド
中学二年生に進級すると、梅子も卒業して和影はまた一人になった。
向坂家の長男玄一は、既に医者を目指して上京しており、次玄と梅子はそれぞれ近くの町にある高校に進学していた。
和影は相変わらず一輝と杏次郎を小学校に送り迎えしていた。放課後、校庭で練習している生徒達を見て羨ましく思うこともほとんどなくなった。
家では時々杏次郎の合気道の相手を務めるようになった。杏次郎は、もともと素質があったのか思いの他上達していて、和影もうっかり気を抜けなかった。
学校の授業は、裁縫やらスケッチやらの時間がかかる類の宿題を除くと、伯父が昔言った通り難しいことはなく、和影は暇を持て余して武道の練習を増やした。尤も、実地に使う機会は幸いにしてなかった。
夏休みには、例年のことではあるが、一輝が早朝のラジオ体操に参加する時も、小学校のプールに通う時も、杏次郎と一緒にお供をした。
杏次郎まで一緒に通ったのは、それぞれ出席を取られて夏休み明けに学校へ提出しなければならないのと、出席回数が一定回数以上になると、ご褒美がもらえるからである。
ラジオ体操は子ども達の後ろで一緒に動いたが、プールでは隅に座って一輝を見守るのが常であった。
小学校にはプールがなく、和影も小学生の頃は水泳の授業があると中学校まで列を作って歩いていったものである。
夏休みには一般の人にも開放されて、形ばかりの使用料を払えば誰でも泳げる仕組みになっていた。
暑い日などは、大人も子どもも入り混じって芋洗いのように混雑し、まっとうに泳ぐのが困難であった。
和影は守護人として当然泳げるのだが、着替えに手間取って一輝を待たせるのを嫌い、服を着たまま麦藁帽子の蔭からプールを眺める次第となったのである。
中学校のプールであるから、和影の同級生もいて、泳ぎに疲れたり飽きたりすると、よく和影の座っている場所まで来て声を掛けた。
まず泳がない理由から始まり、ひとしきり話しては、またプールに戻っていくのであった。どうして泳がないのか聞かれると、和影はいつも弟を指差してその理由にした。
「やあ、いつもここにいるんだな。泳がないの」
珍しく、片瀬という同級生が和影の側へ来た。
暑い日で、プールも混雑していた。和影は、いつものように麦藁帽子の蔭にすっぽりはまるようにして座っていたが、片瀬の問いに対しては腕を大きく伸ばし、杏次郎を指差して答えた。杏次郎は泳ぎが上手くないので、一輝に教わって端の方で少しずつ泳いでいた。
「弟の面倒を見ないといけないから」
「ふうん。ここへ座ってもいい?」
「どうぞ」
和影は、片瀬から滴る水で自分の服が濡れないように、少し脇へ避けた。
片瀬はどっこいしょ、と言いながら、和影の隣へ腰を下ろした。
片瀬とは小学校が別々だった。家は町に近い方にあり、両親ともに高校の教師で、本人も将来は教師を目指しているという噂だったが、飛び抜けて勉強ができる訳でもなく、演劇部に所属していながら舞台で主役を張ることもなく、好んで裏方を務めるような生徒だった。
片瀬は和影と並んでしばらくプールを眺めていた。夏の強い日差しがじりじりとプールの周りの石畳を焼き、片瀬から流れ出た水を急速に温めて湯気を出している。
「今年の発表会で、四谷怪談をすることになったんだ」
「ふうん」
「去年文化祭で、青柳はお岩の恰好をしていたよな」
「うん」
「化粧を教えてくれ」
「え」
思わず和影は片瀬を見た。片瀬はプールを見つめたままである。普段服を着ているか遠くで泳いでいるのが何となく視界に入るだけなので気が付かなかったが、こうして近くで見ると、舞台の裏方で鍛えられた筋肉が真っ黒に日焼けした肌を逞しく盛り上げて、ぴんと張り詰めた皮膚の上を水が滴となって次々と転がり落ちている、男くさい容貌だった。
和影は動悸が高まるのを感じてプールに視線を戻し、一輝を探した。
一輝は根気よく杏次郎に泳ぎを教えていたが、杏次郎は飽きてきたのか、和影を探して手を振った。和影も振り返した。
片瀬は和影の視線に気付いた様子もなく、話を続けていた。
演劇部の発表会は秋の文化祭で行うので、これまで怪談を演じたことがなく、予算の関係上わざわざお岩顔のゴム製のマスクを買うこともできないし、なんとか手持ちの化粧品で顔を作ろうとして夏休みを利用して試行錯誤しているものの、上手くいかないということだった。
和影が自分でどのようにしてお岩の顔を作ったのか思い出しながら話をしかけると、片瀬はちょっと待ってくれ、と話を遮った。
「メモにとりたいけど、今日は用意していないから、悪いけど今度会った時に教えてくれないか」
「私が書いてきてあげようか。今度いつ会うかわからないし」
「でもプールにはまた来るだろ」
和影は返事を躊躇った。例年、そして今年の一輝の行動から考えると、まず今日でプールに行くのを止めることは有り得ない。しかし、小学校から課せられたプール通いの目標は達成していたので、明日から行かない、と言われれば無理矢理連れて行くことはできなかった。
「弟次第で来るかどうかわからないから、もししばらくプールに来られないようだったら、私が書いてくることにするわ」
「そうか。じゃあ、そうしてもらうよ。悪いなあ。でも助かるよ」
どっこいしょ、と片瀬は立ち上がり、和影に手を振って空いてきたプールへ飛び込んだ。
盛大な水しぶきが飛んで、少し離れていた周りの子ども達がきゃあ、と歓声を上げた。
間もなく一輝と杏次郎が揃ってプールから上がってきた。
「姉様は男の人によく声を掛けられるね。今日の人なんか、姉様より強そうで恰好よかったから、いっぱいお話ししていたんでしょう。ちゃんと一輝様を守護しないとだめだよ」
「何馬鹿なこと言っているの。あんたこそ、泳ぎを教わったりなんかして、一輝様のお手を煩わせてはだめでしょう」
「やっぱり男の人ばっかり見ていたんだ。僕、ちゃんと泳げるもんね」
ませた杏次郎は得意げに言った。和影は一輝に目で問いかけた。一輝は姉と弟に挟まれて困った様子である。
「わかったから、早く着替えてきなさい。一輝様、お待たせしてすみません」
和影は話を切り上げて、杏次郎を促した。
幸い翌日も一輝はプールに行きたいと言ったので、和影はプールサイドで片瀬に四谷怪談のお岩の化粧を教えることができた。